新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

当たるも「閃き」当たらぬも「閃き」

2020-08-23 11:53:22 | コラム
渋野日向子の場合は悲しいほど当たってしまった:

「マスコミの騒ぎすぎは碌な結果を生じない」というのが私の持論だし、得意の「閃き」の根拠ともなっていた。その点からだけでも(日本時間22日)の渋野日向子の全英オープンゴルフの予選落ちは全く「閃き」通りだったのは、当たったと喜ぶ訳にはいかない結果だった。私はスポーツ新聞も(読んでいる訳では毛頭ないが)もテレビが「連覇だ、連覇だ」と過剰に騒ぎ立てているのを見聞きするだけでも「間違いなく駄目だろう」と閃いていた。だが、予選落ちとまでは閃いては来ていなかった。

私は渋野にしてもテニスの大坂なおみにしても、我が国のメデイアの持ち上げ方は過剰であると思っている。本人たちがあの持て囃し方をどう受けとめるか知らないが、あれほど持ち上げられれば、本人たちが「私はそこまでのものではない。偶々出会い頭で勝てただけだ。世界には未だ未だ上がいるものだから、一層の努力と精進が必要だ」とは中々自覚しにくいのではないかと懸念している。彼女らは競争相手たちに研究し尽くされて、追い落とそうと立ち向かってくる相手だけではなく、ゴルフの場合はゴルフ場その物の自然条件とも勝負せねばならないのだ。

以前にも仕事の関連で回顧したが「我が事業部が日本市場で#1のシェアーホールダーになろうと、全員と全体で懸命に努力していた頃の方が楽だった。いざその地位に到達してそれを守ろうと努力する方が、数百倍も辛く、且つ月並みな表現で恐縮だが厳しかった」のだった。極端に言う訳ではないが、事業部の方針と政策だけに止まらず、抜き去ったcompetitorだった企業や業界全体から全員の振る舞いまでも常に監視されていて、隙あらば引き摺りおろうと立ち向かってきているのだった。その攻勢から自社を守る術は知らなかった、追い付こうと励む方法は承知していても。

次は藤井聡太八段及び二冠を採り上げたい。私は未だ高校に在学中のこの将棋指しが今日の前人未踏の地位に到達するまでの間は「あのマスコミの持ち上げ方が例によって過剰で、未成年である藤井君に見えざる悪い影響を当たるのではないか」という程度にしか見ていなかった。と言うのも、私は将棋が出来ないし、将棋という広辞苑によれば「室内遊戯の一つ」とあるものが国内でどれほどmajorであるのか、諸外国にも普及しているのかは全く承知していなかった。そこに彼が現れてあの騒ぎである。従って最も案じたのが騒ぎ過ぎの見えざる悪影響である。

だが、藤井君はあの「勝負飯」などと称して(あれは将棋界における正式な呼称か?)対局中に何を食べたかまでを報道するのは「過剰」以外の何物でもなく、藤井君が彼等がでっち上げた「虚像」となってしまうのかとも「閃いて」いた。だが、彼はそれをものともせずに二冠と八段昇進を達成して見せた。ということは、彼はあの持て囃しすぎと騒ぎ過ぎを乗り越えるに足る「本物」だと証明して見せてくれただけではなく、当方の「閃き」に出ていた懸念まで一掃してくれたのだった。偉いものだと思う。マスコミがあれ以上騒ぐのを止めたら、もっと上昇すると思う。

次なる「閃き」の対象は何と言ってもアメリカの大統領選挙である。これに関しては権威ある専門家の方々が色々と語っておられるので、私から何かいう事はない。「閃き」ではトランプ氏の再選と来ている。重ねて言うが、ここには何の理屈も理論もない。何の試合でも良いから、競技場に入って着席した場合と、テレビ観戦で画面が出てきたときに「どっちが勝つか」と閃いたのと同じ現象である。一言だけ言えば、我が国の専門家の先生方はごく少数の例外を除いて有権者でも何でもなく、取材と資料と経験に基づいて発言しておられるのだという事。当事者ではないのだ。

