読書。
『孤独の科学 人はなぜ寂しくなるのか』 ジョン・T・カシオポ/ウィリアム・パトリック 柴田裕之 訳
を読んだ。
孤独感・孤立感には、高血圧や運動不足、喫煙などと同じくらいの健康リスクがあると言われています。本書はそういったステージからさらに深掘りした知見を教えてくれる良書でした。400ページ超の分量があります。
孤独感は、それを感じやすい人と感じにくい人がおり、また、感じた孤独への耐性では、強い人と弱い人がいます。これらは遺伝的に決まってくる要素だそうです。
「強迫症」や「認知の歪み」の大元に恐怖や不安があることはこれまでの読書などでわかってはいたのだけれど、では恐怖や不安の原因はなんなのかははっきりとはわかっていなかった。それが、エーリッヒ・フロム『愛するということ』を読んだときに、不安の源にあるのは孤独感だとあり、それでアマゾンで孤独に関する本を検索して、本書を見つけました。読んでみて驚いたのは、孤独感による自己調節機能の低下(自制心が発揮できないなど)や社会的認知の歪み(人とのつながりにおいてのその認知がうまくいかないこと)といったものが、不安による問題を抱えるうちの父の様子にぴったりと当てはまったことです。社会的認知の歪みに関して言えば、認知行動療法を施せると、多少なりとも効果はありそうに考えていますが、本書ではそういった療法については触れられません。社会神経科学者である著者なりに、日常的な方法でどうやって孤独感を軽減させるかを、本書後半部で示してくれていました。
p372からの数ページをまとめると、次のようになります。
孤独だと要求ばかりするようになり、批判的にもなる。(補足すると、自制心が低下しているので批判するときにキレていることもあるでしょう)。行動が消極的になり、引きこもりもする。対処としては、思い込みではなく、その裏にある現実に目を向けることを心掛ける。そして、家族などは、そういった孤独な人に、守られていて安全だ、という気持ちにさせるために働きかけるのがいい。目の前の戦いでは降参ばかりだったとしても、長い目で見れば勝利を勝ち取れる。歪んだ認識は、論理的に正当化できない脅威の感覚に由来するものだと言ったところで、どうにもならない。感覚はあくまで感覚なのだ。不安感は、深い部分に根づいている拒絶感が原因である場合が多い(つまりは孤独感に付随する感覚でしょう)。
古来より「追放」という刑罰があったり、今でも「独房」があったりするのは、人間は人間同士のつながりを絶たれることがとてもつらい生き物だから。組織がすぐに排除によって秩序を守ろうとするのも、異物的存在を排外処置して純粋性を保つことのほかに、孤立させて懲らしめる意味合いもありそうです。
トピックとしておもしろかったのは、普通の表情の人より、激しい情動の人をみているほうが、脳の受け取るシグナルは強まるというところ。つまり脳がより活性化して、脳の発達にもつながる。この知見は、「アイドルを推すなら、できるだけ<全力アイドル>を推せ」という格言を生んでもおかしくありません。なぜなら孤独感に効くからです。孤独感や孤立感が流行してしまった世界では、表情豊かな芸能人が人気者になるでしょうか?
もうひとつトピックを。テロを起こす単独犯がマスメディアに「孤独な人」と形容されることはあれど、実際には孤独感を持つ人が持たない人よりも社交性にかけるわけではないことがわかっているとのことでした。問題なのは、孤独感のために本来の社交的技能を発揮できなくなる場合。ここ、大事だと思います。
ナチュラル・ボーン・キラーみたいに考えたほうが勧善懲悪のわかりやすい論理で割り切りやすい。でも、それは割り切りやすいだけであって、本当ではないのですよね。出荷時の状態というかデフォルトというかつまり、誕生時のことなのだけれど、そんな人間は敏感で可塑的で。だから悪も生まれるとも考えられる。誕生時は悪くないけど、そこから一秒ごとに揺れ動く存在が人間、っていう感じを覚えました。まあ、人間観自体も人それぞれですし時代によって揺れ動きますけども。性善説、性悪説、極端な2つがまず浮かびますが、そういう意味では性善説に傾くのかなあ。無人レジ設置時に性善説を引き合いに出す人がいたりします。でも、そんな基本モードとしての性善説人間でずっと生きている人もいないし、性善から出発したって人生の旅路でそれぞれ様々な経験をして変わっていくし、だと思うんですよねえ。
あと、短いトピックを最後に。疎外感を持った人は、寄付に消極的だし、誰かに制裁を与えることになるとより多くの罰を与えたがるのだそう。すぐに人を叩いて貶めようと躍起になる人ってネットにも現実にもいますけど、そうか、疎外感なんですねえ。
それでは、以下からは引用とそれへのコメントやまとめの記述となります。今回のこの感想・レビューはとても長いのですが、僕個人の勉強用でもありますのでご容赦ください。なにかのヒントや助言として機能したり、本書を読もう! という気持ちが生まれたりしたならば、とてもうれしいです。
では↓
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社会的な断絶(孤独)に対する弱さは遺伝的に決まっていて、環境との作用で発現する。社会的帰属への欲求の強弱がまずそれにあたる。また、孤独感の感じにくさや感じやすさ、そして孤独感への強弱が、人それぞれにある。次に、なにがしかの試練に直面したときに、表面ばかりではなく内面深くでもしっかり平静を保っていられるかどうかが自己調節の機能。孤独感が募ってくると、この自己調節機能が落ちてくる。自己調節不全は、細胞レベルでストレスへの抵抗力を弱め、睡眠のような治癒・回復機能の働きを阻害する。最後に、「社会的認知」について。他者とのかかわり合いを解釈することを「社会的認知」という。私たちは、孤独感に苛まれると、自己調節する能力が損なわれることと相まって、自分自身や他者をどう見るか、他者の反応をどう予期するかにも大きな影響が出る。(p38-39のまとめ)
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→孤独感の影響とはどういうものかを踏まえる箇所です。チェックポイントとしても機能するところです。
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私たちは社会的なつながりを感じているときには(大半の人はたいていのときにそう感じている)、成功は自分の行動の成果であり、失敗は不運のせいだと考えがちだ。だが、社会的に孤立していると感じて落ち込んでいるときには、この有益な幻想を逆転させ、小さなしくじりも大失態にしてしまう傾向にある――少なくとも自分の心のなかでは。同時に、同じ日常的な認知上の近道を使って、バリケードを使って立てこもり、自分のへまに対する批判や責任から身を守ろうとする。(p61)
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→なんでも他人のせいにする他責思考が顕著に表れるのならば、孤独感が募っているからなのかもしれない、と考えられる箇所です。<批判や責任から身を守ろうとする>ところは、「闘争/逃走反応」と呼ばれる状態の範囲にある振る舞いではないでしょうか。
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孤独感を生み出す遺伝的な傾向と生活環境との相互作用は、おおむね私たちの手に負えない。しかし、いったんそれが引き起こされると、孤独感が生む自己防衛型の思考(孤独感にゆがめられた社会的認知)のせいで、些細な社会的事柄がすべて大問題に思えてしまう。孤独に感じているときには私たちはネガティブなものに対して余計に激しく反応するばかりでなく、ポジティブなものから心慰められるような高揚感を経験しにくくなる。友人や愛する人から慈愛に満ちた援助を引き出せても、孤独感があると、その交流を期待外れだと感じやすい(p64)
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→ちょっとしたことなのに、それが大きな問題に思えてしまって頭がいっぱいになったりパニックになったりする。周囲から、大したことないよ、だとか、そんなに落ち込むな、だとか言われても、ほとんど心に響いてこない、というのが孤独感にある人の特徴的な様子なのでしょう。
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この世で独りぼっちだと感じながら自宅でぽつんと座っていると、アイスクリームなどの高脂肪の食べ物に手が伸びることに、何の不思議があるだろう。私たちは糖分や脂肪分を脳の快楽中枢に送り込むことによって、心の痛みを和らげたいと思い、自己制御の利かぬまま、即座にそれを実行に移す。こうした実行制御機能の喪失は、失恋した人が後々悔やむことをしてしまうという、よく見られる傾向の説明にもなる。(p82)
