新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

新型コロナウイルス感染者の比率

2020-08-18 08:53:21 | コラム
8月17日の時点では新宿区が最も高かった:

国全体では今月9日の47,402人から56,785人に増えていて、総人口の1億2,596万人に対する率は0.037%が0.045%に上昇していた。感染者の増加率は8日間で19.8%となっていた。

東京都の場合は15,536人から17,875人に増加しており、その率は0.11%から0.127%に達していた。感染者の増加率は15.0%だった。

我が新宿区は相変わらず東京都内で最大の感染者数が続き、2,069人から2,322人への増加で、その率も0.576%が0.699%という具合で極めて高率だった。ここでの感染者は12.2%とやや意外にも東京都全体より低率だった。これは小池都知事命名の「夜の街」が自粛したのか、都知事の政策が効果を発揮したのか否かは不明だ。私は問題は夜の街だけにあるのだとは考えられない気がする。若者たちの反省と自覚を求めたい気がするからだ。


8月17日 その2 如何なものかと思ったこと

2020-08-17 15:54:29 | コラム
何でそうなったのだろうか:

日本水商売協会・代表理事甲賀香織氏は言った:
昨16日のテレ朝の「テレビタックル」にゲスト出演された甲賀女史の東京都が、都内の飲食店等に店頭に貼らせているステッカー(英語の綴りは“sticker”→ステイカーだがね)についての発言というか、批判は非常に印象的だったので、敢えて引用してみよう。あの発言は言うなれば強烈な小池都知事と西村康稔大臣への批判だったと言えると思う。

甲賀女史の発言は「小池都知事が『夜に街』とその協会の会員の生業を形容されたのは言わば差別的であり、業界がそういう目で見られるようになったのは甚だ遺憾である」というところから始まった。女史は「あのステッカーに相応しくチャンと感染対策を講じている店は幾らでもある。その辺りを個別に調査もされずに云々されるのは如何なものか」と、穏やかに指摘していた。私にとって最も印象的だったのは「小池都知事も西村康稔大臣も一度も現場を視察に来ておられない」と言い切った点だった。私は如何なる事情があろうとも、お二方は実情を視察に赴くべきだと言いたいのだ。

これまでにこれほど正面からテレビで小池都知事のスタンドプレーを批判した人は初めて見た。あの甲賀女史の発言が小池都知事と西村康稔大臣に聞こえていれば良いのだがと、真剣に考えている。念の為に申し添えておくと「日本水商売協会」は実在している。

大阪桐蔭高対東海大学相模高の野球の試合:
本日は春の選抜高校野球がウイルス禍の為に中止となった(私流に言えば)埋め合わせの甲子園での試合が、この両校の間で行われていた。高野連の高校野球にというか高校野球部への配慮のほどが痛いほど感じられる甲子園での一試合だけの大会(?)だそうだ。私はそれを忠実に全試合中継放送するNHKとテレ朝の高校野球を礼賛するというか尊重する姿勢には感動させられてはいない、念の為。

その試合は途中から見たのだが、東海大相模の何処か気合い抜けしたような雰囲気を感じさせられた試合振りに違和感を覚えた。そこでハタと気が付いたことは「東海大相模は15日に神奈川県大会の試合で大勝したばかりという点」だった。その意味は15日の試合後に神奈川県を出て大阪なり西宮まで到着したか、昨日に到着したか知らないということ。だが、この酷暑の中をプロ野球でもあるまいに500 kmを移動して、中一日置いて17日の午前中に関東人には想像も出来ないほど暑い兵庫県西宮の甲子園で試合をするのは、身体的芋精神的にも大変な負担だったと思うのだ。

初めのうちはそれに気が付かなかったので、何故「1」という番号を背負っていない2年生が投げているのかなと思っていた。「1」を付けた投手は敗戦がほぼ濃厚になってから出てきたが、アナウンサーの口ぶりでは、15日の試合に出ていた様子だった。出ていなかった訳だ。私が疑問に思うことは、如何にマスコミが言う「聖地甲子園」出場の機会を失ったとは言え、あそこまでの強行軍の日程で未だ心身共に成長中の高校生に試合をさせたのかという点である。

東海大相模高は県大会を勝ち上がっていたのでは、また直ちに戻って次の試合が待っているのだろう。苛酷であり過剰ではと。疑問に思う高野連の行きすぎた配慮ではないのか。忌憚のないところを言えば「あーあ、高校野球」だ。でも、一度は同点に追い付いて見せた東海大相模高の気力を褒めてやりたいとは思う。だが、高野連は褒めたくない。


来たるべきアメリカ大統領選挙の行方:

2020-08-17 10:08:10 | コラム
アメリカの元上司や同僚に問い合わせてみた:

先日掲載しました「アメリカ大統領選挙(アメリカの元上司と友人に問い合わせてみよう)」を、昨日やっと英文にして送ったところ、2名からかなり手厳しいトランプ大統領の批判となって返ってきました。これは別に驚きでも何でもありませんが。

