渋野日向子の場合は悲しいほど当たってしまった:
「マスコミの騒ぎすぎは碌な結果を生じない」というのが私の持論だし、得意の「閃き」の根拠ともなっていた。その点からだけでも(日本時間22日)の渋野日向子の全英オープンゴルフの予選落ちは全く「閃き」通りだったのは、当たったと喜ぶ訳にはいかない結果だった。私はスポーツ新聞も(読んでいる訳では毛頭ないが)もテレビが「連覇だ、連覇だ」と過剰に騒ぎ立てているのを見聞きするだけでも「間違いなく駄目だろう」と閃いていた。だが、予選落ちとまでは閃いては来ていなかった。
私は渋野にしてもテニスの大坂なおみにしても、我が国のメデイアの持ち上げ方は過剰であると思っている。本人たちがあの持て囃し方をどう受けとめるか知らないが、あれほど持ち上げられれば、本人たちが「私はそこまでのものではない。偶々出会い頭で勝てただけだ。世界には未だ未だ上がいるものだから、一層の努力と精進が必要だ」とは中々自覚しにくいのではないかと懸念している。彼女らは競争相手たちに研究し尽くされて、追い落とそうと立ち向かってくる相手だけではなく、ゴルフの場合はゴルフ場その物の自然条件とも勝負せねばならないのだ。
以前にも仕事の関連で回顧したが「我が事業部が日本市場で#1のシェアーホールダーになろうと、全員と全体で懸命に努力していた頃の方が楽だった。いざその地位に到達してそれを守ろうと努力する方が、数百倍も辛く、且つ月並みな表現で恐縮だが厳しかった」のだった。極端に言う訳ではないが、事業部の方針と政策だけに止まらず、抜き去ったcompetitorだった企業や業界全体から全員の振る舞いまでも常に監視されていて、隙あらば引き摺りおろうと立ち向かってきているのだった。その攻勢から自社を守る術は知らなかった、追い付こうと励む方法は承知していても。
次は藤井聡太八段及び二冠を採り上げたい。私は未だ高校に在学中のこの将棋指しが今日の前人未踏の地位に到達するまでの間は「あのマスコミの持ち上げ方が例によって過剰で、未成年である藤井君に見えざる悪い影響を当たるのではないか」という程度にしか見ていなかった。と言うのも、私は将棋が出来ないし、将棋という広辞苑によれば「室内遊戯の一つ」とあるものが国内でどれほどmajorであるのか、諸外国にも普及しているのかは全く承知していなかった。そこに彼が現れてあの騒ぎである。従って最も案じたのが騒ぎ過ぎの見えざる悪影響である。
だが、藤井君はあの「勝負飯」などと称して(あれは将棋界における正式な呼称か?)対局中に何を食べたかまでを報道するのは「過剰」以外の何物でもなく、藤井君が彼等がでっち上げた「虚像」となってしまうのかとも「閃いて」いた。だが、彼はそれをものともせずに二冠と八段昇進を達成して見せた。ということは、彼はあの持て囃しすぎと騒ぎ過ぎを乗り越えるに足る「本物」だと証明して見せてくれただけではなく、当方の「閃き」に出ていた懸念まで一掃してくれたのだった。偉いものだと思う。マスコミがあれ以上騒ぐのを止めたら、もっと上昇すると思う。
次なる「閃き」の対象は何と言ってもアメリカの大統領選挙である。これに関しては権威ある専門家の方々が色々と語っておられるので、私から何かいう事はない。「閃き」ではトランプ氏の再選と来ている。重ねて言うが、ここには何の理屈も理論もない。何の試合でも良いから、競技場に入って着席した場合と、テレビ観戦で画面が出てきたときに「どっちが勝つか」と閃いたのと同じ現象である。一言だけ言えば、我が国の専門家の先生方はごく少数の例外を除いて有権者でも何でもなく、取材と資料と経験に基づいて発言しておられるのだという事。当事者ではないのだ。