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→ほんのつかの間でも、気晴らしをしたい、という気持ちが勝るんですね。こういうものを欲するほどに、孤独感を和らげたい、と意識下で切望しているのかもしれません。
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ようするに、人は疎外されていると感じる痛みを自己調節しようとして、自らの認知を脚色して、偽りのペルソナを作り出す。自己欺瞞としてよく知られる行為だ。必死にやれば、「私がそう言っているのだから、事実そうなのだ」と、自分に思い込ませられることがある。それでもなお、孤独感の生理的・心理的な影響は、害を及ぼさずにはおかない。(p130)
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→孤独な人は、自分の都合の良いように事実を切り取ったり、嘘までついたりして、自己弁護をしたりするのは、僕の父のふるまいから見知っています。で、その弁解を僕が試みるような場面があるのですが、それも第三者にしてみればほんとうかどうかわからず、僕のほうが自己欺瞞として脚色しているのではないか、と思われてしまうきらいがあり、そういうところは相談や議論のうえで難しいなあと思います。
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孤独感と抑鬱感はともに嫌悪の情を催す不快な状態であるにもかかわらず、多くの点で対照的だ。孤独感は空腹感と同様に、不快で、しかも危険かもしれない状況を変えるために何かをせよ、という警告だ。かたや抑鬱感は、人を無関心にする。孤独感が前に進むようにと私たちを駆り立てるのに対し、抑鬱感は私たちを引き止める。しかし両者は、自己制御の感覚が衰え、消極的な対処をするようになる点で共通している。孤独感のせいで苦痛を覚え、何とかしなければという思いを募らせながらも、人が必ずしも効果的な行動を起こせないのは、一つには、この消極的な状態に陥るからだ。実行制御が失われて粘り強さがなくなったり、欲求不満から、心理学者のマーティン・セリグマンが「学習性無力感」と名付けた状態に陥ったりする。(p140)
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→孤独感が前へ進むように駆り立てる、というところは、孤独感が不安や恐怖を生み、それが強迫観念になるからではないのかな、と僕は読みました。でも、実際にやる対処は後ろ向きなんです。恐怖もあるので、外に開いたような行動や、新たに一歩踏み出すような行動はとらない。僕の身近な人を見ているとそうなのです。たとえば、認知行動療法を受けに行ってみるというような行動はとりません。消極的に、そして他責思考で、相手に無理難題をふっかけて「なんとかしろ」というのが関の山だったりします。
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そうした規律に必要な実行制御は孤独感によって低下する。孤独感には自己評価を低下させる傾向もある。他者に無価値だと思われていると感じると、自己破壊的行動をしがちで、自分の体をあまり大事にしなくなる。(p165)
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→飲酒、喫煙、過食、性的依存、ギャンブルなどの行為がここで言われる自己破壊的行動です。社会的環境は大事で、時間やルールを守って規律的に行うたとえばヨガ教室に通うことなど、そうやって規範に身を置きそこで友人と声を掛け合うようなことが、孤独感克服にとっては有益なのだけど、孤独感ゆえにそういった行動への意欲は低下するのでした。
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だが人が孤独を感じているときは、どんなストレス要因も、自分を奮い立たせてくれる試練と見なすことなど到底ありそうもない。孤独な人は、現実的な楽観主義を持って積極的に取り組まずに、悲観主義を抱いて回避する傾向がある。消極的に対処しがちで、それはすなわち、状況を変えようとせずに耐えることを意味する。この(腹の中は煮えくり返っていても)「にっこり笑って我慢する」という行動パターンは、特有のコストを伴う。(p167-168)
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→ここで言われる「耐えること」にくっつけて、別の箇所(p302)にあった実験の様子を記していきます。
一匹のサルにはキュウリのスライスを、別のサルにはブドウをご褒美としてあげたら、キュウリをもらったサルは投げ返してくる。「なんでオレにはキュウリなんだよ!」
ロバート・トリヴァーズという進化心理学者の先駆者が言ったそうなのだけど、サルにも十分わかっている通り、「ごまかしをする傾向が見つかったときに激しい攻撃性を見せる」ことが必要だ、と。孤独感によって自己調節がうまくいかないと、消極的に耐え忍ぶようになる。あるいは手を焼かせるまでの行動を取るようになるそう。
攻撃性を抑えつけて、いわゆる「大人のふるまい」をするのがよいのだ、と評価されがちなのかもしれなくて、自身でも大人のふるまいを心掛けたりしませんか。そういうのが逆に、社会を不安定にしてしまうのだと論じられていた。
僕ら日本人の多くが、大人しくて耐え忍びがちな人か、わーわー騒いで誹謗中傷に走りがちで手を焼かせる人かの両極端に見えるときがあるけれども、そういった人たちは孤独によって自己調節機能がうまくいかなくなったからかもしれないですよ。
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これら三層(爬虫類にさかのぼる動物的な脳幹、ときに理性的な皮質、間に挟まった情動脳)という特異な組み合わせが、孤独な人に、ほんとうは抱きしめてほしいときに愛する人に向かってなぜか金切り声を上げさせたりすることもあるのだ。(p198)
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→ドラマとか小説にもでてきそうな、ある意味で劇的な「孤によるの痛み」の場面だと思います。関係性によっては、抱きしめることに大きな抵抗があってできなかったり、そもそも、彼(彼女)は抱きしめてほしいところなのだ、と気づけなかったり、なかなかうまく答えに辿り着かなったりするところなのではないでしょうか。オキシトシンというホルモンがストレスホルモンのコルチゾールを減らすのですが、人とくっつくとそのオキシトシンが出るそうなのです。
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孤独感が苦痛を与え、ストレスの認識を増加させ、免疫機能を妨げ、認知機能を低下させるのに対して、オキシトシン(飛行機が滑走路を突進するときに妻が手を握ってくれると放出される)はストレス反応性を弱め、(子どもが痛がっている箇所に母親が口づけをして痛みを和らげてくれるときのように)苦痛への耐性を強め、(コーチが指示を与えるときにあなたの肩をつかむように)注意力が散漫になるのを防ぐ。(p219-220)
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→孤独に対抗する手段として、オキシトシンの有効性が論じられている箇所です。安心できる人と体をくっつけるその優しさに、こういった効能があるのはすごいですよね。
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これまで見てきたように、物理的なものであれ、情動的なものであれ、精神的なものであれ、どのような形態であっても、望まれぬ孤独は、本質的に社会的な環境で機能するように作られている生き物にとっては非常に有害なのだ。(p224)
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→進化してもなお、人間には太古の記憶として、孤独つまり一人きりなると危険だ、他の動物に襲われるぞ、というシグナルが埋め込まれたままでいます。そして、「闘争/逃走反応」が生じて、コルチゾールが分泌され、心拍数が上がるなど体に負担がかかるばかりか、批判的になったり文句をいったりなど「闘争」して他者との関係をこじらせたり、自分のミスを受け入れずに誰かのせいにして「逃走」したりし、さらに他責という「闘争」に繋がったりするのでしょう。
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好ましい人たちの中にはいってもあまり楽しみが得られず、しかも、現実のものだろうと想像上のものだろうと、社会的状況の中にある脅威のことばかり考えて視野が狭まっていると、その結果としては残念ながら、社会的にそつのない反応は生まれず、孤独な人の孤立をさらに深めてしまいうる。(p253-254)
