新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

岸田文雄内閣総理大臣に思う事:

2022-01-27 09:43:24 | コラム

もう岸田総理に関しての感想というか批判をしても良い時期に至ったと思う:

偽らざる感想は「矢張り、先入観とそれほど違ってはいないお方だった」である。その先入観念とは「必要以上に慎重であり、語り口も同様であって何を言われたいのかが解り難い政治家」だった。だが、岸田氏はそのような失礼な見方を一掃するかのような「二階幹事長排斥」を堂々と明らかにして、前回の総裁選出馬の意向を鮮明にされた。「もしかすると、これが岸田氏の本性であり、慎重かと見えて姿勢はフェイント(feint)で見せかけだったのか」とすら感じていた。早めの国会解散と総選挙に打って出られた手法も「見直すべきか」と思わせられた。

そして、待望の(誰の?)の通常国会となり、予算委員会も始まった。その模様は気が付いたときには国会中継で見ていたし、後刻一問一答もニュースで見ていた。そこで得た印象で「岸田総理とは」と決めつけるのは早計だろうし、公正でも合理的でもないと思うが「矢張り先入観とは大きくは変わっていなかったのでは」だったのだ。

その点を僅か2件についての質疑応答だけから云々するのも、これまた不適切かと思うが「あれで良いのかな。一国の総理大臣としては、もっと思い切ってと言うか一刀両断的な答え方をして頂きたかった」と言いたくなった。それらとは、立憲民主党が訊いた「濃厚接触者の隔離期間を10日間ではなくアメリカやUKと同様に5日間にすべきでは」と「何故、前倒しにすると表明された3回目のワクチン接種が未だに10%にも満たないのか」だった。

総理の答え方は私には何をおっしゃりたいのか理解できなかったし、単なる逃げ口上の如くに聞こえた。「この方にお任せして良いのかな」と「不安に感じたのは私だけでなかったら良いのだが、遅れている実態が下から総理に時宜を得て上がっていないのでは、あるいは現場(下情?)に通じておられるのか」という疑念である。私には言葉を濁して済む問題ではないとしか思えないのだ。もしかして、我が国では組織に段階があるために、総理までに情報が届くのに時間がかかっているのかと疑った。

昨夜から多くのテレビ局のニュースで「検査キットの深刻な供給不足と、一部の医療機関では今週中に在庫切れを生じる」と報じているし、中川医師会長は「一部の医療機関ではない所が買い占めているのは・・・」と警告していた。私は実情を知らずして言うが「この供給態勢のようなことは第5派が静まりかけてきた時期に、次なる波の発生に備えて万全の態勢を採っておくこと」が出来ていなかった政治の不手際だと思うのだ。故に、野党の質問をはぐらかすしかなかったかのように見えてしまうのだ。もしもそうだったら不安にさせられる。

オミクロン株の感染振りを、毎日毎晩マスメデイアに「これでもか」とばかりに感染者数の急増振りを肝にして見せ付けられては困るのだ。岸田総理には慎重(裏は「優柔不断だが」)な姿勢を維持しておられても良い時は過ぎたとあらためて認識され、二階幹事長排斥を言い出されたような果断な姿勢で、この誰がやっても難しい時期を乗り切る断固たる姿勢で臨んで頂きたいのである。

 


再び“r”の発音について

2022-01-26 10:03:43 | コラム

何でこんな事に気が付かなかったのかと反省:

私は長いことカタカナ語製造業者たちが「何故“r”を『ル』と表記するのか」と批判してきた。だが、どうしてそうなるのかとぼやくだけで、一向にその原因を究明できずにいた。そんな不甲斐ない私だったのだが、ある何でもないことが切掛けとなって、漸く「これが原因だろう」と思うことを見出したのだった。

そこに行く前に「ル」となっている例をあらためて採り上げておこうと思う。昨日も触れたことで、五つある母音のa、e、i、o、uの後に“r”が来た場合には、一部の例外を除いては「アー」という発音になるのだ。だが、“or”の場合には昨日も取りた“retort”(=レトルト)のように「リトート」と「オー」になるし、portやsortやsportsのように「オー」なのだ。

だが、conductorやlaborやmotorやtutorの場合には「アー」なのだ。「コンドクトル」、「ラボル」、「モートル」、「テユートル」とはなっていない。余談だが、laborはアメリカ語で英連邦ではlabourとなっているし、我が国の厚生労働省の英語表記は何故かLabourなのだ・・・。矢張り英連合王国崇拝なのかと疑っている。

