新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

我が国のマスコミを批判する

2015-04-22 08:00:05 | コラム
ニューヨークタイムスの誤報と曲解を笑う:

頂門の一針の第3637号で、杉浦正章氏が“NYTの「上から目線」と「誤報体質」が目に余る”と題してニューヨークタイムス(NYT)を批判しておられたが、私は誠にご尤もであると思う。その今回の安倍総理の訪米に関しての誤報振りを、杉浦氏のお説の冒頭部分を引用してご紹介しておく。

>引用開始
社説は事実誤認・曲解の山
 
昔のニューヨークタイムズは世界で最も信頼すべき新聞と信じていたが、近年の同紙はニューヨークのタブロイド版よりひどい事実わい曲に満ちて
いる。

主張がリベラルで、同紙お得意の用語「右翼」呼ばわりの反対の「左翼的偏向」しようが、編集方針は自由である。販売部数が激減して、もっぱら電子版に頼らざるを得ない経営状況なのも勝手だ。

しかし、その経営状況の悪化が反映でもしたのか最近の質の低下と記事の“粗雑さ”は目に余るものがある。その象徴が20日付の「安倍首相と日本の歴史」と題する社説で、まさに「誤報の山」だ。

まず第一にあきれるほどの「上から目線」であることだ。社説は「安倍首相の訪米が成功するかどうかは戦時の歴史に安倍氏が誠実に向き合うかどうかにかかっている」と指摘し、慰安婦問題を含め中国と朝鮮半島に与えた被害を直視すべきだと要求した。

どうも東京駐在の欧米特派員は自分の国の有様を棚に上げて、普段から日本を低開発国並みに「教育的指導」する傾向が強く、社説もこれに影響される。しかしもう明治維新ではない。

安倍が誠実に向き合おうがどうしようが他国の3流記者に事実誤認だらけの指摘をされるいわれはない。どうしても「歴史認識」に引っ張り込もうとしているようだが、まず今回の日米首脳会談の位置づけを大きく誤っている。

>引用終わる

私は我が国のマスコミは未だにNYTだのワシントンポスト紙(WP)を有り難がっているようなことは、奇妙な現象だと思っている。我が国の罪なき多くの国民の皆様を意図的にミスリードする罪深い行為だ。現に、今朝もどこかの局で杉浦氏が指摘されたNYTの誤報と曲解の記事を報じて「アメリカの有力紙であるニューヨークタイムスが」から入って来ていた。

私が以前にも指摘したが、ワシントンポスト紙が鳩山元総理を”loopy”呼ばわりした際に、オレゴン州のポートランドに住むIntelのdirectorである友人のJimにこの件を確認すべくメールを出したところ、「私はポートランドに住んでいると知っているだろう。ここではワシントンポストなど読んでいないから知らない」という返事が来たのだった。

即ち、何度でも言うが、NYTもWPも言わば我が国の地方紙というか県紙であってアメリカ全土で広く読まれている訳ではないのだ。アメリカ全国で読まれているのはウオールストリート・ジャーナルとUSA Todayくらいのものである。その一地方紙であるNYTは極めて左巻きであるくらいは我が国のマスコミでも知らないはずはないだろう。ではあっても、彼等は依然として「NYT様がこう仰った」としてその曲解と誤報を採り上げて報じている。

という次第で微力ながら杉浦氏のお説に敬意を表し賛同させて頂く次第。

「お会いする」は疑問だ

2015-04-22 07:19:01 | コラム
「お会いする」への疑問:

私はこの言葉遣いが気になるのです。敬語のつもりで政府高官からAHOなテレビタレントまでの間で広く使われているのだと思うのですが、違和感があります。大体からしてローマ字にすると「oai 」で母音ばかりでは、「青木」=Aoki が「エイオキ」になってしまう外国人には、まともに発音して貰えないかと危惧します。

Atokでは「お会いする」と入れると「お目にかかる」という敬語があると注釈が出てきます。私もその方が自然だという気がします。「会いに行く」や「会ったことがある」では失礼に当たるのでしょうか。

また、何処かの野球解説者が言い出したのか、あるいはテレビタレントか知りませんが、「私の中で」というのが一般的になった気がします。これは「私が思うには」、「私か感じたところでは」、「私の意見では」、「私の感覚では」、「私の捉え方では」、「私の脳裏には」等々のように具体的な記述が出来ないか、思い浮かばないのか、あるいはそこまで国語を知らないのかの何れかで、国語教育の至らなさを聞く気がします。

そこで、「お会いする」への疑問を解決すべく、多くの大学で国文学を教えておられるKS氏に伺ってみました。その答えを下記に引用すると

「お会いする」について:
基本的に、自分の動作やそれによって生じた結果に、「お」をつけるのは敬語としては間違っています。 ですから、本当なら「お返事をさしあげる」も誤用です。