さて、チャイナウイルスと言うか新型コロナウイルスと言うかCOVID-19である。「閃き」では年内の収束はないとなっている。私は既に我が国では「人災」化しつつあると述べた。それは西村康稔大臣と加藤勝信厚労相のカタカナ語にすればリーダーシップの欠如と、最多の感染者を出してしまう結果になった小池都知事の無知と無経験と指導力の悲しいまでの欠如に加えて、政府と対決姿勢を見せることが能事だと思ってスタンドプレーを挙げたい。ということは、究極の責任は過労の状態にあると報じられている安倍晋三総理大臣にあると言うこと

この新型コロナウイルスと大いに関連するのが、来年に延期された「2020東京オリンピック」である。私の「閃き」では延期になる前から「どうしても新装してしまった国立競技場でオリンピックが開催されている絵が見えてこなかった」のだ。だが、それが如何なる理由で開催されないかは閃いてこなかった」のだった。その原因がこに忌まわしき中国発のウイルスだった。「閃き」は「恐らく開催は無理ではないか」で「無理だ」とまで断定までしきれてはいない。

「なるほど、そうう事だったか」と分かったが、私は我が国であれほど崇拝し尊敬するIOC等は単なる増長した白人の集団に過ぎず、来年になって実施するか延期するかの判断がまともに出来るような能力など備えていない、どうと言うことない連中だと思っている。私はその程度の連中のご託宣などを畏まって承っている必要など更々ないと思っている。経験上から言えるのだが、彼等は思いがけないところから強硬ことを言われたり、堂々と論陣を張られると、非常に脆いのである。私は森組織委員会長以下は遠慮する来なく「開催すると言え」とせめて欲しいと思っている

最後は安倍晋三総理大臣の後継だが、岸田、石破、菅、茂木、河野等々の世上噂されている方々ではないないところから、誰かが突如浮かび上がってくるのなと思うときがある。尤も、そこには小泉進次郎氏はないが。即ち、全く誰も「閃いてこない」状態である。但し、個人的な好みから言えば、岸田文雄氏だけは願い下げにたい。だが、これまでの経験では、そのように毛嫌いした人物が選ばれることが、自分が所属した企業以外でも非常に多かった。とすると「閃き」を離れて、岸田文雄氏になってしまうのだ。


8月22日 その2 英語という言語の悩ましさ:

2020-08-22 15:56:24 | コラム
何と言っても余所の国の言葉だから:

始めに:
私は英語を教えるのであれば、最初に「これは文化(即ち歴史、言語・風俗・生活習慣・思考体系等)が全く異なる国の言語であること」から説き聞かせて置くべきだと考えている。簡単に言えば「ものの考え方が日本語とは違うのだ」という辺りから入っていく必要があるのだ。「一つの学科としての科学としての英語を、数学のように教えるのは好ましくない」と私は考えている。

しかし、学校教育では「単語」、「文法」、「英文解釈乃至は和訳」、「英作文」、「英会話」等々のように分解してバラバラにして教えているので、意志の表現というか伝達の手段にしか過ぎない言葉を無闇に難しくしてしまった為に、「英語嫌い」の児童・生徒・学生を次から次へと養成してしまったのである。

その結果で海外に留学や駐在員として出ていくと「そんなはずではなかった」や「何故通じないのだろう」と悩まされ苦しめられるほど、学校で学んできた、いや好成績だった英語が役に立たないのだ。そこで、ここでは何故そうなってしまう悩ましさを考えて見よう。

慣用句と口語体の存在:
実際にアメリカ人たちの中に入ってみると、日常的な会話や社内のリポート等に出てくる表現は学校教育で習い覚えてきた英語とはまるで違う表現ばかりで悩まされるのだ。その主たる原因は「単語」だけを覚えてきて「それが有機的に繋がったときにその意味がどのように変化してしまうか」を教えられていなかったし、覚えても来なかった事にあるのだ。

それはそこには「慣用句」(“idiomatic expression”)や「口語体」(“colloquialism”)が多用されているからである。いや、極端に言えば「日常会話などではそれ以外に何があるか」と言っても良いほどなのだ。私は未だにこの両者の間に自信を以て線引きが出来ないが、幾つか例を挙げてみよう。

