新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

リハビリの効果

2015-04-19 11:07:07 | コラム
「頂門の一針」第3034号の向市真知様の「リハビリって何」に思う:

向市様がその中で下記に引用するように論じておられたところが、私には最も印象的だった。

<しかし、患者、家族の方はリハビリは療法士がするものと思い込んでいるケースが多いように思います。よく言われるのに「リハビリが少ない」、
「リハビリをしてもらえない」というクレームがあります。療法士がするものだけがリハビリなら、診療報酬上点数がとれるのは一日20分から180
分です。

「リハビリを受けさせたいから入院させてほしい」とよく言われますが、一日の何分の1かの時間のリハビリだけで「再び生きる」道のりを前に進むことはむずかしいものです。あとの時間をベッドに寝ているだけでは、何の意味もありません。「リハビリのために入院している」というだけの安心感の意味しかありません。

いくら日本一の理学療法士の訓練をうけたからといって、患者本人が「リハビリをする(再び生きる)」心構えになっていなければ、空振りに終わってしまいます。

と指摘しておられた。私には「空振りに終わってしまいます」とされた最後の節に感銘を覚えた。

私は2月11日に退院出来た25日間の入院中の最後の週に、まずは最初の4日間のリハビリを開始させられた。敢えて「させられた」と言うのは正直なところ「何で主治医はこんな事をさせるのか」との思いがあったからだ。心不全の大病をした私には過剰負担かも知れないし、どれほどの効果があるのかとも少し疑問に感じたのだから。

一方、私はnaiveにも、心の片隅では「退院出来た後には、発症以前の身体に近い状態に戻れて、元の生活が出来るのでは」との何の根拠もない期待感があった。しかし、同時に「もう、俺はこの弱った心臓で残る人生を過ごさねばならない身体だ」とも本気で憂いていた。そう思いつつも「この世には止まない雨はないし、明けぬ夜もないはず」と信じていた。即ち、「回復出来ぬ事はないはず」とも思っていた。

そして、退院後は毎週の水曜日にリハビリに通い続けている。それは病院側の行き届いたリハビリの進め方に「これを続ければ必ずその先に何かがあるはずだ」と解ってきたし、理学療法士の励ましと丁寧に回復の状況を教えて貰えることで、「何とかなるかも知れないし、此処まで来たのだから何とかせねば」という意欲が湧いてきたのだった。リハビリに通うこと自体が楽しみになって来たのだった。

私には未だ道半ばでこの先何処まで行けば「雨が止み、夜が明ける」のかは解らない。だが、以前にも述べたが「トンネルの先見えた灯り」が段々に明るくなってきたのは確かだ。当初は惰性に近いような好い加減な心構えで通ったいたリハビリに、真剣になって来た結果が出たのだと思う。「再び生きる」心構えになって来たようだ。

三浦知良対張本勲

2015-04-19 10:23:47 | コラム
張本勲の「後進に道を譲れ」論は判定負け:

張本は先週のTBSのサンデーモーニングでJリーグ最年長得点を決めた三浦知良に引退勧告としか言えない発言をした。三浦はこれに対してサラッと「激励と採る」と受け流した。しかし、この張本勧告はそれなりに大きな反響があった様子だった。即ち「大きなお世話」とこれから先の三浦の活躍に期待する声があれば、あからさまに張本批判もある一方で賛成論もあった。

本19日の同じ番組で張本は三浦の受け止め方を「誰にでも出来ることではない」と賞賛して「天晴れ」を出していた。私は言うなれば、三浦の判定勝ちだったと見ていた。

私はどちらかと言えば「大きなお世話」論で、三浦の好きなようにやらせておけば良いと思っている。彼と同年代で一時代を築いた連中はほとんどが指導者か解説者(という名の説明者)に転じている中で、三浦だけが好きこのんで一選手を続けている。しかも2部リーグで言わば補欠扱いである。彼はそれに甘んじて好きなサッカーを続けているのだろうと私には見える。

私には三浦には「晩節を汚さないように」とだけは言ってやりたい思いだ。私は全盛期の三浦を「持ち過ぎの嫌いがある」と批判し続けたほど、彼は「球をキープする」傾向がある型の選手だった。今や世界の50位台にランクされるようになった我が国のサッカーでは、かの釜本も嘆くように「キープしないサッカー」になっている。であれば、横浜FCも三浦のような過去の大選手は使いにくいだろうし、彼自身もそれは先刻承知だろう。

即ち、私は「三浦ほどの選手は自分が何時になったら引くべきかくらいも承知しているだろう」と推察する。私はそのように三浦を見ているので「好きなようにさせておけば良いのではないのか」と考えている。故に、張本の勧告は「余計なお世話」だったのだと思うのだ。

体調は回復途上にあるが

2015-04-18 14:40:06 | コラム
理学療法士に勧められて歩く範囲を広げた結果は:

