これまで受けてきた学校教育によって、無料で得たという心積もりでたくさんの知識を蓄えて知的興奮を味わう経験してきますよね、勉強するのが好きな人たちというか、知的好奇心が強い人たちは。そしてそういった人たちが大人に近づき、世の中にはもっとたくさんの知識や理論、世知にいたるまでが広く存在しているだろうことを知る。人生の先輩たちは自分よりうまい方法を知っていて、どうやら得の仕方も知っているのを知ります。
それらの方法や知恵を無料で分け与えてくれないだなんて、世の中を発展させ、よりよくしていくんだっていうピュアな論理からすればおかしいじゃないか、教えてくれれば自分はうまく人生を成功させて、そのお返しだって他者へできるだけする、という考えを持つ人は珍しくないと思います。若いころには僕もそうだった。
義務教育や高等教育の延長戦、社会は次世代の人々を育てるべきものに決まってるんだ、という世界観。それはそれで、なぜ学校へいかないといけないのか、と考えれば出てくる視点で、いたってノーマルな答えだと僕は思う。知識や知恵、考える力を育む理由は世の中を先へ先へと進めていくためで、そのためにはもっと最先端の知恵や知識までをもシェアしてほしくもなるものでしょう。
人生の先輩たちはもうわかってる知恵や知識なのに、私たちへと学校のように教えてくれないなんてケチだ、と。出そろってる知識は隠さずに囲わずにシェアして当たり前じゃないか、じゃないと教育で教わるまでの範囲でぶちっときられてしまうみたいで、中途半端な教育を受けてきただけのように感じられる。実践へ足を踏みいれるにしては、手持ちのアイテムを少なく感じる。
知恵や知識をみんなシェアしてもらえたら、それらを土台にして社会を劇的にあたらしく拡張していくべきミッションにつくことができるし、全力でそのミッションにあたれる。それだけの道具・アイテムをケチらずにくれよ、という主張だ。これには、ピュアな善、なんて言いたくなります。
これはある意味で真っ当だし、ある意味で図々しい。なぜ図々しいかと言えば、資本主義の競争社会の仕組みに照らせば、自分だけの勝利を他者に飲ませるとも見られるから。つまり資本主義社会はクリーンじゃないからこそ、富の競争が成立しています(とはいえ、ルールはありますが)。
あと、知識や知恵をどんどん手に入れたいという欲求はまともでも、かんたんに手に入れてしまうと弊害があります。ある種の身体性のともなっていない知識や知恵は、害なんです。あたまでっかち、なんていうのはその一例です。
あたまでっかちくらいで済めばいいですが、身体性の薄い知恵や知識は砂上の楼閣で、それこそすぐに失敗せず、ある程度までうまく組み立てて行けたとしても最後には崩れてしまう。それも、失敗が遅ければ遅いほど被害が大きい。
というわけで、どうしても時間がかかるもの、時間をかけないといけないものはあるし、競争社会という世の中の仕組みに合わないからフリーでは得られにくい知識はあるということでした。若いうちにはみんなで繋がれば素晴らしい発展があるという理想を持つことがあり、知恵のシェアもその一つだと思う。みんなの力を合わせれば、すごいことをやれるのに! という思想ってありますよね。
まあ、そこに、もっといえば、人間心理ってまっさらなくらいに健全ではないし、健全じゃない度合いの相当に高い人だっているし、みんなが集まれば千差万別で多様な色合いを含んだ集団になる。力の合わせ方にも工夫が必要にもなる。少人数のグループなら、うまく稼働できるかもしれませんが、それだと、そのグループがあたまひとつ抜けるような成長をしたとき、そのグループによる寡占が起こったりする。それはそれで、初期衝動を生じさせた思想とは相いれない結果なのではないでしょうか。そうなったとき、「まあ、いいか」で済んでしまったりするんですけどね。
身体性と、そしてしたたかさ、これがどうやら世の中の発展の鍵なんじゃないかなあ、と僕は考えるところでした。
それらの方法や知恵を無料で分け与えてくれないだなんて、世の中を発展させ、よりよくしていくんだっていうピュアな論理からすればおかしいじゃないか、教えてくれれば自分はうまく人生を成功させて、そのお返しだって他者へできるだけする、という考えを持つ人は珍しくないと思います。若いころには僕もそうだった。
義務教育や高等教育の延長戦、社会は次世代の人々を育てるべきものに決まってるんだ、という世界観。それはそれで、なぜ学校へいかないといけないのか、と考えれば出てくる視点で、いたってノーマルな答えだと僕は思う。知識や知恵、考える力を育む理由は世の中を先へ先へと進めていくためで、そのためにはもっと最先端の知恵や知識までをもシェアしてほしくもなるものでしょう。
人生の先輩たちはもうわかってる知恵や知識なのに、私たちへと学校のように教えてくれないなんてケチだ、と。出そろってる知識は隠さずに囲わずにシェアして当たり前じゃないか、じゃないと教育で教わるまでの範囲でぶちっときられてしまうみたいで、中途半端な教育を受けてきただけのように感じられる。実践へ足を踏みいれるにしては、手持ちのアイテムを少なく感じる。
知恵や知識をみんなシェアしてもらえたら、それらを土台にして社会を劇的にあたらしく拡張していくべきミッションにつくことができるし、全力でそのミッションにあたれる。それだけの道具・アイテムをケチらずにくれよ、という主張だ。これには、ピュアな善、なんて言いたくなります。
これはある意味で真っ当だし、ある意味で図々しい。なぜ図々しいかと言えば、資本主義の競争社会の仕組みに照らせば、自分だけの勝利を他者に飲ませるとも見られるから。つまり資本主義社会はクリーンじゃないからこそ、富の競争が成立しています(とはいえ、ルールはありますが)。
あと、知識や知恵をどんどん手に入れたいという欲求はまともでも、かんたんに手に入れてしまうと弊害があります。ある種の身体性のともなっていない知識や知恵は、害なんです。あたまでっかち、なんていうのはその一例です。
あたまでっかちくらいで済めばいいですが、身体性の薄い知恵や知識は砂上の楼閣で、それこそすぐに失敗せず、ある程度までうまく組み立てて行けたとしても最後には崩れてしまう。それも、失敗が遅ければ遅いほど被害が大きい。
というわけで、どうしても時間がかかるもの、時間をかけないといけないものはあるし、競争社会という世の中の仕組みに合わないからフリーでは得られにくい知識はあるということでした。若いうちにはみんなで繋がれば素晴らしい発展があるという理想を持つことがあり、知恵のシェアもその一つだと思う。みんなの力を合わせれば、すごいことをやれるのに! という思想ってありますよね。
まあ、そこに、もっといえば、人間心理ってまっさらなくらいに健全ではないし、健全じゃない度合いの相当に高い人だっているし、みんなが集まれば千差万別で多様な色合いを含んだ集団になる。力の合わせ方にも工夫が必要にもなる。少人数のグループなら、うまく稼働できるかもしれませんが、それだと、そのグループがあたまひとつ抜けるような成長をしたとき、そのグループによる寡占が起こったりする。それはそれで、初期衝動を生じさせた思想とは相いれない結果なのではないでしょうか。そうなったとき、「まあ、いいか」で済んでしまったりするんですけどね。
身体性と、そしてしたたかさ、これがどうやら世の中の発展の鍵なんじゃないかなあ、と僕は考えるところでした。