Are you with XXX Company? =「貴方はXXX社員ですか」
Are you with me? =「貴方は私の話が解っていますか」となるのだが、これは前後の流れで判断する必要がある。“Are you following our conversation?”が意味が似ていると思う。
It’s your baby. =「これは貴方が責任を以てする仕事である」という意味だが、これも前後に流れから判断すべきこと。babyは「赤子」だけの意味ではない。
It’s a piece of cake. =「簡単にできること」で、同じような表現に It’s a cinch.というのもある。
Let’s play it by year =「出たとこ勝負で、その場で決めよう」とでも訳せば良いのかも知れない。実際は、皆で昼食に出掛けるのだが、何を食べるか決まっていなかったので、誰かがこう言えば「レストラン街に着いてから決めよう」となるのだ。
It does not ring my bell. =「そう言われても、私の記憶から呼び起こせない」というか「そう言われても、思い出せません」という意味。
He believes to be somebody. =「彼は何様にでもなったつもりでいる」というか「自分は一廉の者であると過信している」と批判していること。

どれ一つ採っても難しい単語などで来ないが、ほとんどがそもそもの単語の意味とかけ離れたことを表しているのが悩ましい点なのだ。だから「単語を覚えるのを止めて、流れの中でどういう意味で使われるかを音読して覚えなさい」と主張するのだ。

私は我が国では「何故、官民挙ってあれほど英語が良く出来て且つ話せるように教育しなければならないとか、外国人と英語で意思の疎通が十分に図れるようにしたいとしようとするのか」と疑問に感じている。勿論、国際化というかグローバリゼーション等という代物が無闇に広がりつつある現代では、高い英語能力が多くの場面で求められている。だが、上記の例文が示すように、学校教育の英語は「自分が思うこと、考えていること」を表現するのには余り有効ではないのだった。いや、中々通じなかったのだ。

私は通じないのもさることながら、我が国の学校教育の英語には問題であると思っている点がある。それは「発音」と聞き取りの能力である

「発音」の最大の問題点は「教えておられる英語の先生方に問題があると思うのだが、簡単に言ってしまえば『外国人離れしたカタカナ語のような、と言うかローマ字式な発音』しか出来ないようにしてしまった点だ。特に困ったことだと思っている点は、“a”や“i”や“o”の発音がローマ字式になってしまっている点だ。

例えば、RobertのニックネームであるBobは「ボブ」ではなく「バブ」であり、仕事の“job”は「ジャブ」なのだ。有名なホテルチェーンのHoliday Innはどの辞書を見てもOxfordでも発音記号は「ハラデイ・イン」としか読めない。Mission Impossible“という映画は「ミッシュン・インパーサブル」とする方が英語に近い。

これだけではなく、英語には連結音とr-linkingと言われている「前の単語の終わりの子音が、次に来る単語の最初に母音が来ると繋がって発音するというようになっている。私が簡単な例としてあげてきたのが“There is a small house.”という文章では「デアリズ」となるのであって「ゼア・イズ」ではないのだ。“r”も次に来る単語の最初の母音と繋がって発音されるのだ。これを絶対的に守れとは言わないが、これが出来ていないと「英語を知らないのだ」と思われてしまうのが悩ましいのだ。

本当の発音が出来てからにしよう:
ある近年かなり人気が高くなってきた都内の某私立大学の英文学の名誉教授が、アメリカに出張されて「ウオラー」という発音を聞かれたのが非常に印象的で「現地ではこういう発音になるのかと認識した」と語った。遺憾ながら「ウオラー」は上品な部類には入らない下層階級の者たちの発音なのである。支配階層というか、アッパーミドル以上ではこのように発音する者たちは滅多にいないと思っている。これは“water”の発音なのである。

私はこういう発音は絶対にお薦めしない。英語を勉強しようとされる方々には、絶対に真似て欲しくない品格に乏しい発音で、必ず「ウオーター」と発音して欲しいのだ

同様に、“twentyを「トウエニー」とか“thirty”を「サーリー」と発音するのも良いことではない。外国人としてはこのような品格に乏しい発音に飛び付いて真似をしないことだ