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→うまく輪の中に溶け込めず、上手な返しや合いの手も入れられず、場のテンポがちょっと変わってしまう。僕自身がそうなることもありますし、そうなってしまう人といっしょの輪にいたことも何度だってあります。僕はそういった人のふるまいについてはかなり寛容で、フォローするタイプですが、自分がなにか場の空気に合わないとき、なかなかサポートやフォローしてくれた人っていませんでしたね。こういうときのフォローって、孤立を深めないための、好い行動にあたります。
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人がポジティブな経験の後に自分のパートナーから支援や後押しを得ることを、心理学者は「社会的資本の利用」と言う。こうしたポジティブなものを心から楽しみ、最大限に利用することは、結婚式などの親密な関係の健全性のためには、つらい時期に協力的であるよりもなおさら重要であることを研究の結果が示している。(p255)
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→何か良くないことがあったときに慰めてくれる人のその行為はありがたいですが、それよりも、良いことがあったとき(昇進など)に喜び合ったほうが自分と相手の二人の関係にとってより大きな意味合いを持つ、つまり大きなポジティブな効果が得られるそうです。言われてみて想像するとそうかもしれない、と思いますが、慰めのほうが大きな意味を持つだろう、というように錯覚してしまっていたところです。
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ありきたりの一日を過ごすだけでも、かなり落ち着いている必要があり、そのためにはやはり情動の自己調節が求められる。ところが、孤独感は独特の力を振るい、情動をバランス良く自己調節するのを妨げるので、私たちは過剰に反応したり、逆に反応が過度に少なくなったりしうる。そのうえ、人は孤独を感じているとき、他者が幸せな状況に置かれているのを目にするだけで多くの人が得る高揚感をあまり感じないから、なお厄介だ。(p258)
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→他者の幸せな状況への反応が鈍くなることが書かれていますが、これって、それゆえにますます人とのつながりを強くもてなくなりますよね。孤独感による悪循環の例ではないでしょうか。
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思い込みに基づく意味づけは、私たちを新たな高みに到達させたり、逆に、朝ベッドから起き出す気を萎えさせたりする強い力を持っている。そしてこれまでほかの多くの状況で見てきたように、そのような影響は「私たちの頭の中だけ」にとどまらない。私たちは、重要な任務をしくじるかもしれないと不安を抱くときはいつも、この思い込みによって自らを不利な状況に追いやり、克服不可能な障害を生み出して、自分の成功を阻みうる。しかし、孤独感と、それが招く自己中心性のせいで、この自然な成り行きは深刻でいつまでも続く状態へと変わることもある。社会的なつながりを作るのが重要な任務である場合でさえ、自分を生来のアウトサイダーと見なし、脅威にさらされ、空腹で、食べ物を与えなければならないと思っていたら、どんなに頑張っても報われない。しかしまた、「自分自身の現実を設計する」という、この人間ならではの能力のおかけで、自分が閉じ込められている独房を脱するのに必要な鍵を手に入れることもできるのだ。(p268)
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→よくない思い込みというものは、現実にも不利な状況を招いたり強化したりしてしまう。心理学で「自己成就的予言」「予言の自己成就」と呼ぶ心理作用があります。「そのうちこうなるんじゃないか」という思い込みが、ほんとうに現実のものとなってしまうのです。思い込みにすぎないものが、無意識のうちにその人の振る舞いに反映されていき、その結果、予言(思い込み)が現実のものとなるのではないか、と考えられているそう。で、ここで言われているのは、孤独感はそういった自己成就的予言を招くものだ、ということでしょう。
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希望とはそもそも不合理なものだ。配偶者についてポジティブな幻想を抱いていれば、結婚生活は幸せなものになり、長続きする。楽観的な見込みなしでは、新たな投機的事業に手を染める人はまずいないだろう。誰であれ、新規のビジネスを成功させたり、まともな収集家に売れる絵を描いたり、読むに値する小説を書いたり、科学に多大な貢献をしたり、一生結婚生活を続けたりできるなどと思うのは、統計に基づけば不合理な話だ。
思い込みは、認知プロセスで近道をとりたいという単純な欲求からも生まれうる。私たちはとても手に負えないほど多くの情報に接すると、政治や文化や宗教に関するものなど、生存と直接かかわりのない信念を形成するときには、思考を節約しがちだ。また、心の奥底に埋め込まれたイメージや先入観や偏見に自分の好みを支配されていることにまったく気づかないまま選択をすることもある。しかし私たちの人生のストーリーも、見方次第でやりがいのある課題にも悪夢にもなる。水の入ったコップを見て、半分しか入っていないと思うか、半分も入っていると思うか、ということだ。(p274-275)
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→人生がうまくいくためには、たくさんの不合理を受け入れる必要があるのだけど、たとえば希望を持つことが不合理だと考える人はあまりいないようにも感じられます。孤独感に苛まれている人が抱えてしまう思い込みは、認知のプロセスで近道を通ろうとする欲求から生まれうるともありました。それはつまり合理的にやっていきたいという欲求だと言い換えることができます。孤独感に苛まれる人は、合理的な方向へ傾いていくので、希望を持てなくなっていきます。つまり、不合理を避けていくようにもなるのではないか。
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進化心理学者の創始者の一人、ロバート・トリヴァースは、教えることと型にはめることを区別している。前者は子供のためになり、後者は親のためになるものだ。遊び場やデパートの試着室を一瞥すればたいてい、子供をせっついたり脅かしたりして、高圧的に指図している親の姿が目に入る。家庭では母親が、自分が休憩をとるために赤ん坊のスーザンを毎日三時に昼寝するよう「型にはめ」ようとするかもしれない。あるいは、父親が息子のチャーリーを、役立たずのラルフおじさんのようなサックス奏者でなく、自分と同じ眼科医になるよう「型にはめ」ようとするかもしれない。
孤独な子供はこの手の圧力に立ち向かって自分の利益を守る能力が人並み以下の場合がある。孤独に感じていると多数派の意見を入れる傾向が強まり、せっせと他人の真似をし、あまり粘り強さを見せなくなる。(p282-283)
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→親が、自分のためにやっているのに「子供のためだ」と言い切ってしまうことって多いですよね。本書には書いてありませんが、こういった型にはめる行為自体が、子ども自体に、「自分のことを考えてくれない、わかってくれない」という感情を抱かせて孤独に追いやってしまいかねないのではないかなあ、と考えてしまいました。
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コロンビア大学のリンダ・フリートは、メリーランド州ボルティモアで恒例の住民に少額の謝礼を払い、公立学校の児童・生徒の支援をしてもらうというプログラムを設立した。たとえば、読み方を教える手伝いをする。先生が直接手助けしてやりたいのはやまやまだが、どうしても時間がないといった場合に手伝うのだ。すると、勉強を見てもらい、また、気遣いや関心を向けてもらえば、生徒のためになることが明らかになった。しかし彼女の研究からは、高齢者のボランティアも、健康と幸福感の点で明らかに得るものがあったことがわかった。こういう形で役に立っているというのが、人生の目的や意味や充実感にとってプラスとなり、今という瞬間にとてもポジティブな生理的感覚をもたらす。生理的な報酬(別名を喜びと言い、「ヘルパーズ・ハイ」と称されることもある)は、他者に手を差し伸べる行動を続け、さらにはそれを広げる動機にもなりうる。やがて、その喜びは生涯に及ぶ情動的な痛みを埋め合わせ、そうした痛みから距離を置けるようにさえしてくれるだろう。(p355)
