新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

今時の若者をたしなめれば

2017-04-27 08:18:04 | コラム
都営地下鉄新宿線車内の出来事:

26日の午後4時近くに新宿駅から乗り込んだ。かなり混んでいたが折良く優先席が空いていたので座った。隣には大学生と思しき若者が2名、単位がどうしたのと語り合っていた。そこに老人が1名歩み寄ってこられて「私は92歳だから座らせてくれ」とハッキリ言われた。すると、その学生風の1人が仏頂面で顔で立ち上がった。ご老人は座られた。ところが残る1名は仲間が立ったにも拘わらず座り続けた。

そこで、ご老人は言われた「この席は君らが座るべきではないと承知か」と言いながら、優先席を示すステッカー(正しくは”sticker”であり「ステイッカー」だろうが)を指さして「ここは本来君らが座っているべきではないのだと承知か」と諭された。すると、何と「我々も同じ運賃を払っていますから」と言い出した。心得違いだろう。

私も事ここに至るや参加すべきかと思い「この方がどれだけ不愉快な思いされたか解るか。君らもこう言われて気分が悪いと思ったらならば、それは誤りだ。何れにせよ、ここから立ち去れ」と優しく告知してやった。するとどうだろう、その残党は立ち上がって我々を睨み付けて、今にも殴りかからんばかりの表情で、隣の車両に移っていった。

一寸話を変えよう。私は70歳に達する前頃だったかに、JR中央線の車内で男子大学生に席を譲る意思表示をされたことがあった。だが、「俺はそれほど老人に見えたのか」と些かムッとなって丁重に断って、それで事が終わったと思った。そして直後にお目にかかった某有名私立大学のST教授にこのことを語ったところ、ヤンワリと諭された。

「そういう場合は必ずお受けになって下さい。彼らはかなりの勇気を持って良いことをしようとお譲りする意思を示したのです。それを断れれば折角の意思を無視されたと快く思わず、二度と譲るまいと考えがちなのです。今後はご注意下さい」と言って。ST先生に良い勉強をさせて頂いたのだった。

このご老人は「近頃は電車の中で読書をする者を見なくなり、老いも若きもスマホだ。この優先席には電源を切れと掲示されているのは無視されている」と嘆かれた。するとどうだろう、反対側の席でスマホをいじっていた中年と見える男性から「今は微弱な電波しか出ないのだから構わないのです」との声が上がった。こちらからは「そういう問題ではないのではないか」と切り返すと、今時の中年はばつが悪そうな顔で電源を切ってスマホを引っ込めたのだった。

今時の老人はお節介なのか、老爺心を発揮しすぎたのか。私には解らないが、譲ることを拒否するとは、余り気分が良いことではなかった。

4月26日 その2 東芝が消えかかり、W社は1/3の規模に

2017-04-26 14:08:32 | コラム
時の流れか、経営方針の誤りか:

私は不勉強にして東芝という会社については重電に重きを置いた会社だと思っていた以外には知識がありません。このように不勉強だったというのも、私は証券投資を生涯したことがなかったからでしょうか。報道されているような主立った事業の切り売りを続ければ、今後は東芝には何が残って如何なる形の事業会社となるのでしょうか。

あれほどの名門にして格調高かった会社が無残に崩れていくのは、我がW社がICT化の為に紙媒体が極度に衰退し、このような時代の流れの激しさに抗しきれずに、それまでの経営の主体だった紙パルプ事業部門を10年以上もかけて切り売りし、遂には1900年の創業当時の森林事業のみに専念し、その所有する700万エーカーの森林を活かす木材事業、土地を利用する不動産とデイベロッパー部門と金融部門だけの会社になってしまったのとは本質的に違うとはいえ、余りにも傷ましい事です。