私は「Queen’s Englishとその発音を有り難がる傾向がある」のはおかしな事だと思っている。我が国では学校教育が至らないせいか、アメリカの英語と混同されている例が多いのを嘆いている。その極めて卑近な例にアルファベットの”c”の発音がある。これを「シー」とするのはUK式の Englishであり、アメリカ語では「スイ」なのである。同様に”z”を「ゼット」乃至は時たま「ゼッド」と言っているのもUKでの読み方で、アメリカ式は「ズイ」となるのをご承知か。

特に困ったなと思って見ているのは厚生労働省の英語表記では“Ministry of Health, Labour, and Welfare”となっていること。labour はUK式であってアメリカ語では“labor”なのだ。案保障条約で守っていただいている同盟国の発音をもう少し尊重すべきだし、教える方も、両国の英語の違いをキチンと教えておいて欲しい。

アメリカに行って悩まされること:
これは「聞き取り」とするか「聞き取れる能力」の問題だろう。我が国の英語の先生方の外国人離れした発音と連結音もなく、抑揚もなく、文章の何処を強調するか(sentence stress)を教えられず、何処で切るべきかをも知らされずに育ってきても、試験の点だけは良かった優秀な方々がアメリカ人に中に入って、先ず困ることが「相手の語りが何時何処から始まって何処で終わったかが全く判断出来ないことだった」と述懐された。


私はこれが我が国の学校教育の問題であると断じる。すると、その解決法としては「外国人というかnative speakerを招聘して教えて貰えば良いのでは」という意見が出てきそうだ。しかし、私はこれでは上手く行かないと思う。それは「外国人たちは自国語を上手く話せても、英語を良く解っていない日本人が如何なる問題で悩み苦しんでいるかは、おいそれとは分からない」のだから。

例えば、彼等は日本語には連結音がないと承知しているだろうかという問題である。意気揚々として「日本に行って英語を教えよう」という者たちが、例えば大学なり大学院などで「日本で英語教育をする」という単位を取っていたのだろうか。「日本人向け英語教育学」などという修士号があるのだろうか。私は「日本に行って正しく美しい英語を教えよう」などと真剣に考えている者など数多くいるかと疑っている。まともな能力と学歴があれば、国内でチャンとしたjobに付けるはずだ。日本までやってくる者たちは、その篩によってこぼれた来た者たちだと、私は看做している。

教えて貰う方が「この外国人教師の英語は無教養の下層階級の英語だからヤーメタ」というまでの判断力などある訳がないのだ。この辺りが究極的な悩ましさではないのか。


アメリカの大統領選挙は何れが勝つか

2020-08-22 08:12:20 | コラム
SM氏からのカリフォルニア便り:

大統領選、まったくわかりませんね.いずれが勝っても、負けた方は仕組まれた選挙(rig)と騒いで、BLM(Black Lives Matter)のような大混乱が起き、何でもありですから無政府状態(シアトル、ポートランド)に発展しなければいいのですが.そうなるとさらに中国共産党の思うつぼで、日本の危機がさらに深まる可能性を恐れています.これが最悪のシナリオですが、そこまでいかなくても、不安視する声は良識ある層にあります.

彼の意見を尋ねていました。今回は「アレッ」と思わせるような見解もありましたが、現地に住んでいればこういう見方があるのかと思う例なので、敢えて紹介する次第。

アメリカの大統領選挙

2020-08-21 14:05:14 | コラム
トランプ氏とバイデン氏の何れが勝つのか:

これまでに何人かのアメリカの有権者である元の上司、同僚、知人、友人にその見込みを尋ねてみたが、誰一人として決定的な予測した者はいなかった。特にSM氏などは「全くわかりません」と全く率直なことを言ってきていた。尋ねている私自身は、未だ何れが当選するかは全然分からないと思っている。だが、私が問い合わせた人たちの間では、解りやすく言えば「仮令共和党支持であってもトランプは嫌いだ」という意見が圧倒的なのだ。私は以前から言ってきたことで「トランプ大統領の政治手法の評価を離れて、あのような型の人はどうしても好きになれない」なのだ。