私が気付いた点は「昭和20年4月に初めて敵性語の英語を教えられたときに、アルファベット26文字の発音の中で“r”は「ル」だとなっていた。だが、今となって解ったことは「ル」となるのは、その後に母音が来た場合のみであって、五つの母音の後に付いた場合には上記の例のように「アー」となるのであり、Modernaを「モデルナ」としたようにはならないと言う簡単なことだった。彼ら製造業者のおかしな点は「モデルナ」としているにも拘わらず、containerを事もあろうに「コンテナ」にしたが「コンテイネル」とはしなかった矛盾だ。

重ねて言えば「“r”が母音の前にある時は『ル』となるが、母音の後に付いた場合には『アー』乃至は『オー』となること」なのだ。また、昨日も指摘したが、アメリカの英語では母音の後の“r”を響かせる発音をする場合があるが、決して「ル」とまで明らかにはしないのだ。“center”は絶対に「センテル」とならないのだ。また余談だが、英連邦では“centre“という綴りだが「セントル」とはならないのだ。

更にもう一つ、「ル」としてしまうことの一因だろうと思うことを挙げておこう。それはアルファベットの“r”は広く我が国では「アール」とされているようだが、正確に言えば「アメリカでも英連邦でも『アー』と呼ばれていると思って誤りではない」のだ。Oxfordの発音記号には“r”を響かせることもあるようになってはいるが。「何でこんな事に気が付かなかったのか」と反省した。少しこじつけめくが「『アール』だと思っているから、カタカナ表記でも『ル』としたがるのではないのか」と見ている。

何れにせよ、私は英語の教育でこのような点を細かく教えていないから「エネルギー」や「レトルト」や「モデルナ」のようなおかしな表記になってしまうのだと思っている。

独り善がりかも知れないが、これを以て結論としようと考えている。今年の入試センター試験の英語も一寸だけ見たが、「こんな難しいというか面倒な試験問題を出して、一体全体何を判定しようというのか」と理解不能だった。もしかして「英語の言語学者養成試験かな」とも疑った。そんなことを試す前に「何故『ル』になってしまうのか」を追及しておいて欲しかった。

 


1月25日 その2 英語のお話し

2022-01-25 15:34:11 | #英語の話
“r”の発音について:

矢張り、暫く振りに英語の話題に触れておきたくなった。「またか」などと仰らずに暫時付き合いの程を。

一昨日だったか、偶然にチャンネルを合わせたTBSのBSだったかで「Hero’s Award」という表彰の式典を放映していた。社会貢献をした運動選手を表彰する日本財団が主催する行事だったと、後から検索して知り得たのだ。21年度として表彰されたのはNPBの大投手だった村田兆治さんとオリンピック代表だった陸上競技の寺田明日香さんだった。「何だ。それと英語どどういう関係があるのか」言われそうだが、暫くお待ちを。

受賞者を呼び出していた司会者と思しき女性はかなり達者な英語だったが、“r”を必要以上に響かせた発音で“award”を「アウオード」と言っていたにも拘わらず、番組担当のアナウンサーは全く躊躇うことなく再三再四「ヒーローズ・アワード」と言ってのけていた。女性の発音と食い違っていることには頓着せずに、何処かの会社が作成したのだろう「外来語ハンドブック」の表示通りにしていた。私がこれまでに何度も指摘したことで、天下の有名一流大学出身だと思う彼らが「アワード」ではおかしいと思わない感覚は理解できないのだ。

また、司会者だと思しき女性が“award”という単語で「アウオールド」に近いように“r”を響かせる発音が邪道だと知らない様子なのも、我が国の英語教育の至らなさではないかと、ウンザリしながら聞いていた。まともな英語教師だったら「一部のアメリカ人というか、アメリカのある地域では“r”を響かせて発音するのだが、それは上品ではないと看做されている」と教えておくべき事なのである。

更に、我が国のテレビ局とうの報道機関に蔓延してしまっている“award”を「アワード」と発音するのは誤りというべきか、不正確な発音であると知られていないのは、本当に情けないのだ。如何なる辞書を見ても「アワード」などという発音記号は記載されていない。思うに、何処かに巣食うカタカナ語製造業者が好い加減な表記をしたのを、公共の電波を使っているテレビ局が何の疑問にも思わずに、局員に使わせている不見識振りだと思っている。不見識は何もテレビ局だけではなく、方々の団体でもシレッとして「アワード」呼ばわりしている。情けない。

