読書。
『競馬漂流記』 高橋源一郎
を読んだ。
1993,4年ころの競馬エッセイです。
20~30年前の海外の有名な馬もなんとなく名前は知っているし、
ついていける感じで読みました。
なぜかと言えば、当時高校生でしたが、
競馬関係の本や雑誌『優駿』を愛読し、
そしてゲームでは、『ダビスタ』や『ウイニングポスト』を
好んでプレーしていたからです。
けれど、馬の名前をしらなくても楽しめるだろうエッセイです。
つよい一人称で語られるすべてが興味深い。
「バーニー・カーリー」さんだとか、
ネット時代の今でも、検索してなんとかイギリスの記事をみつける程度で、
日本語では引っかからない。
そんなネタをネットのない時代に仕入れ、
文章に残している高橋源一郎さんの海外競馬事情への深さみたいなのが伺い知れる。
といっても、付け焼刃とまではいかずとも、
その当時、熱狂的に摂取した知識や情報であることが、
あとがきでふれられていました。
その頃、本業の小説をかきたくなくてこういうエッセイを書いたそうですが、
文章の巧みさや面白さは抜群です。
海外の小説の翻訳文的な文体でもあるのだけれど、
その完成度は否応なく高い。
当時、世界を驚かせたラムタラやコタシャーン、
コマンダーインチーフやバランシーンなどの名馬たちが
生きいきとしてページ上で呼吸している印象を受けました。
そんな名馬たちだけじゃなしに、
立派な競争成績を残せなかった馬たちについても、
興味深い視点で語られているし、
ギャンブルの読み物として笑えたり、驚いたりするものもあるし、
ホースマンたちの息遣いが感じられもするし、
競馬界という閉じた世界の、でもその広大さが感じられると思います。
高橋源一郎さんの書いたものをきちんと読んだのは、
たぶん今回が初めてでしたが、文章の巧みさといいおもしろさといい、
よい読書時間を頂いた感覚です。
海外小説の翻訳文のような文体ですが、
その完成度は否応なく高いです。
またいつか、高橋源一郎さんの書いたもの、
今度は本業の小説のほうにふれてみたいです。
『競馬漂流記』 高橋源一郎
を読んだ。
1993,4年ころの競馬エッセイです。
20~30年前の海外の有名な馬もなんとなく名前は知っているし、
ついていける感じで読みました。
なぜかと言えば、当時高校生でしたが、
競馬関係の本や雑誌『優駿』を愛読し、
そしてゲームでは、『ダビスタ』や『ウイニングポスト』を
好んでプレーしていたからです。
けれど、馬の名前をしらなくても楽しめるだろうエッセイです。
つよい一人称で語られるすべてが興味深い。
「バーニー・カーリー」さんだとか、
ネット時代の今でも、検索してなんとかイギリスの記事をみつける程度で、
日本語では引っかからない。
そんなネタをネットのない時代に仕入れ、
文章に残している高橋源一郎さんの海外競馬事情への深さみたいなのが伺い知れる。
といっても、付け焼刃とまではいかずとも、
その当時、熱狂的に摂取した知識や情報であることが、
あとがきでふれられていました。
その頃、本業の小説をかきたくなくてこういうエッセイを書いたそうですが、
文章の巧みさや面白さは抜群です。
海外の小説の翻訳文的な文体でもあるのだけれど、
その完成度は否応なく高い。
当時、世界を驚かせたラムタラやコタシャーン、
コマンダーインチーフやバランシーンなどの名馬たちが
生きいきとしてページ上で呼吸している印象を受けました。
そんな名馬たちだけじゃなしに、
立派な競争成績を残せなかった馬たちについても、
興味深い視点で語られているし、
ギャンブルの読み物として笑えたり、驚いたりするものもあるし、
ホースマンたちの息遣いが感じられもするし、
競馬界という閉じた世界の、でもその広大さが感じられると思います。
高橋源一郎さんの書いたものをきちんと読んだのは、
たぶん今回が初めてでしたが、文章の巧みさといいおもしろさといい、
よい読書時間を頂いた感覚です。
海外小説の翻訳文のような文体ですが、
その完成度は否応なく高いです。
またいつか、高橋源一郎さんの書いたもの、
今度は本業の小説のほうにふれてみたいです。