私の照会している人たちはトランプ大統領の岩盤の支持層の人たちはとは全く異なる階層の人たちで、トランプ大統領のお行儀の悪さ(カタカナ語を使えば「マナー」の悪さ)、swearwordを躊躇うことなく使う言葉遣いの悪さ(それは聞かせている相手が知的な階層ではないからとの説明もできるが)、「アメリカファースト」と言うよりも「自分ファースト」である事等々を嫌っているのである。であるから、当選前に「彼が選ばれるようでは”disaster“」と言った人もいれば、「2期目もとなれば、それは”disaster”だ」と決めつけた人もいた。

このような大統領選挙がどうなるかと、我が国の「アメリカとの付き合い方を極めて真っ当であり豊富な情報量と確かな情報源を確保しておられる専門家」を4人集めた20日のPrime Newsは中々の聞き物だった。即ち、産経の古森氏、早稲田大学・中林教授、グレン・フクシマ氏、慶応大学・中山教授といった顔触れだった。確認しておくと、この中で有権者はフクシマ氏だけだと思う。だが、私が意見を聞いているのは全員アメリカ人であると同時に、有権者で選挙の当事者である点が、専門家の方々との相違点だ。

お歴々のご意見を「エイヤッ」と纏めてみれば「何れが勝つか」という結論は出ていなかったと思う。その証拠に反町は「バイデン氏となった場合に安倍総理(11月にはチャンと勤めておられる前提だったようだ)はトランプ大統領の当選が決まった時にトランプタワーに駆けつけられたように、デラウエアーまで馳せ参じるべきか」と振ったのだった。「行かなくとも良し」と指摘したのは中山教授だけだった。私は中林教授の「トランプ氏の時に行ったというハードルが設定されたので、それは越えておくべき」を採りたい思いで承っていた。

私が「面白いな」と思った点は、専門家の見解の中に「アメリカ人の中にはトランプが嫌いだから、今回はバイデンにしよう」という類いの選択をする人が多くなりはしないか。即ち、バイデンに何か優れた点がある訳ではないがというだけの根拠では」という見方である。産経だったかがバイデンの「穴籠もり戦略」という皮肉めいた記事があったが、バイデンが11月までに3度ある討論会で如何に振る舞うかが問題だろうという辺りに落ち着いていた。その際に突如として無表情に陥る事態でも生じれば、世間で言われている「認知症」問題が浮かび上がると言ったのが古森氏だった。

私はずっと「民主党政権は我が国にとってはbad news」と言い続けてきた。今回は民主党議員たちの対中国政策は強硬派に変わってきていると言われているが、中国をあそこまでつけ上がらせたのがクリントンでありオバマだったのは間違いないこと。しかもヒラリー・クリントンには中国側から資金が供与されていたという噂もあった。そこをトランプ大統領が「歴代の大統領の対中国政策は誤りだった」とポンペイオ長官に断定させて強硬な方針に変更されたので、その意味でも仮令嫌いであってもトランプ大統領の再選が望ましいとなってしまうのだ。

何れにせよ、当分の間はどうなって行くかを固唾を呑んで見守っていくしかないと思う。最後に矢張り英語にも触れておきたい。フクシマ氏の発音を聞いていれば”Biden“は「バイデン」ではなく「バイドウン」と表記すると、正確な発音に限りなく近くなると思う。「バイデン」では私が嫌うローマ字読みである。他にも例を挙げておけば”Donald”は「ダヌルド゛」が本当の読み方に近い。即ち、アメリカの大統領は「ダヌル・トウランプ」さんなのだ。


8月20日 その2 キリスト教の経験

2020-08-20 14:53:41 | コラム
キリスト教の文化を経験して:

Healing ministry:

1973年の未だM社に所属していた頃の経験だった。ジョージア州アトランタで週末を1人で過ごすことになった。退屈なので何気なく地下に降りてみた。そこでは所謂宴会場のような大広間で多くのキリスト教の信者が集まって集会が開催されていて、外からでも覗けるようになっていた。見るともなく見ていると、牧師が語っていたというか説教だったのだろう。やがて「悩みや病を治したい者はは前に進み出なさい。私がこの場で治してあげる」というようなことを言うや否や、かなりの数の人たちが続々と進み出た。