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→「まず私を癒して!」と強い孤独を抱える人が叫んでも、なかなか助けを得られはしないのが現実です。自分が癒され、満たされるためには、自分から他者に手を差し伸べることで自分が満たされる効果があることが、ここで述べられています。ただ、注意するべきは、働きかけが干渉になってしまったり、自己満足に捉われて他者のことに思いが及んでいなかったりするような「手を差し伸べる」になっていないかどうかです。そのような行為では迷惑になってしまいますから。また、p367には、<孤独を感じると、ついつい相手を喜ばせたくなるという罠にも落ちる>とあります。一人を助けることに成功すると、あの人もこの人も、と手を広げ過ぎてしまうきらいが孤独な人にはあるので、「ただの人間であれ」と著者は言葉を添えています。
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社会学者で、『結婚――一つの歴史』の著者ステファニー・クーンツは、今や唯一無二の心の拠り所として自分の配偶者を頼りにする人の増加を公然と非難している。今日では二〇年前よりずっと多くのアメリカ人が心を許せる親友を持たないというのも、驚くにはあたらないのかもしれない。すると最もつらい個人的問題が配偶者にかかわるものだった場合、誰に内々で相談することができるだろう。(p384)
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→この箇所は、個人的にすごく頷くところです。母の病気が再発して家庭の状況もさらに難しくなった15年前くらいに、母の主治医から父が、「誰かに愚痴でももらさないと、あなたがつぶれるよ」と言われました。父には、家庭の状況を話せる友人はいないし、母方の親族に話しても暖簾に手押しみたいで、僕に愚痴るようになりました。1時間かそれ以上語るわけです。そのうち、母にも愚痴るようになりましたが、母の件で母に愚痴のですから、それはもう批判であり文句なんです。父はそうやって崩れていった部分もあるなあと思いました。
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ペットであれコンピューターであれ、私たちが人間的な触れ合いの代用にするようなつながりは、「疑似社会的関係(パラソーシャル・リレーションシップ)」と呼ばれる。私たちはテレビの中の人物や、インターネットを通じて出会う人や、ペットのヨークシャーテリアと疑似社会的関係を結ぶことができる。これは、ほかの人間とじかに触れ合う形のつながりがうまくいかないとき、その空白を埋める効果的な方法の一つだろうか。(p391-392)
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→著者この後に、疑似社会的関係は代替的なものだから、やっぱり人と触れ合うのが大切なんだ、と説いていきます。疑似社会的関係の効果は限定的なのかもしれません。それと、古代ギリシャの哲人は、「擬人化」という概念を言葉にしましたが、それもこの疑似社会的関係のありかたと似ていることが指摘されています。
孤独の強い人ほど、擬人化する傾向が強いとあります。雨の音に親しみを感じたり、机に掘られた落書きに掘り手を豊かに想像したり、小野小町が言葉にした「あはれ」の感覚だったり、豊かな詩情って強い孤独感が育むものなのかもしれないですね。ですが、恐ろしいことに、擬人化する方面の感性の鋭さは、つまりは認知の歪みであって、脳の動きがちょっとよくなくなったためで、いわば錯覚ということみたいなんです。大いなる錯覚による詩情に、大勢が共感したり心を揺さぶられたりしているのでしょうか? 脳の構造上、孤独感によって誰もが同じような傾向の歪みを持つからかなのかな、と思いました。
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金銭は人々のやる気に関してはポジティブな影響を持っているようだが、他者に対する行動に関してはネガティブな影響を及ぼすように見える。意識の片隅でお金について考えているだけで、私たちは向社会的行動をとらなくなる、というデータがある。(p404)
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→お金のことを考えていると孤独にはまっていきやすい、ということですね。先ほど(p274-275)の知見と合わせると、お金によって希望という不合理なものとも縁遠くなる。つまり、お金のことばかり考えていると合理的になっていくのだろうと、わかってきます。楽観性を失って、不合理さに手を出せなくなると、人も社会も発展が難しくなっていくだろうことが想像できます。
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しかしやはり社会は、温かい抱擁と無条件の愛をたんに差し出すだけでは、社会的つながりと社会的調和の有益かつ持続的なレベルには到達しない。複雑系の科学によれば、ひとりでに形成される系でさえ、簡単なルールがいくつか必要だという。すべての文明が、適応行動の採用を進めるために、タブーや規範、道徳基準、法律など、非公式なルールだけでなく公式なルールも持っている。そしてこのプロセスには、第11章で取り上げたような「利他的な懲罰」が必要になることもある。それは、ときには自分にコストがかかっても、他人に制裁を加えるということだ。軽微な違反でも、それがネガティブな基調を定めて、ますますネガティブな行動につながる元凶になるので、見逃すことはできない。(p410)
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→聖徳太子(厩戸皇子)が言ったという「和を以て貴しとなす」を、表面的にやっていたらうまくいきませんよ、ということにもつながっている知見です。和をもちたいのならば、違反者に対してはきちんと懲罰をすることが必要。それが暗黙のルールであっても、違反は許さないことで、そのグループや共同体の平穏は維持される、ということでしょう。
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私たちは、孤独感を抱くと必要以上に脅威を覚えるようになり、認知能力が減退することを肝に銘じるだけでなく、本物のつながりの温もりのおかげで心が自由になり、目の前にどんな難題があっても、集中して取り組めることも忘れてはならない。個人としても社会としても、社会的な孤立感を覚えると、私たちは創造力とエネルギーの広大な貯水池を失ってしまう。人間どうしのつながりが、私たち人間の可能性を育んでくれる井戸に水を加える。(p411)
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最後の引用になりますが、本書の終盤部分なので孤独による影響のまとめになっています。孤独感が、QOLを低下させ、創造性のポテンシャルも発揮しづらくさせる。孤独感や孤立感に対するケアやキュアがもっと盛んになれば、社会はもっともっとうまく、かつ心地よく回るのではないかな、とそんなイメージが湧いてきました。孤独担当大臣がイギリスに生まれたのは、こういったような知見から危機感を覚えたからなんじゃないかと思います。日本でも孤独担当大臣がいますが、他国に追随しての措置ではなく、ヴィヴィッドな危機感をもって取り組んで欲しいですね。
というところまでです。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます、お疲れさまでした。「孤独感」と考えてみても、これだけ奥が深く、危機の要素が満載だなんて、なかなかわからなかったです。これだけのことを知れると、知識がついてなんだかいろいろと対処できそうな気分になってきます。
というところで終わりにしたかったのですが、書き忘れたトピック・感想がもうひとつありましたので、それを最後に添えて終わります。
ではでは。
ヤンキーって徒党を組むもので、孤立感から逃れるためにチームに加わるという意味あいがあると取ることもできる。世間のマイルドヤンキー化って、反社会的行為までは行きたくないけど意識下で孤立感から逃れるスタイルとしてそれを選んでいたりするのかもしれなくないでしょうか。
そこで言っていいか否か判断ができて、行動すべきなのかだめなのかもちゃんとわかれば、心の内で何を考えていてもいい「内心の自由」ってすごくいいなと思うんです。憲法のいいとこです。やれ煩悩だ、良からぬ情欲だ、怒りや憎しみだ、それらは思ってもいけないことだとする宗教は、僕はちょっと苦手でして。
孤独や孤立が現代に蔓延しだして、そういった人々に宗教が社会的つながりを提供することで、彼らを吸収していく。日本の新興宗教に限らず北米にはメガチャーチがあったりするようです。でも今やそこにメタバースやヲタ活が割って入って台頭している感じなのでしょうかねえ。僕は後者のほうが性に合います。
