個人競技種目とは残酷なものだと痛感:
少し遅れ気味の話題になるが、桐生祥秀がオリンピック予選で敗退してしまった辺りを見ていて「個人競技種目というものは、何とも冷酷なものだ、残酷なものだ」と痛感させられていた。桐生君は我が国で最初に100 m走で10秒を切った、言うなれば功労者だと思って見てきた。だが、勝敗は時の運というような言い方があるようで、彼は一発決定の最終予選では、彼自身の個人的な最高記録に遙かに及ばぬ走りで、5位に沈んでしまった。この辺りに個人競技の難しさがあるのかと、正直なところ「彼の功績が報わなかったのは気の毒だな。苛酷だな」とすら感じて観ていた。
長いこと私なりにサッカーをやって来たので、サッカーのような団体競技にも「当日の調子」があって、自分でも素晴らしい出来だったと自負した日もあれば、テイームの皆に申し訳なかったと謝りたい程出来が悪い日もあるのだと承知している。
その大きな落差は如何に懸命に練習を積んできたかであるとか、こうすれば良いのだろうと自分としての最善のプレーが出来るように研究してあっても、当日の体調や調子の良し悪しを離れた何かがあって、不出来に終わってしまい皆に迷惑をかけることがあったと経験してきた。だが、そこがそれ団体競技の良いところであって、皆で誰か不調な者を補って何とか勝利に持って行けることもあるのだ。
私は人の体というものは不思議なものだと思っている。80歳を超えても尚且つウイルスが襲来する前まではジムに通って、500 mほどはインドアトラックで歩くようにしていた。その「歩き」だが、当人は全く何時も通りに歩いているつもりでも時計を見ると驚く程早く、と言っても100 mを70秒程度のことだが、歩いていて、顔見知りの人たちに「元気ですな」と褒められる日があるのだ。かと思えば、自分では全速力だったつもりでも、80秒も90秒も費やしていたこともある。私はこれが「バイオリズム」というものなのかなと割り切っている。
桐生祥秀君だが、アキレス腱に故障があったと報じられていた。そこで、思うにと言うか同情することは「あの最終予選の日はその目に見えない人体の調子の波が底に沈んでいたのではなかったか」と思うのだ。しかし、如何にせん個人種目である以上、誰かが手を添えて助けてくれる訳でもないので、10秒間ではその落ち込んだ波から立て直しきれなかったのではないのかな」などと考えているのだ。
最後に恥を忍んで昭和25年の神奈川県予選の準決勝の回顧を。勿論、サッカーのことである。恐らく我が方は昭和23年の国民体育大会で決勝戦で負けた頃の力の半分もないだろうと思う程弱体化していた。それでも、その試合は宿敵の小田原高校を後半の終わり近くまで1対0と押していた。ところが、もうあと一息というところで、当日風邪を押して出ていたと後になって知ったキャプテンのO君の弱点を突かれて、立て続けに2点を奪われて泣くに泣けない敗退となった。
監督は「重大な試合を前に健康管理を怠ったキャプテンの責任である」と大目玉だった。我々3年生は高校生活最後の試合を失ったのはO君の所為であるとしか考えられず、彼を庇ってやることが出来なかった至らなさなどをすっかり忘れていた。正直なところ、何故彼があれほど不調だったのかは試合が終わって彼が告白するまで知らなかったのだ。何となく言いたい事は「団体競技でも問題がある者が1人でもいれば、そこが「蟻の一穴」となって負けてしまうものだ」と学んだのだった。だが、高校の最後の試合で学んだのでは、少しばかり遅かったのだった。
少し遅れ気味の話題になるが、桐生祥秀がオリンピック予選で敗退してしまった辺りを見ていて「個人競技種目というものは、何とも冷酷なものだ、残酷なものだ」と痛感させられていた。桐生君は我が国で最初に100 m走で10秒を切った、言うなれば功労者だと思って見てきた。だが、勝敗は時の運というような言い方があるようで、彼は一発決定の最終予選では、彼自身の個人的な最高記録に遙かに及ばぬ走りで、5位に沈んでしまった。この辺りに個人競技の難しさがあるのかと、正直なところ「彼の功績が報わなかったのは気の毒だな。苛酷だな」とすら感じて観ていた。
長いこと私なりにサッカーをやって来たので、サッカーのような団体競技にも「当日の調子」があって、自分でも素晴らしい出来だったと自負した日もあれば、テイームの皆に申し訳なかったと謝りたい程出来が悪い日もあるのだと承知している。
その大きな落差は如何に懸命に練習を積んできたかであるとか、こうすれば良いのだろうと自分としての最善のプレーが出来るように研究してあっても、当日の体調や調子の良し悪しを離れた何かがあって、不出来に終わってしまい皆に迷惑をかけることがあったと経験してきた。だが、そこがそれ団体競技の良いところであって、皆で誰か不調な者を補って何とか勝利に持って行けることもあるのだ。
私は人の体というものは不思議なものだと思っている。80歳を超えても尚且つウイルスが襲来する前まではジムに通って、500 mほどはインドアトラックで歩くようにしていた。その「歩き」だが、当人は全く何時も通りに歩いているつもりでも時計を見ると驚く程早く、と言っても100 mを70秒程度のことだが、歩いていて、顔見知りの人たちに「元気ですな」と褒められる日があるのだ。かと思えば、自分では全速力だったつもりでも、80秒も90秒も費やしていたこともある。私はこれが「バイオリズム」というものなのかなと割り切っている。
桐生祥秀君だが、アキレス腱に故障があったと報じられていた。そこで、思うにと言うか同情することは「あの最終予選の日はその目に見えない人体の調子の波が底に沈んでいたのではなかったか」と思うのだ。しかし、如何にせん個人種目である以上、誰かが手を添えて助けてくれる訳でもないので、10秒間ではその落ち込んだ波から立て直しきれなかったのではないのかな」などと考えているのだ。
最後に恥を忍んで昭和25年の神奈川県予選の準決勝の回顧を。勿論、サッカーのことである。恐らく我が方は昭和23年の国民体育大会で決勝戦で負けた頃の力の半分もないだろうと思う程弱体化していた。それでも、その試合は宿敵の小田原高校を後半の終わり近くまで1対0と押していた。ところが、もうあと一息というところで、当日風邪を押して出ていたと後になって知ったキャプテンのO君の弱点を突かれて、立て続けに2点を奪われて泣くに泣けない敗退となった。
監督は「重大な試合を前に健康管理を怠ったキャプテンの責任である」と大目玉だった。我々3年生は高校生活最後の試合を失ったのはO君の所為であるとしか考えられず、彼を庇ってやることが出来なかった至らなさなどをすっかり忘れていた。正直なところ、何故彼があれほど不調だったのかは試合が終わって彼が告白するまで知らなかったのだ。何となく言いたい事は「団体競技でも問題がある者が1人でもいれば、そこが「蟻の一穴」となって負けてしまうものだ」と学んだのだった。だが、高校の最後の試合で学んだのでは、少しばかり遅かったのだった。