その牧師が何をしたかというと、一人ひとりから悩みなどを聞いてから何かを唱えて頭の上に手をかざしたのだった。そこから先には驚きというか異常な展開となって、その人たちがバタバタと倒れてしまったのだった。そこには何時の間にか介添え役がいて倒れてしまう前に支えて床に寝かせるのだった。そして、暫くすると何名かは立ち上がって牧師に礼を言って席に戻っていった。私にとっては全く信じられような光景なので、唯々呆気にとられて見ていた。

すると、受付にいた数人の婦人に「貴方が信者でなくても良いから、中に入って手かざしを受けてみたらどうか」と声をかけられた。そこで、質問があると「あの方は一体如何なる牧師さんなのか」と尋ねてみた。答えは”reformed Jew“と言ってユダヤ教から改宗された牧師様で、あのような何人も治癒してしまう能力を備えておられるお方だ」だった。勿論、とても信じる訳には行かないので、謹んで辞退して自室に戻った。だが、暫くはその不思議な光景の残像が残って落ち着かなかった。

週が明けて事業部に出勤して同僚にあの何と形容して良いかも解らない経験を語ってみた。すると本部の人たちは誰も驚く様子もなく「それは”healing ministry“と言って、そういう治療をするプロテスタントの牧師の職務の一つだ」と解説して貰えた。それはそれで解ったが、あれではプロテスタントというのは、我が国にも良くある新興宗教のようなものか、あるいはキリスト教と雖も初期には新興宗教的な色彩があり、今でもその形があのように残っているのではないのか。また、それに簡単にかかって倒れるような単純素朴な人たちがアメリカにはいるのかと、大いに考え込まされた。

復活祭のミサに参加して:
これは2000年4月ことで、リタイア後に初めてアメリカの空港の入管で”Pleasure trip.“と申告して入国した旅での経験だった。この際も週末の土・日にぶつかってしまった。すると、永年苦労を共にしてきたCustomer service担当でマネージャーの肩書きを持つLindaから「”Easterのミサに参加しないか」と誘われた。彼女は私が信者ではないことを承知しており「その点は関係ないから是非参加してみなさい。その後で両親と夕食会をするから」と薦めるので。お言葉に甘えることにした。


正直なところ、同じキリスト教でもカトリックとは異なってプロテスタントはそれほど形式を重んじないと聞いていたので、何事も経験かと思って教会に案内されてみた。そのミサも協会内の雰囲気も決して形式を重んじていないどころではなく、卒業後に何度か参列したことがあったあの四谷のイグナチオ教会で執り行われた葬儀とそう変わらないくらいの荘厳さだったので、先ず圧倒された。この点は予期した以上に非常に印象的だった。

そこから先は予想もできなかったことになって、参加者全員が”Happy Easter!“と言って、涙を流す者もいる状態で、誰彼の区別なく抱き合って祝福し合うのだった。私もその祝福の渦の中に巻き込まれたのだった。そして、その雰囲気にも圧倒されて気が付けば涙を流して誰彼ともなく抱き合っていたのだった。80年代にアトランタで経験したあの”healing ministry”の光景も思い浮かんできた。正直に言えば、招待してくれたLindaには心の中で感謝していた。この辺りが宗教の持つ凄さと、そう言って良いのか知らぬが、魔力のような物があるのかとも感じていた。

話は変わるが、これまでに何度もアメリカの共和党や民主党の大会を見ていると、良くあれほど大勢の支持者たち(人たち)が一堂に会して、個人が主体の国であるにも拘わらず、一致団結してあれほど盛り上がる精神構造には、あの復活祭のミサに見たキリスト教の集会的な何かがあるのではないかとすら感じさせられていたのだった。我が国のような物静かな民族性とは異なって、何事でもお祭り騒ぎのように賑やかに騒ぐアメリカとの文化と考え方の違いすら感じたキリスト教(プロテスタント)の経験だった。

そういう観点からすれば、あのバイデン氏を指名した民主党のリモートでの党大会が、如何にCOVID-19の蔓延の最中とは言え、盛り上がらなかったのは当然だったと思うし、バイデン氏を全国に印象付け損なったかのような気がするのだ。その点では、トランプ大統領というか共和党が同時期に開催した集会の方が巧みだったのではないのか。