一つは私が最も尊敬する知的な元上司の奥方でMBAでコンサルタント事務所を持っておられた人からで、もう一方は言うまでもないかも知れませんがお馴染みのL氏から。

内容は「そこまで言われるか」と言いたいようなと言うか、今までに聞いたこともな方ほどの激しさでのトランプ大統領とその政権の批判。元上司の奥方からの返信は大変な長文ですが、こういう見方が絶対に我が国のメディアやテレビ局が「専門家」と称して語らせている、私に言わせれば”They are not making things happen.”ではない伝聞と統計と資料に基づいて語る人たちとの違いだと思います。または当事者というか支配階層のアメリカ人がトランプ大統領をどのように見ているかを表していると思います。

その内容を一言にすれば、YM氏が13日に「彼とその周囲にいる人たちとトランプ氏とは全く相容れないので、交流があるわけがなく話が通じていない」と言っていたのと同じでしょう。未だトランプ候補だった頃に、NY在住のエコノミストEH氏は「仕事上でトランプ氏と付き合いがあるが、トランプ氏と知り合いだと言っただけでも、街を歩いていれば背後からナイフで刺し殺されそうな恐怖感がある」と語っていたそうです。

アメリカの支配階層と永年の親密な本格的な付き合いがあるのだろうとか、彼等の中で暮らしたことがあるのかなと疑わせるような評論家が見るアメリカと、アメリカのアッパーミドルに属する人たちが見るトランプ大統領やジョー・バイデンは違うと思うのです。YM氏の表現を借りれば「駐在員や留学生は彼等から見ればお客様に過ぎない」のだそうです。アメリカの支配階層と親密に交際して本心を聞き出せるような機会はないだろうという意味になるのでしょうか。

私は何度も彼らの一員だったと述べてきましたが、それ故にトランプ大統領の支持層の人たちとは全くと言って誤りではないほど、交流がありませんでした。この辺りがアメリカの「分化」でしょう。今回、受信した二人もトランプ大統領が再選されるのか、バイデン/ハリスが勝つかには直接には触れていません。何分にもトランプ大統領を嫌う(批判する)層に属する人たちは、最早アメリかでは少数派ですから。


あらためて8月15日を思えば

2020-08-16 10:46:09 | コラム
あの戦時中を振り返れば:

私は正直に言って、あの昭和16年12月8日から昭和20年8月15日の間に何が起こっていて、我々銃後の日本国民がどのような思いで毎日を過ごしていたかを経験しておられない方々が、今になって寧ろ自虐的というか何かを反省したかの如くに戦争中のことを語るのを聞くのは、決して心良いことではないのだ。貴方がたが当時の何をご存じなのか、何を経験されたのかと尋ねてみたくなるのだ。

昨日も控え目に振り返ってみたが、ここでは本当に言いたかったことを述べてみよう。あの時期を過ごしてきた小学生から中学1年の間の経験から言えることは「戦争というものは狂気が為せる業ではないのか。あの当時は誰もその異様というのか何かに魅せられたような精神状態の中で過ごしてこられなかっただろう方々に、何がお解りかと伺いたい気がしてならない。私たち小国民と雖も聖戦に勝つと信じて連日の大本営発表に欣喜雀躍していたのだ。政府というか軍の発表をひたすら信じて「鬼畜米英」に勝つ為に「欲しがりません勝つまでは」と耐え忍んでいたのだ。

親類縁者や近隣の方々が「赤紙」と称された召集令状を受け取って、万歳の声に送られて戦場に出て行かれたのだった。子供の軍隊を真似た遊びでも「天皇陛下万歳」を唱えていたのだった。学校では校長先生が御真影を捧げ持って皆に訓示され、その文言の中に「天皇陛下」が入れば、全生徒が「気をつけ」の直立不動の姿勢に変わって、一斉に「カツン」と音を立てて靴のかかとを付けるのだった。配属将校でなくとも、礼儀を守らなかった生徒は普通の先生に殴られたものだった。そういうことを皆が何の不思議もなく受け入れていた時代だった。

だが、段々に形勢が不利になってきてアメリカ軍の本土上陸があるかも知れないので、本土決戦に備えるべしという雰囲気が漂ってくるようになった。だが、そう聞けば13歳の子供でも、アメリカ軍が本当に上陸してきたときに、竹槍で戦えるのかと疑問には感じていた。それでも、大人たちはその訓練はしていたし、小学校(じゃなかった国民学校)では男子は剣道、女子は薙刀の稽古に励んでいたものだった。昨日も回顧したように、その頃にもなればB29の空襲は頻繁になり、遂には艦載機が飛来して一般人を機銃掃射で襲うようになっていた。

相手は艦載機で空中からは機銃掃射では防ぎようがなかった。しかも頑是無い子供まで襲ってきたのだ。B29は焼夷弾を本当に雨が降るように落としていた。確か平塚市の空襲は昼間で、校庭の防空壕から焼夷弾が降っていくのが藤沢かでもハッキリと見えた。恐ろしい光景だった。現在、テレビなどで色々と御託を並べている方々が、こういう経験をしているのだろうか。そうであれば、どんなに若くても80歳半ば以上でなければ語れないはずだ。私は藤沢には焼夷弾は落ちないと思っていたが、小石川区の我が家が爆撃されて、家財道具一切と共に焼失した。