『孤独の科学 人はなぜ寂しくなるのか』 ジョン・T・カシオポ/ウィリアム・パトリック 柴田裕之 訳
を読んだ。
孤独感・孤立感には、高血圧や運動不足、喫煙などと同じくらいの健康リスクがあると言われています。本書はそういったステージからさらに深掘りした知見を教えてくれる良書でした。400ページ超の分量があります。
孤独感は、それを感じやすい人と感じにくい人がおり、また、感じた孤独への耐性では、強い人と弱い人がいます。これらは遺伝的に決まってくる要素だそうです。
「強迫症」や「認知の歪み」の大元に恐怖や不安があることはこれまでの読書などでわかってはいたのだけれど、では恐怖や不安の原因はなんなのかははっきりとはわかっていなかった。それが、エーリッヒ・フロム『愛するということ』を読んだときに、不安の源にあるのは孤独感だとあり、それでアマゾンで孤独に関する本を検索して、本書を見つけました。読んでみて驚いたのは、孤独感による自己調節機能の低下(自制心が発揮できないなど)や社会的認知の歪み(人とのつながりにおいてのその認知がうまくいかないこと)といったものが、不安による問題を抱えるうちの父の様子にぴったりと当てはまったことです。社会的認知の歪みに関して言えば、認知行動療法を施せると、多少なりとも効果はありそうに考えていますが、本書ではそういった療法については触れられません。社会神経科学者である著者なりに、日常的な方法でどうやって孤独感を軽減させるかを、本書後半部で示してくれていました。
p372からの数ページをまとめると、次のようになります。
孤独だと要求ばかりするようになり、批判的にもなる。(補足すると、自制心が低下しているので批判するときにキレていることもあるでしょう)。行動が消極的になり、引きこもりもする。対処としては、思い込みではなく、その裏にある現実に目を向けることを心掛ける。そして、家族などは、そういった孤独な人に、守られていて安全だ、という気持ちにさせるために働きかけるのがいい。目の前の戦いでは降参ばかりだったとしても、長い目で見れば勝利を勝ち取れる。歪んだ認識は、論理的に正当化できない脅威の感覚に由来するものだと言ったところで、どうにもならない。感覚はあくまで感覚なのだ。不安感は、深い部分に根づいている拒絶感が原因である場合が多い(つまりは孤独感に付随する感覚でしょう)。
古来より「追放」という刑罰があったり、今でも「独房」があったりするのは、人間は人間同士のつながりを絶たれることがとてもつらい生き物だから。組織がすぐに排除によって秩序を守ろうとするのも、異物的存在を排外処置して純粋性を保つことのほかに、孤立させて懲らしめる意味合いもありそうです。
トピックとしておもしろかったのは、普通の表情の人より、激しい情動の人をみているほうが、脳の受け取るシグナルは強まるというところ。つまり脳がより活性化して、脳の発達にもつながる。この知見は、「アイドルを推すなら、できるだけ<全力アイドル>を推せ」という格言を生んでもおかしくありません。なぜなら孤独感に効くからです。孤独感や孤立感が流行してしまった世界では、表情豊かな芸能人が人気者になるでしょうか?
もうひとつトピックを。テロを起こす単独犯がマスメディアに「孤独な人」と形容されることはあれど、実際には孤独感を持つ人が持たない人よりも社交性にかけるわけではないことがわかっているとのことでした。問題なのは、孤独感のために本来の社交的技能を発揮できなくなる場合。ここ、大事だと思います。
ナチュラル・ボーン・キラーみたいに考えたほうが勧善懲悪のわかりやすい論理で割り切りやすい。でも、それは割り切りやすいだけであって、本当ではないのですよね。出荷時の状態というかデフォルトというかつまり、誕生時のことなのだけれど、そんな人間は敏感で可塑的で。だから悪も生まれるとも考えられる。誕生時は悪くないけど、そこから一秒ごとに揺れ動く存在が人間、っていう感じを覚えました。まあ、人間観自体も人それぞれですし時代によって揺れ動きますけども。性善説、性悪説、極端な2つがまず浮かびますが、そういう意味では性善説に傾くのかなあ。無人レジ設置時に性善説を引き合いに出す人がいたりします。でも、そんな基本モードとしての性善説人間でずっと生きている人もいないし、性善から出発したって人生の旅路でそれぞれ様々な経験をして変わっていくし、だと思うんですよねえ。
あと、短いトピックを最後に。疎外感を持った人は、寄付に消極的だし、誰かに制裁を与えることになるとより多くの罰を与えたがるのだそう。すぐに人を叩いて貶めようと躍起になる人ってネットにも現実にもいますけど、そうか、疎外感なんですねえ。
それでは、以下からは引用とそれへのコメントやまとめの記述となります。今回のこの感想・レビューはとても長いのですが、僕個人の勉強用でもありますのでご容赦ください。なにかのヒントや助言として機能したり、本書を読もう! という気持ちが生まれたりしたならば、とてもうれしいです。
では↓
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社会的な断絶(孤独)に対する弱さは遺伝的に決まっていて、環境との作用で発現する。社会的帰属への欲求の強弱がまずそれにあたる。また、孤独感の感じにくさや感じやすさ、そして孤独感への強弱が、人それぞれにある。次に、なにがしかの試練に直面したときに、表面ばかりではなく内面深くでもしっかり平静を保っていられるかどうかが自己調節の機能。孤独感が募ってくると、この自己調節機能が落ちてくる。自己調節不全は、細胞レベルでストレスへの抵抗力を弱め、睡眠のような治癒・回復機能の働きを阻害する。最後に、「社会的認知」について。他者とのかかわり合いを解釈することを「社会的認知」という。私たちは、孤独感に苛まれると、自己調節する能力が損なわれることと相まって、自分自身や他者をどう見るか、他者の反応をどう予期するかにも大きな影響が出る。(p38-39のまとめ)
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→孤独感の影響とはどういうものかを踏まえる箇所です。チェックポイントとしても機能するところです。
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私たちは社会的なつながりを感じているときには(大半の人はたいていのときにそう感じている)、成功は自分の行動の成果であり、失敗は不運のせいだと考えがちだ。だが、社会的に孤立していると感じて落ち込んでいるときには、この有益な幻想を逆転させ、小さなしくじりも大失態にしてしまう傾向にある――少なくとも自分の心のなかでは。同時に、同じ日常的な認知上の近道を使って、バリケードを使って立てこもり、自分のへまに対する批判や責任から身を守ろうとする。(p61)
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→なんでも他人のせいにする他責思考が顕著に表れるのならば、孤独感が募っているからなのかもしれない、と考えられる箇所です。<批判や責任から身を守ろうとする>ところは、「闘争/逃走反応」と呼ばれる状態の範囲にある振る舞いではないでしょうか。
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孤独感を生み出す遺伝的な傾向と生活環境との相互作用は、おおむね私たちの手に負えない。しかし、いったんそれが引き起こされると、孤独感が生む自己防衛型の思考(孤独感にゆがめられた社会的認知)のせいで、些細な社会的事柄がすべて大問題に思えてしまう。孤独に感じているときには私たちはネガティブなものに対して余計に激しく反応するばかりでなく、ポジティブなものから心慰められるような高揚感を経験しにくくなる。友人や愛する人から慈愛に満ちた援助を引き出せても、孤独感があると、その交流を期待外れだと感じやすい(p64)
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→ちょっとしたことなのに、それが大きな問題に思えてしまって頭がいっぱいになったりパニックになったりする。周囲から、大したことないよ、だとか、そんなに落ち込むな、だとか言われても、ほとんど心に響いてこない、というのが孤独感にある人の特徴的な様子なのでしょう。
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この世で独りぼっちだと感じながら自宅でぽつんと座っていると、アイスクリームなどの高脂肪の食べ物に手が伸びることに、何の不思議があるだろう。私たちは糖分や脂肪分を脳の快楽中枢に送り込むことによって、心の痛みを和らげたいと思い、自己制御の利かぬまま、即座にそれを実行に移す。こうした実行制御機能の喪失は、失恋した人が後々悔やむことをしてしまうという、よく見られる傾向の説明にもなる。(p82)