私がこれまでに繰り返して批判してきた事で、我が国では英語の綴りで、a、e、i、o、uの後に“r”が来た場合に歴史的にも、前からずっと今も尚、英語そのものの発音を無視して「ル」としてしまっているのだ。先日のオリンピックの際にも女子のゴルフで優勝したNelly Kordaさんを「コーダ」ではなく平然と「コルダさん」にしてしまった。それ以前の例では、COVID用のワクチンの製薬会社Modernaを「モデルナ」としてしまっていた。どう読んでも「マダーナ」で、最悪でも「モダーナ」しかあり得ないのに。

私はこのように我が国の英語の単語や固有名詞に“r”が入っている場合に「ル」とする習慣が何故始まったのかが不思議でならない。クイーンズイングリッシュでは先ずあり得ない発音だし、アメリカ語でも“r“を響かせるのは少数派である。先ほど取り上げた麗澤大学准教授のMorgan氏を、産経新聞はちゃんと「モーガン」と表記していたが、我が国には古くから「モルガン銀行」があり、その英語の表記はMorganである。

他の「ル」の例を参考までに挙げておくと「エネルギー」は“energy”だったし、「レトルト食品」は“retort”である。COVIDの治療薬のRemdesivirも何故か「レミでシビル」になっていたし、Merck社のMolnupiravirは「モルヌピラビル」となっていた。私は不勉強でMerckが「メルク」か「マーク」なのかは調べていない。

私はこの「ルと表記したい症候群」を責めるのは詮無いことだと解っている。それは、最早何処かの誰かが意図的であったかなかったは別にして、過去の先例に従って「ル」としてしまい、それが遍く国内に広まってしまっているからだ。だが、この広くない我が国の何処かで誰かが「おかしい」と指摘しないことには、このような奇妙な表記と表現がまかり通ってしまうのは良くないと少しでも知って貰いたいから、無駄な努力と承知で書いているのだ。


産経新聞の本日の「正論」から

2022-01-25 09:06:55 | コラム
ジェイソン・モーガン麗澤大学准教授は言った:

モーガン准教授は「五輪開催の懸念はどこへ消えた」と題しておられたが、私も何となく北京の冬季オリンピックの開催については、何処からも「開催反対」という声も上がっていないなとは感じていた。矢張り我が国だけではなく、世界の処々方々で中国に対する気兼ねがあるのかとは考えていた。

その辺りをモーガン准教授はかなり手厳しく取り上げておられた。小見出しだけを取ってみても“「日本専門家」の五輪叩き”と“北京五輪には沈黙”に加えて“「ジェノサイド」見ぬふりか”とされていたので、これだけでも十分に意を尽くされていると思って「正論」を読んだ。中には、反日派なのだろうオーストラリア国立大学名誉教授の歴史学者ガバン・マコーマック氏は「五輪を開催すれば大量のコロナウイルスの感染と流通になりかねない」と懸念を示したという辺りまで引用しておられた。詳細はお読み頂ければ良いと思うので、これ以上の引用はしない。

私の読後の感想はと言えば(そこに昨夜のPrime Newsを見ての影響もないとは言えないが)第一に「我が国の政府というのか外務省というのかあるいは両方かの、中国に対する弱腰もここに極まる」と思わせられた、人権問題の非難決議ができていないことがあった。次には、上述のマコーマック氏等の日本叩きの専門家たちは中国に対しては沈黙している(させられているのか?)偏った姿勢に対する憤り」だった。

私は持論として海外の日本叩きというのか反日本国の勢力が蔓延っている最大の原因の一つに「我が国の海外向けの『日本国とは』という情報発信が余りにも少ない」ので、何時まで経っても「理解されざる、正当に認識されざる日本」でしかないという点を指摘したいのだ。20年以上も対日輸出に専念しているアメリカの会社で働いていて、アメリカ及びアメリカ人の我が国に対する理解どころか知識が極めて低いと言うことが良く解ってしまった。簡単な例では、輸出担当の管理職でも「日米安保条約」の存在すら知らないという事実がある。

1990年代末期に東京で大統領の経済諮問委員会の一員の日本通と紹介された方の講演を、某北欧系外資会社の論客の副社長と聴く機会があった。聴き終えてから異口同音に「この程度の浅薄な我が国についての理解と認識で日本通として通用しているとは」と嘲笑ったことがあった。私はこういう状態になってしまった原因が「彼らの勉強不足」なのか、「我が国からの情報発信不足なのか」、あるいは両方ではないかと懸念している。