W社の売上高は最新の業界紙の記事によれば、約7,000億円程度になったそうです。それで健全な会社になってしまうのだそうです。年間の売上高の最高到達点が2兆円超えだったのですから、紙パ業界が失ったものがどれほど大きいかが分かります。東芝の場合とは違う時代の流れとICT化の恐ろしさというか、副産物です。いや、もしかすると時代の流れの激しさと規模の変化の直接の影響でしょうか。

政治家という人たちを考える

2017-04-26 08:38:13 | コラム
今村雅弘復興大臣の実質的更迭に思う:

安倍政権では内閣改造をする度に、実際には改悪ではなかったかと思わずにはいられない人物を起用する結果に終わってきた。また、「こんな人物が善くぞ選ばれてきたものだと呆れ返るような者たち」が閣外にも閣内にも現れている。マスコミの論法では「安倍一強がもたらした弛み現象」であり、「驕りである」ということになるが、私はこれは本質的に「政治家とは如何なる者たちか」という極めつきの資質と素質論であるとすら考えている。

何度か採り上げてきた話題にこういうものがあった。それは、長年の友人に実業家でありながら地元の政界に隠然たるなどという表現では及ばない明らかな影響力がある人物がいる。彼と私の共通の知人にある地方都市の市役所で選挙管理委員会の長だった者がいた。彼に尋ねてみた「あの実力者である実業家は何故自分で政治の表舞台に出て行かないのか」と。

答えは「あんたも解ってないな。彼は自分から出て行くほどBAKAじゃないんだ」だった。「なるほど」と納得したものだった。後に実業家にこの質問の答えを直接ぶつけてみたが、黙って笑っていただけで何も答えなかった。

私は今回の今村雅弘復興大臣の心なき発言とされた失言は論外だとは思うし、実質的更迭も総理としては当然の措置だと思う。しかし、今村雅弘なる人の経歴をWikipediaで調べてみると東大法学部出身でもあり、JR九州でも重要な地位にあった分別があって然るべきものだと確認も出来た。だが、私は70歳という年齢に注目した。

私は最早70歳を10数年過ぎてしまったが、53歳にもなってから偶然に始めた物書きの仕事を当初はごく自然に脳裏に浮かんでくることを素直に書き連ねていただけだった。その頃のものは1996年に幸運にも単行本として出版して貰っている。邪心なき書き物がそれなりの評価を受けたのだろうと思う。それを今になって読み返せば「今の俺にはとてもこれほど素直には書けないだろう」と思わずにはいられない。

何が言いたいのかと言えば「年を重ねてくるに従って、何か書いても語っても『何と俺の言うことは素晴らしいのだろう』というような自己陶酔に陥ってしまっていて、何か他人様が助言して下さったり、好意的な批評があっても聞く耳持たない、イヤ持てなくなってしまっている」のである。このような「唯我独尊」の傾向は70歳ともなればかなり激しくなってきた経験がある。

今村氏は将にその70歳である。自らの発言に注意しつつ公の場で語るような感覚は既に失われていると思って聞いていた。非常に残念なことがある。それはそういう感覚を失ってしまうことは、”You know when you will get there.”というジャズの曲の題名が示すように「その年齢に達してみないことには外からは解らないのである。だからと言って、私は今村氏に同情はしていない。それくらい気付くべきだと言うだけだ。

今村氏個人のことを離れて政治家を考えてみたい。「長靴が売れただろう」発言でマスコミを賑わしたような政務官もいれば、中川某のような常識的な倫理観も道徳観もない者もいる。そこには野党が激しく追及するだろうとマスコミが嬉しそうに報じる「任命責任」とやらもあるだろう。既に採り上げたように「自分で出てしまったBAKA」もいるだろう。

私はその前にそういう政治家を嬉々として選んでしまった地元民乃至は支持者の責任はないのかと問いかけたい。その「選んだ責任」を問うべきは、何も自民党の政治家だけに限られないと思う。村田某だの辻元坊だの、古くは菅直人だの鳩山由紀夫だのにも言えることだと思うのだ。私が何度も指摘してきた「我が国の一部の国民の方々の民度」こそ問われても良いのではないかと思っている。