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→ほんのつかの間でも、気晴らしをしたい、という気持ちが勝るんですね。こういうものを欲するほどに、孤独感を和らげたい、と意識下で切望しているのかもしれません。
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ようするに、人は疎外されていると感じる痛みを自己調節しようとして、自らの認知を脚色して、偽りのペルソナを作り出す。自己欺瞞としてよく知られる行為だ。必死にやれば、「私がそう言っているのだから、事実そうなのだ」と、自分に思い込ませられることがある。それでもなお、孤独感の生理的・心理的な影響は、害を及ぼさずにはおかない。(p130)
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→孤独な人は、自分の都合の良いように事実を切り取ったり、嘘までついたりして、自己弁護をしたりするのは、僕の父のふるまいから見知っています。で、その弁解を僕が試みるような場面があるのですが、それも第三者にしてみればほんとうかどうかわからず、僕のほうが自己欺瞞として脚色しているのではないか、と思われてしまうきらいがあり、そういうところは相談や議論のうえで難しいなあと思います。
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孤独感と抑鬱感はともに嫌悪の情を催す不快な状態であるにもかかわらず、多くの点で対照的だ。孤独感は空腹感と同様に、不快で、しかも危険かもしれない状況を変えるために何かをせよ、という警告だ。かたや抑鬱感は、人を無関心にする。孤独感が前に進むようにと私たちを駆り立てるのに対し、抑鬱感は私たちを引き止める。しかし両者は、自己制御の感覚が衰え、消極的な対処をするようになる点で共通している。孤独感のせいで苦痛を覚え、何とかしなければという思いを募らせながらも、人が必ずしも効果的な行動を起こせないのは、一つには、この消極的な状態に陥るからだ。実行制御が失われて粘り強さがなくなったり、欲求不満から、心理学者のマーティン・セリグマンが「学習性無力感」と名付けた状態に陥ったりする。(p140)
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→孤独感が前へ進むように駆り立てる、というところは、孤独感が不安や恐怖を生み、それが強迫観念になるからではないのかな、と僕は読みました。でも、実際にやる対処は後ろ向きなんです。恐怖もあるので、外に開いたような行動や、新たに一歩踏み出すような行動はとらない。僕の身近な人を見ているとそうなのです。たとえば、認知行動療法を受けに行ってみるというような行動はとりません。消極的に、そして他責思考で、相手に無理難題をふっかけて「なんとかしろ」というのが関の山だったりします。
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そうした規律に必要な実行制御は孤独感によって低下する。孤独感には自己評価を低下させる傾向もある。他者に無価値だと思われていると感じると、自己破壊的行動をしがちで、自分の体をあまり大事にしなくなる。(p165)
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→飲酒、喫煙、過食、性的依存、ギャンブルなどの行為がここで言われる自己破壊的行動です。社会的環境は大事で、時間やルールを守って規律的に行うたとえばヨガ教室に通うことなど、そうやって規範に身を置きそこで友人と声を掛け合うようなことが、孤独感克服にとっては有益なのだけど、孤独感ゆえにそういった行動への意欲は低下するのでした。
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だが人が孤独を感じているときは、どんなストレス要因も、自分を奮い立たせてくれる試練と見なすことなど到底ありそうもない。孤独な人は、現実的な楽観主義を持って積極的に取り組まずに、悲観主義を抱いて回避する傾向がある。消極的に対処しがちで、それはすなわち、状況を変えようとせずに耐えることを意味する。この(腹の中は煮えくり返っていても)「にっこり笑って我慢する」という行動パターンは、特有のコストを伴う。(p167-168)
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→ここで言われる「耐えること」にくっつけて、別の箇所(p302)にあった実験の様子を記していきます。
一匹のサルにはキュウリのスライスを、別のサルにはブドウをご褒美としてあげたら、キュウリをもらったサルは投げ返してくる。「なんでオレにはキュウリなんだよ!」
ロバート・トリヴァーズという進化心理学者の先駆者が言ったそうなのだけど、サルにも十分わかっている通り、「ごまかしをする傾向が見つかったときに激しい攻撃性を見せる」ことが必要だ、と。孤独感によって自己調節がうまくいかないと、消極的に耐え忍ぶようになる。あるいは手を焼かせるまでの行動を取るようになるそう。
攻撃性を抑えつけて、いわゆる「大人のふるまい」をするのがよいのだ、と評価されがちなのかもしれなくて、自身でも大人のふるまいを心掛けたりしませんか。そういうのが逆に、社会を不安定にしてしまうのだと論じられていた。
僕ら日本人の多くが、大人しくて耐え忍びがちな人か、わーわー騒いで誹謗中傷に走りがちで手を焼かせる人かの両極端に見えるときがあるけれども、そういった人たちは孤独によって自己調節機能がうまくいかなくなったからかもしれないですよ。
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これら三層(爬虫類にさかのぼる動物的な脳幹、ときに理性的な皮質、間に挟まった情動脳)という特異な組み合わせが、孤独な人に、ほんとうは抱きしめてほしいときに愛する人に向かってなぜか金切り声を上げさせたりすることもあるのだ。(p198)
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→ドラマとか小説にもでてきそうな、ある意味で劇的な「孤によるの痛み」の場面だと思います。関係性によっては、抱きしめることに大きな抵抗があってできなかったり、そもそも、彼(彼女)は抱きしめてほしいところなのだ、と気づけなかったり、なかなかうまく答えに辿り着かなったりするところなのではないでしょうか。オキシトシンというホルモンがストレスホルモンのコルチゾールを減らすのですが、人とくっつくとそのオキシトシンが出るそうなのです。
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孤独感が苦痛を与え、ストレスの認識を増加させ、免疫機能を妨げ、認知機能を低下させるのに対して、オキシトシン(飛行機が滑走路を突進するときに妻が手を握ってくれると放出される)はストレス反応性を弱め、(子どもが痛がっている箇所に母親が口づけをして痛みを和らげてくれるときのように)苦痛への耐性を強め、(コーチが指示を与えるときにあなたの肩をつかむように)注意力が散漫になるのを防ぐ。(p219-220)
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→孤独に対抗する手段として、オキシトシンの有効性が論じられている箇所です。安心できる人と体をくっつけるその優しさに、こういった効能があるのはすごいですよね。
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これまで見てきたように、物理的なものであれ、情動的なものであれ、精神的なものであれ、どのような形態であっても、望まれぬ孤独は、本質的に社会的な環境で機能するように作られている生き物にとっては非常に有害なのだ。(p224)
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→進化してもなお、人間には太古の記憶として、孤独つまり一人きりなると危険だ、他の動物に襲われるぞ、というシグナルが埋め込まれたままでいます。そして、「闘争/逃走反応」が生じて、コルチゾールが分泌され、心拍数が上がるなど体に負担がかかるばかりか、批判的になったり文句をいったりなど「闘争」して他者との関係をこじらせたり、自分のミスを受け入れずに誰かのせいにして「逃走」したりし、さらに他責という「闘争」に繋がったりするのでしょう。
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好ましい人たちの中にはいってもあまり楽しみが得られず、しかも、現実のものだろうと想像上のものだろうと、社会的状況の中にある脅威のことばかり考えて視野が狭まっていると、その結果としては残念ながら、社会的にそつのない反応は生まれず、孤独な人の孤立をさらに深めてしまいうる。(p253-254)