だが、アメリカの一般人たちの我が国についての知識などはあって無きが如きだと、経験からも断定できると思っている。また、誤った認識があっても「それは違う」と真っ向から正そうとしてこなかったとも見ている。それは英語力とだけの問題ではなくて、我が国の思考体系と文化の為せる業かと思っている。

あらためてモーガン准教授の指摘を読み直して感じたことは「これは彼の我が国に対するかなり手厳しい批判であろう」という点だった。それは、これまでに再三再四指摘して来た我が国の外国人との交渉事の際に見せる「論争と対立を怖れるというか、回避して妥協するか、中間点に落とそう」姿勢の生ぬるさを、モーガン准教授が言いたかったのかと思った。昨夜のPrime Newsでは誰が言ったか失念したが「反論する安倍元総理、沈黙する菅前総理、頷く岸田総理」を思い出した。


1月24日 その2 現代の流行り歌の旋律(調べ)は案外に綺麗だった

2022-01-24 16:31:59 | コラム
街角ピアノとThe Timeでの演奏を聴いて:

昨23日にチャンネルを合わせたNHKのBSでは「駅ピアノ」ではなく「街角ピアノ」で、金沢市の何とかいう場所に設置したピアノを、通りすがりの色々な人たちが演奏するのを聞かせてくれた。なお、見出しに掲げた“The Time”はTBSの早朝4時半からの番組というのかニュースショー(なのだろう)で、冒頭にピアノタレントという耳新しい職業の人がピアノを演奏し、更に番組中で視聴者からのリクエスト曲も演奏するという仕掛けだ。

私は以前にも取り上げたことで、NHKの「駅ピアノ」はなまじっか地上波にチャンネルを合わせて、COVIDというのかオミクロン株の脅威をこれでもかと言わんばかりに専門家という名の大学教授にご登場願って強調されるのを聞くのが鬱陶しいので、極力敬遠している。そして、自分なりに「ウイルスを正しく理解して、正しく怖れて、正しく対策を講じるように努めているつもり」なのだ。その点では駅ピアノでアメリカやヨーロッパの人たちが自分たちの音楽を楽しみながら演奏するのを聴いて、現代風に表現すれば「癒やされている」のだ。

早朝のThe Timeでのピアノ演奏はやや趣が違うが、流行歌の旋律(調べというか英語風にいえば「メロでイー」)には「案外に綺麗なものだな」と認識させられている。私は古き良き昭和時代の藤山一郎、東海林太郎、淡谷のり子、渡辺はま子等の正統な発声で歌うお行儀が良かった歌手たちと、現代の素人に毛も生えていないようなシンガーソングライターとやらいう連中や、ミーハーに受けている歌手たちとは別個の音楽だと思っているので、聴こうとも思わないし、その気になって聴いたことがない。現に、紅白歌合戦などは半世紀以上も聴いてない。

その点では、何年前のことだったか、桑田佳祐の曲を「下品だから聴かない」と決めつけて「名曲を何と言うのか」と「頂門の一針」誌上でお叱りを被ったことがあった。ましてや、EXILEその他などという合唱団というか舞踏団などは、マスコミ報道でその存在を承知している程度だ。

ところが、である。そういう私が流行歌と決めつける曲を昨日のように、The Timeでというのか、歌を抜いた曲だけを聴くと「何だ。案外に綺麗なものではないか、音域が極めて狭いという点を除けば」と思って聴いていた。いや、正直に言えば「見直していた」のだった。

その旋律が綺麗だと聞こえた訳は、もしかするとピアノタレントの方々の技量の所為だったかも知れないが、折角綺麗な音を選んで紡いでいたのに、そこに何も「歌詞」などという名に値しないようなお話しを付けるとか、やたらに英語風な横文字を入れるとか、余計なことをいないで曲だけを聴いて貰うことに専念すれば良かったのではと思って聴いていた。彼らが創り出す旋律は嘗てのようにマイナーではなく明るいのは、とても良いのではないかとすら感じていた。

そうやって批評をするからには、もしかしてその気になって聴いているのではないのかと疑われそうだ。決してそんなことはないのだ。家にいる時間が長くなる一方の昨今のウイルスの状況では、民放のテレビにチャンネルを合わせていれば、否応なくジャニーズでも誰でも売れている連中の歌をCM等までを含めて、これでもかと聞かせて貰えるのだ。最後に一言添えておけば、「現代の流行り歌には、酒だの涙だの別れだの駅だの港などが出てこないで明るいので聴きやすい」のが良いと思う。