次に問われるべきは各政党が「国会の場に送り出して、真に国益を考えて行動するような人物をこそ選んで立てるべき義務を負うべき」だと言いたいのだ。自民党にも驕りがないとは言い切れない状態だし、滞貨一掃のような人事こそお国の為に止めるべきだと思う。野党を見ても「東大卒で中央官庁から漏れてきたような連中があれほど無能になってしまうのか」としか思えないような状態も改善させるべきだ。

彼らのような自民党には受け入れる余地がなかったとしか思えない国立大学出身者が何故あれほど反対の為の反対をする議員になり果てて、国益そっちのけで政権の揚げ足取りに命を賭けるのか、不思議な現象である。今村氏の後任の吉野正芳氏も68歳とある。自己陶酔の境地に入った滞貨一掃でないことを祈って上げたい、苦悩する安倍総理の為にも。


4月25日 その2 半日の東京見物

2017-04-25 15:53:19 | コラム
スカイツリーの直ぐ下を通って:

25日は好天に恵まれて、何年か前に花が散ってしまった後に訪れて言わば空振りに終わった、亀戸天神の藤棚が今度こそは見頃だと思って家内と出かけていった。往路は安全を期してJRを利用したのだが、記憶にあった亀戸駅周辺と景色があまりにも違って近代化?されているのに驚きながら、15分ほど歩いて亀戸天神に到着した。藤棚は80%ほどの開花だったが十分に満足させられた。

前回の空振り訪問の時と著しく違っていたことは、ここにも多くの外国人が群がっていた点だった。一体何が彼らをここに招き寄せたのかという前に、ICT化の時代ではネットに教えられた彼らが押し寄せるのも無理はないかと、妙に納得していた。実は、彼らにこういう我が国独特の美的観念が何処まで解るのかと多少訝ってはいたのだが。折角だからと、恐らくここ10年間で初めてだろうと思う携帯電話で最も美しいと思うところの写真を撮ったが、悲しいかなこれを何処かに送る手段を知らないのだ。

帰路は亀戸天神駅前までバスを利用したが、更に駅前からかちどき橋を通って豊海埠頭行きのバスに「エイヤ」ッとばかりに乗ってみた。何処を走るか知らないが、かちどき橋に着けばそこから先は勝手知ったる中央区で、築地市場も近いのである。途中全く予期していなかったスカイツリーの直ぐ下をバスが走ってくれたのでその偉容を下から見ることが出来た。初めてのことで望外の幸せ?だった。

そこから先は、このバスは本所や高橋(タカバシ)や越中島等の長年東京に住んでいながら来たことも来る機会もなかった街を通って、清澄白河・森下・門前仲町:月島等の都営地下鉄大江戸線の上を走って一路かちどき橋に向かってくれた。この経路で非常に印象的だったのは何処に行っても高層の集合住宅(高層マンションとも言うが)が林立し、恰も谷底を通っているかのような感があることだった。家内は「これほど沢山建てて、全部埋まっているのだろうか」との感想を漏らした。

かちどき橋からはまたバスを乗り換えて築地六丁目に向かった。丁度11時半を回ったところで、昼食の時間だったのだ。しかし、外国人で大混雑の場外を敬遠して家内がジムの遠足出来たことがあるという、とあるビルの地下にある魚料理専門店に入った。メニューも豊富だったし静かな環境を楽しんで結構な昼食を終えた。

その後は場外の店を観察して歩いたのだが、誇張して言えば「歩いている人の半分以上がアジア系(中国人か)を中心にした外国人であるのはいつもと変わらない」現象だった。彼らは何か買うと言うよりも恐らくネットででも教えられてのであろう、我が国の観光名所(tourist attraction)を興味半分で訪れているのだろう。私には彼らが5切れ¥1,000の鮭の切り身を買いに来るとはとても考えられないのだ。