国際医療研究センターでの15日のリハビリテーションで理学療法士に「折角此処まで来たのだから、無理がない程度で行動範囲(=散歩の距離の意味)を広げていくように」と勧められ、「やれ嬉しや」とばかりに16日には片道25分近くもかけて職安通りを往復し、17日には高田馬場駅前まではバスで行き帰路はたまっていた用事を足しつつ25分ほど歩いてみたのだった。

何れの日にも道中は幸いにも好天に助けられて快調だった。だが、16日の帰路では「一寸図に乗って遠くまで行き過ぎたか」と多少後悔はしていた。

矢張り後悔先に立たずで、昨夜はやや疲れも出て8時には眠気を催したので早寝にしてしまった。そして今朝だが、身体全体がややだるく頭も余り良く回転してくれず、何かPCに打ち込もうかという意欲も構想も湧いてこない状態だった。昼前に近所まで買い物に出たが、足も昨日までのようには軽くは運ばず、体調が安定期に入ったと療法士に言われたとは言え、回復の度合いもこの程度だったのかと思い知らされた。

しかし、2月の退院以来悩まされ続けていた腸の具合はやや好転の兆しを見せてくれたのは救いであった。思うに、これは栄養士、理学療法士、薬剤師から聞かされていた「コーヒー・紅茶等のカフェインを含む飲料は極力避け精々1日に1杯程度に抑えること」を一歩進めて、15日以降は全く排除したことも少しは手伝っているのかなと愚考している。

そうではあっても、本日は午後2時半現在でも頭の回転は思うに任せず、ボンヤリとテレビを眺めているのが精々で、この程度の現況報告が精一杯で、ここまでに止めざるを得ないのである。目下のところ疲れが最も顕著に出ているのが足で、あれほどの大病からはそう簡単には回復出来ないものだとあらためて思い知った次第だ。

近頃不快に思うこと

2015-04-17 15:48:27 | コラム
昨今不愉快に感じること:

沖縄県知事の思い上がり:
何と言っても翁長沖縄県知事だ。彼は一体何様の積もりでいるのか。本17日に初めて安倍総理と会う機会を与えられたと報じられている。何を言うかは解っていたが、終了後の記者会見で「たとえ意見が異なっていても、会えたことに意義がある」と言ったのはまだしも「オバマ大統領に沖縄県民はこれ以上基地を必要としていないと伝えて貰いたいと申し上げた」とほざくに至っては論外であるだけではなく、不愉快を通り越した思いがあった。

私にはどうしても解らないことがある。それは「何時から一県知事が一国の総理大臣に面会を求め、しかもその会談中に他国(同盟国)の大統領に自分の主張を伝えよと要求する権利か権限か知らぬが、保持するようになったのかということ」だ。誰が彼をそこまで言っても良い(やっても良い)とつけ上がらせたのか、あるいは認めたのだろうか。それが解らないのだ。あの態度が不愉快千万なのだ。

またマスコミも事前に「会談では平行線を辿るだろう」とシャーシャーと予測して見せるのはおかしくはないか。「総理と知事の基地に対する方針は異なっていると解る結果になるのでは」辺りであるべきだ。翁長知事は河野洋平と示し合わせて中国に行くような媚中派であるし、先の辺野古の工事差し止めのデモ隊の中には「何れ沖縄は独立するのだから」と喚いていた高齢のご婦人がいた。知事とその取り巻きはその辺りが民意だとでも言いたいのだろう。

全国の神社仏閣に油状の液体をまき散らす:
私は正直に言わせて貰えば、この一連の不届き極まりない行為を続けている者が、我が国の人間ではないと良いのだがとすら思っている。それほど不敬であり、不信心であり、国を傷つけることであり、この上なく悪い行為であると、最早形容すべき表現が簡単に思い付かないほど非常に不愉快に感じている。単独か複数の者の悪行か知らないが、私は警察の内偵はそこそこ進んでいるが、捜査の進捗状況を公開していないだけだと信じたい思いで報道に接している。一刻も早くこの不届き者/sを逮捕して貰いたいと念じている。

ヒラリー・クリントンの大統領選出馬を持て囃すマスコミ:
私はクリントン夫人が何を言い出そうとご勝手にという思いだ。相も変わらず「ヒラリーさん」と呼ぶAHOなテレビ局があるのは論外で気に入らないが。彼等反日的マスコミはアメリカの民主党政権がこれまでに(クリントン政権時代からと言っても誤りではない)どれほど我が国に冷たく且つ手厳しく当たる政策を採ってきたかを一向に採り上げないのは不愉快である。私はこれ以上民主党政権が続くことを歓迎しないのだ。