さて、チャイナウイルスと言うか新型コロナウイルスと言うかCOVID-19である。「閃き」では年内の収束はないとなっている。私は既に我が国では「人災」化しつつあると述べた。それは西村康稔大臣と加藤勝信厚労相のカタカナ語にすればリーダーシップの欠如と、最多の感染者を出してしまう結果になった小池都知事の無知と無経験と指導力の悲しいまでの欠如に加えて、政府と対決姿勢を見せることが能事だと思ってスタンドプレーを挙げたい。ということは、究極の責任は過労の状態にあると報じられている安倍晋三総理大臣にあると言うこと。
この新型コロナウイルスと大いに関連するのが、来年に延期された「2020東京オリンピック」である。私の「閃き」では延期になる前から「どうしても新装してしまった国立競技場でオリンピックが開催されている絵が見えてこなかった」のだ。だが、それが如何なる理由で開催されないかは閃いてこなかった」のだった。その原因がこに忌まわしき中国発のウイルスだった。「閃き」は「恐らく開催は無理ではないか」で「無理だ」とまで断定までしきれてはいない。
「なるほど、そうう事だったか」と分かったが、私は我が国であれほど崇拝し尊敬するIOC等は単なる増長した白人の集団に過ぎず、来年になって実施するか延期するかの判断がまともに出来るような能力など備えていない、どうと言うことない連中だと思っている。私はその程度の連中のご託宣などを畏まって承っている必要など更々ないと思っている。経験上から言えるのだが、彼等は思いがけないところから強硬ことを言われたり、堂々と論陣を張られると、非常に脆いのである。私は森組織委員会長以下は遠慮する来なく「開催すると言え」とせめて欲しいと思っている。
最後は安倍晋三総理大臣の後継だが、岸田、石破、菅、茂木、河野等々の世上噂されている方々ではないないところから、誰かが突如浮かび上がってくるのなと思うときがある。尤も、そこには小泉進次郎氏はないが。即ち、全く誰も「閃いてこない」状態である。但し、個人的な好みから言えば、岸田文雄氏だけは願い下げにたい。だが、これまでの経験では、そのように毛嫌いした人物が選ばれることが、自分が所属した企業以外でも非常に多かった。とすると「閃き」を離れて、岸田文雄氏になってしまうのだ。
「マスコミの騒ぎすぎは碌な結果を生じない」というのが私の持論だし、得意の「閃き」の根拠ともなっていた。その点からだけでも(日本時間22日)の渋野日向子の全英オープンゴルフの予選落ちは全く「閃き」通りだったのは、当たったと喜ぶ訳にはいかない結果だった。私はスポーツ新聞も(読んでいる訳では毛頭ないが)もテレビが「連覇だ、連覇だ」と過剰に騒ぎ立てているのを見聞きするだけでも「間違いなく駄目だろう」と閃いていた。だが、予選落ちとまでは閃いては来ていなかった。
私は渋野にしてもテニスの大坂なおみにしても、我が国のメデイアの持ち上げ方は過剰であると思っている。本人たちがあの持て囃し方をどう受けとめるか知らないが、あれほど持ち上げられれば、本人たちが「私はそこまでのものではない。偶々出会い頭で勝てただけだ。世界には未だ未だ上がいるものだから、一層の努力と精進が必要だ」とは中々自覚しにくいのではないかと懸念している。彼女らは競争相手たちに研究し尽くされて、追い落とそうと立ち向かってくる相手だけではなく、ゴルフの場合はゴルフ場その物の自然条件とも勝負せねばならないのだ。
以前にも仕事の関連で回顧したが「我が事業部が日本市場で#1のシェアーホールダーになろうと、全員と全体で懸命に努力していた頃の方が楽だった。いざその地位に到達してそれを守ろうと努力する方が、数百倍も辛く、且つ月並みな表現で恐縮だが厳しかった」のだった。極端に言う訳ではないが、事業部の方針と政策だけに止まらず、抜き去ったcompetitorだった企業や業界全体から全員の振る舞いまでも常に監視されていて、隙あらば引き摺りおろうと立ち向かってきているのだった。その攻勢から自社を守る術は知らなかった、追い付こうと励む方法は承知していても。
