Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

自己肯定感の裏側。

2023-07-19 22:19:38 | 考えの切れ端
僕らが暮らしている競争社会では、「言ったもの勝ち」みたいに、俺のほうが強いんだぜ、と胸を張ったもの勝ちのところがある。ハッタリという戦法があるのもそのためでしょう。そうやって言い張れる、胸を張れるのって、どきどきしながらやっているウブなタイプの人もいるけれど、それらを得意戦術にしている人にとっては自己肯定感がその精神性の源になっていると思います。

僕が学生の頃、周囲を見ていて顕著に目を引いたものに、自分よりランクの高い大学の人たちを「頭でっかちだから」みたいにけなして、自分たちこそがまともだとするスタンスがありました。そのような、自分の属するグループこそが世界の中心あるいは中心を担うべきまっとうな存在だとする自己肯定感ってあって、たとえば競争社会でいくつものトップが乱立するのはこのメンタリティによるのではないでしょうか。もちろん、違う価値観に基づいたそれぞれのトップが乱立するっていう健全なかたちも多く混じっていると思います。

ただ今回、僕が言いたいのは、「努力」や「自分と向かい合い考えること」をあまりせずに自信過剰となり、ただ権力を持ちたいがための自己肯定感についてです。つまり、「向上心」や「内省する心」などの薄い自己肯定感だと言えるでしょう。そういう自己肯定感が、「アイツ生意気だ」みたいな抑圧的な振る舞いにつながる。こういうタイプの自己肯定感は陰湿です。他人の足を引っ張ったりという行為もそうです。

だけどこの、面倒くさいタイプの自己肯定感所持者がなぜ生まれるかというと、やっぱり競争社会で生きていかなければいかないからなんだと思われます。こういう自己肯定感はある意味で「ずる」なんですが、そういったグレーの領域で「おらおら」とやっちゃうのは、白日の下での勝負ではまったく叶わないことが十分にわかっているからでもあります。

公式戦ではまったく勝負にならなくても、でもなんとか競争に勝って生きていかねばならない、それもすぐに勝たないとっていう強迫観念に追われる。さらに、そういった強迫観念をみんなが感じているために、いつしか共有されてしまった強迫観念が真実にしか思えなくなって強迫観念に支配されてしまいがち。その枷が外せないのは、前提を疑ったり、枠組みの外に思いを馳せたりできないからです。なぜなら、そうするためには内省や向上心が必要なので、なおさら気づけないのです。

ネットばかりみていると、そういった種類の自己肯定感ってマジョリティになりつつあるように見受けられる。でも、そういった発言をしている層よりもはるかに分厚いに違いないサイレントの層はおそらくそうではないのだろうと僕は考えます。でもって、社会をなんとか良心的に保っていくのは後者、つまりサイレトの層だし、未来への希望となるのもサイレントの層のほうです。

声を出さずにいると、声の大きな人たちの勢力に席巻されてしまいますが、それでもサイレントの層は、この社会の根っこなのかもしれない。地上の茎や葉がなぎたおされたとき、また芽を出すために頑張るのが根っこです。サイレントの層って、そういった社会のレジリエンスを担っているのではないかなあ、となんとなく考えたりなどするところでした。

これだ! と何かをやると決めたら、あるレベルまでの自己肯定感を持ったほうが馬力がでそうです。だけれど、内省と向上心を持ち合わさないでやたらに自己肯定感だけ強くしていくと、そういう人がいる場が乱れていく気がするのです。

きっと、どんな性質もそうなんですが、ひとつの性質に偏って、それだけ強くすればいいなんてことはないのでしょう。内省と向上心と自己肯定感、その配分のバランスが大切なのかもしれないです。ある種の、自己の揺らぎ、そういった揺らぎの中でこそやっと、「真っ当さ」というものが宿るのではないか、なんて考えるところでした。
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