こういう経験をしていながら、私は39歳にしてアメリカの会社に転出して、その後の22年半もの間はアメリカの会社の一員として、アメリカの為に対日輸出に日夜懸命に働くようになるとは、夢にも思っていなかった。私はアメリカ軍の空襲で家を焼かれていながら、ただ自分に向かってきた運命に逆らわないようにしようと思って転進しただけだった。それは生活がかかっていたし、家族を路頭に迷わせることがないようにと懸命だっただけ。

今回はここにあの4年弱の間の経験のごく一部をあらためて回顧したが、本心では戦争中のことは思い出したくもないし、敢えて語ろうと思ったこともない。5歳年下の家内も群馬県の前橋で戦災に遭っているが、二人で「あの時はこうだった」というような回顧した事はない。同じ事を繰り返すが、あの時代の経験をしておられない方々が如何にも何かもご承知のように戦争を語られるを聞くのは、決して心地良いことではない。母方では叔父が2人戦死されていた。これだけ言えば十分だろう。


「8月15日」に思う

2020-08-15 08:48:16 | コラム
あれから75年を経ていた:

昭和20年は恐らく我が人生の中でも最も変化に富んでいたときだと思う。即ち、戦時中に憧れの湘南中学に入学できて、毎朝ゲートルを巻いて藤沢駅に集合した者たちを、最上級生(2年生か3年生だったと思うが)が指揮して二列縦隊に並んで学校まで行進していくのだった。今ではゲートルの巻き方の記憶などないが、上手く巻いておかないと行進の途中で解けるかずり落ちてしまうので大変だった。学校には未だ教練の為の将校が駐在していて、新入生にも厳しく軍事教練を指導されていた。

入学直後に東京の小石川区に何時でも帰れるようになっていた家が、13日にアメリカ軍の空襲で焼かれてしまった。(因みに、我が家は病弱だった私の為と疎開の目的で藤沢に転居していた)家の焼失は重大な事件だったはずだが、子供心には「そういうこともあるのか」という程度の受け止め方だった。当時は空襲の警戒警報が発令されれば授業は中止で帰宅するか、校庭に設けられた防空壕の中に待避して解除されるのを待つかの何れかで、何れにせよ満足に授業は受けられなかった。

それだけではなく、我々1年生にも勤労動員があって、今考えれば何の役にも立たなかったが、近隣の農家に派遣されて手伝っていたのだった。そのお陰で人生で最初で最後の田んぼに入って草取りだったかの作業をした。その楽しみは、帰りに「持って帰りなさい」と当時は貴重だった薩摩芋などを貰えて感激していたものだった。農村動員の後は鵠沼から辻堂の海岸にかけての防風林に入って戦闘機の燃料になるという松根油を取る為に、松の木の根を切り出す作業をさせられた。子供でも皆が「こんな事をしている状態で本当に戦争に勝てるのかな」と疑問に感じていた。

当時はごく普通にアメリカ軍の艦載機が襲ってきて機関銃(なのだろうか)で射撃してきた。私は学校からの帰りに襲われかけて危うく近くの松林の中に逃げて難を免れたことがあったが、同級生の1人は膝に弾が当たって大怪我をさせられた。今になって振り返れば嘘のような話かも知れないが、彼等は情け容赦なく機銃掃射して来たのだった。私はあるときに高射砲で撃たれたと聞いたB29が、真っ赤になって相模湾に落ちるのを夜間に見に行った記憶すらあった。

そんな状況の最中に8月になって何処からともなく「我が国は間もなく戦争に負けるのだ」という話がまことしやかに聞こえてきていた。その後に8月15日には「玉音放送」があるからと知らされて、当日は学校も休みで家にいて放送を待っていたと記憶する。あの日は何処までも抜けるような晴天だったのは忘れられない。玉音放送は謹んで伺っていた。正直な感覚では「あー、これで終わったんだ」というだけで、気が抜けたような状態だった。もう空襲も機銃掃射もなくなるのだと思った。

だが、その時でも相変わらず艦載機の掃射音がバリバリと聞こえていた。「何だ。終わってないのか」とも感じていた。「戦争に負けた」というよりも「もう、これで戦う為に何かしなくても良くなったのか」という安堵感だけが残っていた。同時に中学1年の子供と雖も、何ものにも例えようがない虚脱感に襲われていた。真っ青な空を見上げて、未だ続く艦載機の掃射音を聞きながら、ボンヤリとしていたのは未だに忘れていない。あれから75年も経ったのかと、時の経つ事の速さを感じている。

上記のように今回は戦争中の思い出を語ったが、私は有識者やマスメディアがあの戦争中のことを採り上げて語るのが気に入らないのだ。私は戦時中の我々の心理状態はとても正常とは思えないところに追い込まれていたと思っている。私は上記以外にも未だ未だ色々と記憶しているが、それらを思い出したり、詳細に語ろうという気になとてもならない。私は戦争反対論者でも何でもないが、あの頃の記憶は絶対に開けられない金庫の中にでも厳重に閉じ込めておきたいだけだ。