次は藤井聡太八段及び二冠を採り上げたい。私は未だ高校に在学中のこの将棋指しが今日の前人未踏の地位に到達するまでの間は「あのマスコミの持ち上げ方が例によって過剰で、未成年である藤井君に見えざる悪い影響を当たるのではないか」という程度にしか見ていなかった。と言うのも、私は将棋が出来ないし、将棋という広辞苑によれば「室内遊戯の一つ」とあるものが国内でどれほどmajorであるのか、諸外国にも普及しているのかは全く承知していなかった。そこに彼が現れてあの騒ぎである。従って最も案じたのが騒ぎ過ぎの見えざる悪影響である。
だが、藤井君はあの「勝負飯」などと称して(あれは将棋界における正式な呼称か?)対局中に何を食べたかまでを報道するのは「過剰」以外の何物でもなく、藤井君が彼等がでっち上げた「虚像」となってしまうのかとも「閃いて」いた。だが、彼はそれをものともせずに二冠と八段昇進を達成して見せた。ということは、彼はあの持て囃しすぎと騒ぎ過ぎを乗り越えるに足る「本物」だと証明して見せてくれただけではなく、当方の「閃き」に出ていた懸念まで一掃してくれたのだった。偉いものだと思う。マスコミがあれ以上騒ぐのを止めたら、もっと上昇すると思う。
次なる「閃き」の対象は何と言ってもアメリカの大統領選挙である。これに関しては権威ある専門家の方々が色々と語っておられるので、私から何かいう事はない。「閃き」ではトランプ氏の再選と来ている。重ねて言うが、ここには何の理屈も理論もない。何の試合でも良いから、競技場に入って着席した場合と、テレビ観戦で画面が出てきたときに「どっちが勝つか」と閃いたのと同じ現象である。一言だけ言えば、我が国の専門家の先生方はごく少数の例外を除いて有権者でも何でもなく、取材と資料と経験に基づいて発言しておられるのだという事。当事者ではないのだ。
さて、チャイナウイルスと言うか新型コロナウイルスと言うかCOVID-19である。「閃き」では年内の収束はないとなっている。私は既に我が国では「人災」化しつつあると述べた。それは西村康稔大臣と加藤勝信厚労相のカタカナ語にすればリーダーシップの欠如と、最多の感染者を出してしまう結果になった小池都知事の無知と無経験と指導力の悲しいまでの欠如に加えて、政府と対決姿勢を見せることが能事だと思ってスタンドプレーを挙げたい。ということは、究極の責任は過労の状態にあると報じられている安倍晋三総理大臣にあると言うこと。
この新型コロナウイルスと大いに関連するのが、来年に延期された「2020東京オリンピック」である。私の「閃き」では延期になる前から「どうしても新装してしまった国立競技場でオリンピックが開催されている絵が見えてこなかった」のだ。だが、それが如何なる理由で開催されないかは閃いてこなかった」のだった。その原因がこに忌まわしき中国発のウイルスだった。「閃き」は「恐らく開催は無理ではないか」で「無理だ」とまで断定までしきれてはいない。
「なるほど、そうう事だったか」と分かったが、私は我が国であれほど崇拝し尊敬するIOC等は単なる増長した白人の集団に過ぎず、来年になって実施するか延期するかの判断がまともに出来るような能力など備えていない、どうと言うことない連中だと思っている。私はその程度の連中のご託宣などを畏まって承っている必要など更々ないと思っている。経験上から言えるのだが、彼等は思いがけないところから強硬ことを言われたり、堂々と論陣を張られると、非常に脆いのである。私は森組織委員会長以下は遠慮する来なく「開催すると言え」とせめて欲しいと思っている。
最後は安倍晋三総理大臣の後継だが、岸田、石破、菅、茂木、河野等々の世上噂されている方々ではないないところから、誰かが突如浮かび上がってくるのなと思うときがある。尤も、そこには小泉進次郎氏はないが。即ち、全く誰も「閃いてこない」状態である。但し、個人的な好みから言えば、岸田文雄氏だけは願い下げにたい。だが、これまでの経験では、そのように毛嫌いした人物が選ばれることが、自分が所属した企業以外でも非常に多かった。とすると「閃き」を離れて、岸田文雄氏になってしまうのだ。