「お会いする」の場合、「会う」の主語は「私」ですからこれも本来は正しくありません。おっしゃるとおり、「お会いする」は「お目にかかる」と言う方が無難です。>

となっていて、一安心でした。さらに後段の疑問である「私の中では」についても以下のように解説して頂けました。

<これは近年生じた新しい表現と言えます。すこし前の解説者は「自分としては」の意味で「わたくし的には」とよく言っていました。「わたくし的には」がずいぶんバッシングされたので、それに代わる言いまわしが発生したのだと思われます。

私のように、日常的に古文に接している人間には、「新しい言いまわし」が生まれてくるのは止められない、という諦念があります。が、それにしても。江戸時代の書き言葉と現代語の乖離は、19c英語と現代英語のそれと比較にならないほど隔たっています。

きちんと勉強しないと、日本語をきちんと話せるようにも、書けるようにもならないという意識が、現代の中等初等教育の現場においても希薄過ぎる気がしてなりません。>

KSさん、有難う御座いました。

我がマスコミのTPP交渉の報道への疑問

2015-04-21 08:21:24 | コラム
アメリカの通商代表部は落としどころや妥結点を探りには来ない:

甘利担当大臣とUSTRのフロマン代表との交渉は、本21日の朝3時までをかけても結論には達しなかったようだ。私はこの間のTPP交渉についてのマスコミ報道には極めて疑問な点があると思っている。以前から指摘してきたことだが、アメリカ側が落としどころだの妥協点だのを模索するために遙々ワシントンDCから飛んでくる訳がないのだ。

私がアメリカの会社に20年以上の勤務して対日交渉を続けてきた経験からだけではなく断言してきたことは「彼等の文化と思考体系の中には”妥協”だの”中間を採る”だの“落としどころを探る”等という交渉術はないのだ。何度も言ってきたことだが「これを言うことで失う物はない」という強硬な線から交渉を始めるのは常識だし、押しきるか押しきれないかを争うのが彼等の交渉術だ。妥協=compromise等はプレーブックには載っていない。

彼等の精神は”It’s a mistake, if you don’t buy from us.”と言い出すところにあるのだ。即ち、「気に入らないのならば、他に行って売ってくるだけ」と、我が国の思考体系からすれば高飛車だとしか思えないことをサラッと言うのだから。彼等の言う”debate”はここから始まるのだと思っていれば良いだろう。

そこに今回は米の輸入量を17万5,000 ton にせよと言いだした以上、フロマン代表はオバマ大統領のお使い奴ではない以上、「そうで御座いますか」とばかりに日本側が固執する5万 ton との中間点を探ることなどあり得ないのだ。自動車部品の関税撤廃にしたところで同じで、撤廃を先延ばしにすると主張して彼等は失う物がないではないか。甘利大臣がもしも何か落としどころを模索しているのだったならば、それは側近の官僚の失態であろう。

それでは何時まで経っても終わらない交渉になってしまうとご懸念の向きには、私がこれまでに何度も彼等が用意してくる”contingency plan”があると言ってきたのをお忘れかと申し上げたい。即ち、彼等は交渉決裂がある場合を先読みして、それに備えて「二の矢」や「三の矢」までも準備してくるものなのだ。しかし、最悪の場合でも「三の矢」が「妥協」であることはあり得ないが。

私は現在あのアメリカ史上でも最悪の部類に入るオバマ大統領が置かれた立場は、非常に苦しいだろうくらいは解っている。中国にあそこまでコケにされてAIIBでも優柔不断振りをさらけ出せば、TPPくらいは何としても纏め上げて置かないと、キューバとの国交回復くらいしか歴史の隅に名が残らないのだから。フロマン代表も何としても”result”を残さねばならないだろう。その意味では甘利大臣も質こそ違え、苦しさは同じではないか。

私如きにはフロマン代表のブリーフケースにあと何本の矢が入っているかなど知る由もないが、マスコミは好い加減に落としどころ報道や妥結点探りばかり言わずに、日米間の交渉術の違いでも指摘して、フロマン代表の苦悩でも語ってみたらどうか。私はフロマン代表が「無条件で米は10万 ton で良い」などと妥協するようだったならば、「日米企業社会における文化と思考体系の違い」を論ずることから撤退せねばなるまい。

48歳と1ヶ月24日の三浦知良がまた得点した

2015-04-20 10:19:14 | コラム
三浦知良には彼の選んだ道を進んで貰いたい:

張本勲に激励された結果か三浦君がまたへディングで得点した。48歳と1ヶ月24日だったそうだ。偉いものだ。

そこで、私が48歳の時にどのような(「どのように」でも良いが)サッカーを楽しんでいたかを思い出してみた。暫し、回顧談にお付き合い願いたい。正直なところ記憶力を誇る私は「藤沢四十雀」というクラブに何時加盟し、何時止めたかの記憶がないし、記録も残していないのだった。しかし、間違いなく1976年には入っていたし、81年までは嬉々として試合に出ていた。ということは48歳まではサッカーをやっていたことになる。