それどころか「アメリカ史上初の女性大統領が誕生するかも」などと早くも芸能ネタ扱いと言いたいほどの空騒ぎである。確かに共和党側にはTea partyに掻き回された余波があるとは言え、これという有力な候補がいないのは確かな模様だが、そこまで採り上げて報ずるのは余計なお世話だ。正直なところ、私は共和党が今から我が国でさえ劣勢を言われているのでは甚だ心許ないと思うのだが。

TBSが何で「ひるおび」の司会をやらせているのかその意図が不明な恵某などは、共和党で出馬を噂されている者たちの顔写真を見て「なるほど、知らない人ばかり」など見当違いなことを言い出す始末だった。彼が知ろうと知るまいと、あれはアメリカの大統領の選挙の立候補者の候補であって、これまた余計なお世話だ。

英語論

2015-04-15 10:14:44 | コラム
英語論を考える:

お早う御座います。MI様には「頂門の一針」3629号の荒木純夫氏のご意見をお読みだったと思って申し上げてみます。

私は貴方様も荒木様も我が国の学校教育の中で十分に学ばれ、しかも優れた英語力を養ってこられて基本的な力を備えてこられたと推定してご尊敬申し上げております。その基本を活用されて海外でも最高限度の実績を挙げてこられた上で英語を論じておられる、私とある意味で対極にある学究的な方だと申し上げても良いかと、勝手に解釈しております。

実は、かく申す私も普通に我が国の学校教育の中から育ったのですが、その傍らで幸か不幸かGHQの秘書を含めて多くのアメリカ人と接触する機会があって、学校教育の場以外に自由に話す機会に恵まれたという点が違うかと思います。その後に就職した会社では、英語とは全く無縁な国内の販売だけを16年続けた後で、本当に偶然のことでアメリカの会社に転身していました。その経過は「アメリカ人は英語がうまい」に述べてあります。

そこから先にMI様の英語でのご経験と英語論との違いが発生する原因が出てきたと思っています。それは「私の場合は英語しかない世界に飛び込んだことで、“アメリカ人の英語の世界”を内側から見てきた結果になった」ということです。一方、Mi様は英語の世界をご経験なさったのでも、飽くまでも外国人としてのご経験を積まれたので、外側から見た経験した英語ではなかったのかと思わせる点が多々ありました。

これは転身後長年付き合ってきた大手商社、大手需要家(全部が一部上場会社と言いたいのですが、スエーデンのTetra Pakは多国籍企業ですが非上場)、船社、倉庫輸送会社等々には我が国でも最優秀の社員が揃っていました。そこで聞かれた英語は「学校教育の最優秀な成績を収めた精鋭のそれ」ばかりでした。そこに我が国の英語は何処か違うなと思うに至りました。

そこで我々(と言って良ければそう言いますが)が感じたのは、駐在や留学の経験で鍛え上げられた高い水準にあるとは言え、何処まで行っても「科学として英語教育」での優秀さであって、native speakerたちとは一線を画しているのですが、立派にアメリカ人たちと議論も交渉も折衝も出来る水準以上にある方々が多かったのです。

故に、私は長い間「我が国の英語教育には問題なしとなしないが、あれはあれで良いのだ」と無批判且つ無干渉にしてきました。しかし、リタイヤー後に若手の部類に入る大学の先生方に接する機会を得て論じ合ってみますと、一般論としては(MI様たちのような実力者は除くという意味です)我が国の外国語教育の質の低さには憂うべき点が多々ある世界最低の部類に入る」ということが明らかだと思うようになり、改革論を彼らと共に唱え始めました。

そして今回MI様と意見交換の機会を得て痛感したことは「明らかにMI様と私ではよって来たる基盤と経験が異なるので、言うなれば別の学派に属するとでも言えるほど違う。即ち、MI様は自分の言語ではなく英語を外側から認識して使ってこられた方である」ということだと認識しました。

一方の私は、仮令知らずに入っていった世界であっても、アメリカ人だけと過ごす時間が長くそれしか使える言葉なないことを経験したので、英語を内側から見るというか、ほとんど自分の言語として使い続けた結果での英語論に到着したのだ」と言うMI様との違いが出たと思うのです。しかも私の環境ではある程度以上の品格を求められるという一種の難しい規制まであったのです。

そこまでのことを一般的に我が同胞に求める必要なないとMi様は言われていると思っておりますが、如何ですか。私もそうは思いますが、最初から妥協することなく一定以上の高いところを目指しておく方が、後々では良いのではないかというのが私の理論だと思っております。更に言えば、私は異なる見解と持論に立脚した意見交換が出来ること、今回のように出来たことが非常に良かったし貴重な経験だと感謝申し上げております。

また、それ以上でも以下でもない得がたい経験だと申し上げたいのです。荒木氏のご経験もご素晴らしいと敬意を表しますが、矢張り私とはよって来たる基盤もご経験も異なるので、相互に批判も何もすべきではなく、有り難く承っておくべきだと思うのですが、MI様は如何お考えですか。