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→うまく輪の中に溶け込めず、上手な返しや合いの手も入れられず、場のテンポがちょっと変わってしまう。僕自身がそうなることもありますし、そうなってしまう人といっしょの輪にいたことも何度だってあります。僕はそういった人のふるまいについてはかなり寛容で、フォローするタイプですが、自分がなにか場の空気に合わないとき、なかなかサポートやフォローしてくれた人っていませんでしたね。こういうときのフォローって、孤立を深めないための、好い行動にあたります。
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人がポジティブな経験の後に自分のパートナーから支援や後押しを得ることを、心理学者は「社会的資本の利用」と言う。こうしたポジティブなものを心から楽しみ、最大限に利用することは、結婚式などの親密な関係の健全性のためには、つらい時期に協力的であるよりもなおさら重要であることを研究の結果が示している。(p255)
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→何か良くないことがあったときに慰めてくれる人のその行為はありがたいですが、それよりも、良いことがあったとき(昇進など)に喜び合ったほうが自分と相手の二人の関係にとってより大きな意味合いを持つ、つまり大きなポジティブな効果が得られるそうです。言われてみて想像するとそうかもしれない、と思いますが、慰めのほうが大きな意味を持つだろう、というように錯覚してしまっていたところです。
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ありきたりの一日を過ごすだけでも、かなり落ち着いている必要があり、そのためにはやはり情動の自己調節が求められる。ところが、孤独感は独特の力を振るい、情動をバランス良く自己調節するのを妨げるので、私たちは過剰に反応したり、逆に反応が過度に少なくなったりしうる。そのうえ、人は孤独を感じているとき、他者が幸せな状況に置かれているのを目にするだけで多くの人が得る高揚感をあまり感じないから、なお厄介だ。(p258)
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→他者の幸せな状況への反応が鈍くなることが書かれていますが、これって、それゆえにますます人とのつながりを強くもてなくなりますよね。孤独感による悪循環の例ではないでしょうか。
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思い込みに基づく意味づけは、私たちを新たな高みに到達させたり、逆に、朝ベッドから起き出す気を萎えさせたりする強い力を持っている。そしてこれまでほかの多くの状況で見てきたように、そのような影響は「私たちの頭の中だけ」にとどまらない。私たちは、重要な任務をしくじるかもしれないと不安を抱くときはいつも、この思い込みによって自らを不利な状況に追いやり、克服不可能な障害を生み出して、自分の成功を阻みうる。しかし、孤独感と、それが招く自己中心性のせいで、この自然な成り行きは深刻でいつまでも続く状態へと変わることもある。社会的なつながりを作るのが重要な任務である場合でさえ、自分を生来のアウトサイダーと見なし、脅威にさらされ、空腹で、食べ物を与えなければならないと思っていたら、どんなに頑張っても報われない。しかしまた、「自分自身の現実を設計する」という、この人間ならではの能力のおかけで、自分が閉じ込められている独房を脱するのに必要な鍵を手に入れることもできるのだ。(p268)
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→よくない思い込みというものは、現実にも不利な状況を招いたり強化したりしてしまう。心理学で「自己成就的予言」「予言の自己成就」と呼ぶ心理作用があります。「そのうちこうなるんじゃないか」という思い込みが、ほんとうに現実のものとなってしまうのです。思い込みにすぎないものが、無意識のうちにその人の振る舞いに反映されていき、その結果、予言(思い込み)が現実のものとなるのではないか、と考えられているそう。で、ここで言われているのは、孤独感はそういった自己成就的予言を招くものだ、ということでしょう。
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希望とはそもそも不合理なものだ。配偶者についてポジティブな幻想を抱いていれば、結婚生活は幸せなものになり、長続きする。楽観的な見込みなしでは、新たな投機的事業に手を染める人はまずいないだろう。誰であれ、新規のビジネスを成功させたり、まともな収集家に売れる絵を描いたり、読むに値する小説を書いたり、科学に多大な貢献をしたり、一生結婚生活を続けたりできるなどと思うのは、統計に基づけば不合理な話だ。
思い込みは、認知プロセスで近道をとりたいという単純な欲求からも生まれうる。私たちはとても手に負えないほど多くの情報に接すると、政治や文化や宗教に関するものなど、生存と直接かかわりのない信念を形成するときには、思考を節約しがちだ。また、心の奥底に埋め込まれたイメージや先入観や偏見に自分の好みを支配されていることにまったく気づかないまま選択をすることもある。しかし私たちの人生のストーリーも、見方次第でやりがいのある課題にも悪夢にもなる。水の入ったコップを見て、半分しか入っていないと思うか、半分も入っていると思うか、ということだ。(p274-275)
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→人生がうまくいくためには、たくさんの不合理を受け入れる必要があるのだけど、たとえば希望を持つことが不合理だと考える人はあまりいないようにも感じられます。孤独感に苛まれている人が抱えてしまう思い込みは、認知のプロセスで近道を通ろうとする欲求から生まれうるともありました。それはつまり合理的にやっていきたいという欲求だと言い換えることができます。孤独感に苛まれる人は、合理的な方向へ傾いていくので、希望を持てなくなっていきます。つまり、不合理を避けていくようにもなるのではないか。
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進化心理学者の創始者の一人、ロバート・トリヴァースは、教えることと型にはめることを区別している。前者は子供のためになり、後者は親のためになるものだ。遊び場やデパートの試着室を一瞥すればたいてい、子供をせっついたり脅かしたりして、高圧的に指図している親の姿が目に入る。家庭では母親が、自分が休憩をとるために赤ん坊のスーザンを毎日三時に昼寝するよう「型にはめ」ようとするかもしれない。あるいは、父親が息子のチャーリーを、役立たずのラルフおじさんのようなサックス奏者でなく、自分と同じ眼科医になるよう「型にはめ」ようとするかもしれない。
孤独な子供はこの手の圧力に立ち向かって自分の利益を守る能力が人並み以下の場合がある。孤独に感じていると多数派の意見を入れる傾向が強まり、せっせと他人の真似をし、あまり粘り強さを見せなくなる。(p282-283)
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→親が、自分のためにやっているのに「子供のためだ」と言い切ってしまうことって多いですよね。本書には書いてありませんが、こういった型にはめる行為自体が、子ども自体に、「自分のことを考えてくれない、わかってくれない」という感情を抱かせて孤独に追いやってしまいかねないのではないかなあ、と考えてしまいました。
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コロンビア大学のリンダ・フリートは、メリーランド州ボルティモアで恒例の住民に少額の謝礼を払い、公立学校の児童・生徒の支援をしてもらうというプログラムを設立した。たとえば、読み方を教える手伝いをする。先生が直接手助けしてやりたいのはやまやまだが、どうしても時間がないといった場合に手伝うのだ。すると、勉強を見てもらい、また、気遣いや関心を向けてもらえば、生徒のためになることが明らかになった。しかし彼女の研究からは、高齢者のボランティアも、健康と幸福感の点で明らかに得るものがあったことがわかった。こういう形で役に立っているというのが、人生の目的や意味や充実感にとってプラスとなり、今という瞬間にとてもポジティブな生理的感覚をもたらす。生理的な報酬(別名を喜びと言い、「ヘルパーズ・ハイ」と称されることもある)は、他者に手を差し伸べる行動を続け、さらにはそれを広げる動機にもなりうる。やがて、その喜びは生涯に及ぶ情動的な痛みを埋め合わせ、そうした痛みから距離を置けるようにさえしてくれるだろう。(p355)