このクラブは極めて大らかなもので、40歳以上の人が集まっており、上を見れば嘗ては関東大学一部リーグの正選手(一本目でも良いか)もいれば、下には(失礼だが)サッカー経験がない素人の方もいて、皆で楽しくリクリエーションとして楽しんでいられるような組織だった。

私は全国制覇を逃した高校の頃は兎も角、関東大学四部リーグの花形?だったが、卒業後5年ほどは母校の非公認コーチを務めた後はサッカーと縁を切った形だった。そして、1976年には16年の空白を経て、見知らぬ人たちの中に入ってボールを蹴ることになった次第だ。

そこで驚かされたのが靴とボールの進歩と変化だった。物がなかった中学から高校の時期と大学の頃には考えられなかったほどキック力が向上したと思わせられたほど、球を遠くまで蹴ることが出来たのだった。同じクラブや対戦相手となったティームにいた高校の下級生だった連中に「40歳を超えてなおキック力が向上した人を見たことがない」と皮肉とも褒められたとも採れることを言われた。

しかも、嘗ては雲上人とまでは言わないまでも自分たちの四部リーグでは手の(足の?)届かない名選手だと思っていた連中も、40歳を過ぎればただの小父さんだったのにも「案外なものだ」と痛感させられた。思うに、彼等は一部校ので猛練習と厳しい試合を続けたために体力を使い果たしてしまったのに対して、碌な練習もせずに過ごした四部校の出身者には未だ高校当時の体力がある程度維持出来ていたのだろう。

回りくどい言い方だったならばお詫びするが、私は往年の名選手の中に入って体力とキック力の点ではひけを取らずに、楽しくリクリエーションとしてのサッカーが出来たのだった、48歳になっても。そう考えてくると、三浦君は高校の頃に一念発起してブラジルに渡って技術に磨きをかけ、全日本代表となるまで鍛え上げたことは、生半可な練習量ではなかったはずだ。

しかも、往年のスピード感も見えず、持ち過ぎることもないとは言え、自分の子供のような年齢の者たちの中に入って試合に出て、しかも得点出来ている体力と精神力を維持していることは誠に素晴らしいものがあると言って賞賛して良いだろう。私は体力も精神力も個体差というか個人差があると思っているので、三浦君が今後とも周りや張本が何と言おうと気にせずに、我が道を進んでいけば良いと思う。

しかし、重ねて言うが「晩節だけは汚さないよう」十二分に注意して貰いたいものだ。

大量の難民を乗せた船が転覆

2015-04-20 09:30:42 | コラム
地中海で700人もの移民が乗った船が転覆:

報道によれば、イタリアの沖でこれだけの大量の移民(難民?)を乗せた船が転覆し、約50人が救出されたとあった。私は救われたそのアフリカ系アフリカ人(妙な言い方だが「黒人」という表現を避けるとこうなってしまう)たちがアフリカや中近東の紛争中の地域から逃れてきたと聞いて、「我が国はそのようなところから遠く離れていて良かったのではないか」というのが偽らざる実感だった。

同時に既に合法・非合法の移民の流入に悩まされているヨーロッパの諸国は、このような形で絶え間なく混乱する自国から逃れてくる大量の難民を受け入れざるを得ない立場に追い込まれているのかと、あらためてその苦しみが何となく解る気がした。さらに、我が国には何時の日にかアジアなのか大陸なのか予想もしたくないが、紛争から逃れた移民があのような形で流れ込もうとしたらどうやって対応するのかと思うと、空恐ろしくなってきた。

政府や一部の政治家は我が国の若年労働者の不足を補わんが為に、近隣の諸国からの移民の受け入れを唱え始めている。これには賛否両論があるが、私は受け入れには反対を唱えたいのだ。

私は別に差別論者でも何でもないが、我が国は何処の国とも国境を接していないために、異文化と異なる宗教を持つ人々との交流に未だ不馴れであると同時に、外国人に必要以上に気を遣いすぎているし且つ又親切すぎる点に、限りない不安を感じさせてくれるから反対を唱えたいのだ。

考え過ぎかも知れないが、あのような大量の移民を乗せたヨーロッパを目指す船の地中海での転覆が続いていると聞かされて、ヨーロッパの諸国の苦悩がその辺りにあるのかと、認識させられたのだった。事実、既にヘイトスピーチ問題も起きていれば池袋には中華街設置反対論もあったし、ここ大久保百人町界隈にはKoreatownの繁昌と衰退があるではないか。その辺りに十分な対応が出来ていないのが現状ではないか。

国際化だのグローバリゼーション等という言葉は聞こえは良いが、オーストラリアやカナダでは既に中国や韓国からの大量の移民の流入にあって、法的な制限策を講じ始めたではないか。あの地中海での転覆を見て、私は最早「対岸の火事」と思って見ていられない時が迫ったのではないかと感じたのだ。同時に、それが杞憂に終わって貰いたいと願っているのだ。