築地の業者たちが「出来てしまった以上活用せねば」と嘆いていた築地魚河岸会館(?)だったかにも入ってみたが、その広さと規模には寧ろ驚かされた。なるほど、これでは「豊洲に移転するつもりで出店してしまったのに移転延期とは」との怨嗟の声が上がっているのは良く解った。私にはあそこに出ている多くの店が素人向けなのか業者向けなのかが良く見えてこなかった。ではあっても結構賑わっていた。

そこから先は都営地下鉄大江戸線とバスを利用して新宿区百人町の我が家に戻ってみれば午後3時近く。約5時間半ほどの東京見物だった。次の標的は根津神社のツツジなのだが、これも数年前に盛りを過ぎてから訪れていた。今度こそは失敗したくないのだが、明25日雨降りだと言うし、29日を過ぎればゴールデンウィークという名の休日が来てしまう。迷うなー。


日本語の問題点を考える

2017-04-25 08:09:46 | コラム
新日本語を考える→劣化なのか時の流れなのか:

1970年頃だった、未だアメリカの会社に転じる前のことで、韓国の中小規模の財閥のオウナーのご子息で、UCLAに留学中だったK氏と語り合ったことがあった。彼はかなり正統派の英語を話していたが、その話題の中に言葉の変化があった。彼は誇らしげに「私が話している韓国語が最も現代的で、時代の最先端を行っている」と言った。言葉とは時代とともに変化していくものだったかとあらためて思い知らされた感があった。

その「時代とともに変化する」という現象だが、私は現在我が国に現れて、気が付けばその傾向が著しくなった新日本語がカタカナ語の乱用とともに形成されているようだと考えている。カタカナ語の氾濫もその要因の一つで、私には日本語を劣化させているように思えてならない。即ち、私は良い傾向だとは思っていないのだ。そこで、その中から思い付くままに悪いだと思っているものを採り上げてみよう。

「1000円からお預かりします」:
これはどう考えてもおかしいのだが完全に戸籍を得ており、多くの小売店に普及している。これでは「1000円以上を預かります」という意味のようでもあるが、私は「1000円頂戴します」と「1000円お預かりします」が何処かで混同してこのようになったと推理している。これでは意味不明だが現実的に普及している。老爺化した私はこう言われて何度か店員をたしなめたことがあった。

こういう言葉を何の疑問にも思わずに使う多くの販売員たちの常識の欠如と感覚が情けないのだ。しかも、聞くところではこういう仕事をしているのはアルバイトの大学生が多いようで、ますます情けなくなる

「~になります」:
と言って料理屋で(スタッフが)料理を運んでくるのも今や普通のことだ。恐らく某通信社が作ったと聞く「用語ハンドブック」と同様に、「スタッフの用語マニュアル」でも出来ているのかと半ば本気で疑っている。これも立派な新日本語だと思う。「それでは、今は何なんだ」と突っ込むのが陳腐なギャグもあった。「~で御座います」か「~を持って参りました」辺りが旧来の日本語だろう。私は可能ならば、その用語マニュアルを書き換えたいと思うのだが。

これらは新日本語のほんの一部に過ぎないのだと思う。だが、「悪貨は良貨を駆逐する」という言い慣わしが示すように、新日本語は瞬く間に間に普及する。私はこの現象は持論である「言葉は耳から入るものが最も良く定着する」の典型的な例だと思っている。それと同時に、国語教育の劣化が手伝っているのではないかと疑っている。

そこには、ガ業の鼻音化が出来るアナウンサーが珍しくなってきたことの上に、彼らが使う言葉が怪しげになっただけではなく、テレビ局が使うタレントやら芸人たちがこの手の奇妙な新日本語を乱用することも大いに負の貢献をするからでもあるのだと信じている。そこに「スタッフ」や、何でも「トラブル」で括ってしまうカタカナ語が無限に広まっているのだから日本語がおかしくなるのだ。

私の結論を言えば、新日本語とは日本語の劣化だと思っている。