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→「まず私を癒して!」と強い孤独を抱える人が叫んでも、なかなか助けを得られはしないのが現実です。自分が癒され、満たされるためには、自分から他者に手を差し伸べることで自分が満たされる効果があることが、ここで述べられています。ただ、注意するべきは、働きかけが干渉になってしまったり、自己満足に捉われて他者のことに思いが及んでいなかったりするような「手を差し伸べる」になっていないかどうかです。そのような行為では迷惑になってしまいますから。また、p367には、<孤独を感じると、ついつい相手を喜ばせたくなるという罠にも落ちる>とあります。一人を助けることに成功すると、あの人もこの人も、と手を広げ過ぎてしまうきらいが孤独な人にはあるので、「ただの人間であれ」と著者は言葉を添えています。
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社会学者で、『結婚――一つの歴史』の著者ステファニー・クーンツは、今や唯一無二の心の拠り所として自分の配偶者を頼りにする人の増加を公然と非難している。今日では二〇年前よりずっと多くのアメリカ人が心を許せる親友を持たないというのも、驚くにはあたらないのかもしれない。すると最もつらい個人的問題が配偶者にかかわるものだった場合、誰に内々で相談することができるだろう。(p384)
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→この箇所は、個人的にすごく頷くところです。母の病気が再発して家庭の状況もさらに難しくなった15年前くらいに、母の主治医から父が、「誰かに愚痴でももらさないと、あなたがつぶれるよ」と言われました。父には、家庭の状況を話せる友人はいないし、母方の親族に話しても暖簾に手押しみたいで、僕に愚痴るようになりました。1時間かそれ以上語るわけです。そのうち、母にも愚痴るようになりましたが、母の件で母に愚痴のですから、それはもう批判であり文句なんです。父はそうやって崩れていった部分もあるなあと思いました。
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ペットであれコンピューターであれ、私たちが人間的な触れ合いの代用にするようなつながりは、「疑似社会的関係(パラソーシャル・リレーションシップ)」と呼ばれる。私たちはテレビの中の人物や、インターネットを通じて出会う人や、ペットのヨークシャーテリアと疑似社会的関係を結ぶことができる。これは、ほかの人間とじかに触れ合う形のつながりがうまくいかないとき、その空白を埋める効果的な方法の一つだろうか。(p391-392)
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→著者この後に、疑似社会的関係は代替的なものだから、やっぱり人と触れ合うのが大切なんだ、と説いていきます。疑似社会的関係の効果は限定的なのかもしれません。それと、古代ギリシャの哲人は、「擬人化」という概念を言葉にしましたが、それもこの疑似社会的関係のありかたと似ていることが指摘されています。
孤独の強い人ほど、擬人化する傾向が強いとあります。雨の音に親しみを感じたり、机に掘られた落書きに掘り手を豊かに想像したり、小野小町が言葉にした「あはれ」の感覚だったり、豊かな詩情って強い孤独感が育むものなのかもしれないですね。ですが、恐ろしいことに、擬人化する方面の感性の鋭さは、つまりは認知の歪みであって、脳の動きがちょっとよくなくなったためで、いわば錯覚ということみたいなんです。大いなる錯覚による詩情に、大勢が共感したり心を揺さぶられたりしているのでしょうか? 脳の構造上、孤独感によって誰もが同じような傾向の歪みを持つからかなのかな、と思いました。
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金銭は人々のやる気に関してはポジティブな影響を持っているようだが、他者に対する行動に関してはネガティブな影響を及ぼすように見える。意識の片隅でお金について考えているだけで、私たちは向社会的行動をとらなくなる、というデータがある。(p404)
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→お金のことを考えていると孤独にはまっていきやすい、ということですね。先ほど(p274-275)の知見と合わせると、お金によって希望という不合理なものとも縁遠くなる。つまり、お金のことばかり考えていると合理的になっていくのだろうと、わかってきます。楽観性を失って、不合理さに手を出せなくなると、人も社会も発展が難しくなっていくだろうことが想像できます。
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しかしやはり社会は、温かい抱擁と無条件の愛をたんに差し出すだけでは、社会的つながりと社会的調和の有益かつ持続的なレベルには到達しない。複雑系の科学によれば、ひとりでに形成される系でさえ、簡単なルールがいくつか必要だという。すべての文明が、適応行動の採用を進めるために、タブーや規範、道徳基準、法律など、非公式なルールだけでなく公式なルールも持っている。そしてこのプロセスには、第11章で取り上げたような「利他的な懲罰」が必要になることもある。それは、ときには自分にコストがかかっても、他人に制裁を加えるということだ。軽微な違反でも、それがネガティブな基調を定めて、ますますネガティブな行動につながる元凶になるので、見逃すことはできない。(p410)
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→聖徳太子(厩戸皇子)が言ったという「和を以て貴しとなす」を、表面的にやっていたらうまくいきませんよ、ということにもつながっている知見です。和をもちたいのならば、違反者に対してはきちんと懲罰をすることが必要。それが暗黙のルールであっても、違反は許さないことで、そのグループや共同体の平穏は維持される、ということでしょう。
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私たちは、孤独感を抱くと必要以上に脅威を覚えるようになり、認知能力が減退することを肝に銘じるだけでなく、本物のつながりの温もりのおかげで心が自由になり、目の前にどんな難題があっても、集中して取り組めることも忘れてはならない。個人としても社会としても、社会的な孤立感を覚えると、私たちは創造力とエネルギーの広大な貯水池を失ってしまう。人間どうしのつながりが、私たち人間の可能性を育んでくれる井戸に水を加える。(p411)
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最後の引用になりますが、本書の終盤部分なので孤独による影響のまとめになっています。孤独感が、QOLを低下させ、創造性のポテンシャルも発揮しづらくさせる。孤独感や孤立感に対するケアやキュアがもっと盛んになれば、社会はもっともっとうまく、かつ心地よく回るのではないかな、とそんなイメージが湧いてきました。孤独担当大臣がイギリスに生まれたのは、こういったような知見から危機感を覚えたからなんじゃないかと思います。日本でも孤独担当大臣がいますが、他国に追随しての措置ではなく、ヴィヴィッドな危機感をもって取り組んで欲しいですね。
というところまでです。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます、お疲れさまでした。「孤独感」と考えてみても、これだけ奥が深く、危機の要素が満載だなんて、なかなかわからなかったです。これだけのことを知れると、知識がついてなんだかいろいろと対処できそうな気分になってきます。
というところで終わりにしたかったのですが、書き忘れたトピック・感想がもうひとつありましたので、それを最後に添えて終わります。
ではでは。
ヤンキーって徒党を組むもので、孤立感から逃れるためにチームに加わるという意味あいがあると取ることもできる。世間のマイルドヤンキー化って、反社会的行為までは行きたくないけど意識下で孤立感から逃れるスタイルとしてそれを選んでいたりするのかもしれなくないでしょうか。
そこで言っていいか否か判断ができて、行動すべきなのかだめなのかもちゃんとわかれば、心の内で何を考えていてもいい「内心の自由」ってすごくいいなと思うんです。憲法のいいとこです。やれ煩悩だ、良からぬ情欲だ、怒りや憎しみだ、それらは思ってもいけないことだとする宗教は、僕はちょっと苦手でして。
孤独や孤立が現代に蔓延しだして、そういった人々に宗教が社会的つながりを提供することで、彼らを吸収していく。日本の新興宗教に限らず北米にはメガチャーチがあったりするようです。でも今やそこにメタバースやヲタ活が割って入って台頭している感じなのでしょうかねえ。僕は後者のほうが性に合います。