Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『TRIANGLE MAGAZINE 03 乃木坂46 遠藤さくらcover』

2025-02-19 22:30:11 | 読書。
読書。
『TRIANGLE MAGAZINE 03 乃木坂46 遠藤さくらcover』 与田祐希 遠藤さくら 小川彩
を読んだ。

先陣を切るのは、3期生・与田祐希さん。
沖縄での撮影でした。乃木坂に入ったときからのかわいさは色褪せないまま、瞳の輝きや表情に、大人になったこと、精神年齢をきちんと重ねてきたことがうかがえます。ずっとそういう香りがしていた「野生児感」というか「奔放な感じ」というか、そういったものも大人になっていくなかでどうやら昇華され、彼女の中で女の子感とともに統一されたような印象があります。彼女自身の中で収まりがついたような感じといったらいいでしょうか。先輩に可愛がられ、自分が先輩になると「先輩にしてもらったように」優しく後輩の悩みを聴いてあげたりするようで、面倒見の良さのある人でもあるようです。中学生の頃にはちょっとした嫌がらせを受けたりもしてた時期があるらしく、そういう経験も今の彼女と地続きだからこその振る舞いや考え方なのかもしれないです。

続いて、4期生・遠藤さくらさん。
すらりとスタイルが良い人。優し気な笑顔が、優しさのその一方で、鋭くこちらのハートをつついてくるような美しさも兼ね備えています。乃木坂加入時からしばらく、弱々しくて自己主張しないような印象がありましたし、けっこう彼女は泣いてしまいがちだと諸先輩方が折にふれて発現していたりしました。でも、いまの遠藤さくらさんは当時よりも自分をしっかりお持ちだし、自分の頭でしっかり物事を考えているんだなあ、と様々な発言から感じられるような人になっています。本書のインタビューで、何年か前の自分には自信がなかった、とありますし、今もそういうところはお持ちなのでしょうけれども、自分の弱い所からなにから丸ごと、「自分はそういう存在なんだから」と肯定できるようになったんじゃないかな、という推測をしています。遠藤さくらさんは、彼女ならではのやわらかくて心地よい空気感を、写真越しにもこちらへもたらしてくれる稀有な方ですけれども、なんだかそういうやわらかな表情が、きっと自分自身を受け止めて受け入れたんだろうな、というふうな思いをこちらに抱かせるのでした。シンプルに言っちゃいますが、とっても魅力的な方です。それでもって、自身のプライベートな領域は、他者から不可侵なまま保つタイプ。そこには入り込ませないし、明かさない。こっちからすると「謎」なのですが、そういうところがまたいいじゃないですか、距離感的にも。

本写真集を締めるのは、5期生・小川彩さん。
制服姿など、ハイティーンの健康的な日常といった写真たち。17歳の小川彩さんは、まだあどけない女の子感があります。「理想の娘」みたいな、健全な家庭の娘役としてうってつけみたいな印象があります。でも、きゃぴきゃぴしていたり、ぶっとんでいたりというよりは、現実に足がついているタイプだと思います。乃木坂のテレビ番組を見ていても、物事を自分なりの角度で落ち着いてしっかり眺めていて、きちんと咀嚼した上で感じたことや考えたことを自分の言葉と方法で構築して伝えてくれます。かわいくてダンスが得意でドラムを叩けてさらに、考え方や論理や感性がかなりしっかりした17歳だとお見受けしています。だからこそ、ひとりの女の子として、というか、ひとりの人としての魅力が強いのでしょう。

乃木坂の魅力のひとつの側面として、彼女たちが自分の足でしっかり歩いているところがあります。大勢の前で自分の言葉を用いて考えを述べるみたいなこともきちんと出来て、僕なんかは「ほんとにすごいなあ」と驚きます。トレーニングをしっかり積んだ歌やダンスのパフォーマンスは見事だし、バラエティ番組でちょっととぼけたことを言ったりやったりして笑いを取っていても、実際おもしろいんだけど、それはまたほんの一面だもんね、っていう認識で彼女たちを見ていたりします。まあ、バラエティ番組自体、イリュージョンみたいなものだと思うのだけれど、それを、多面的な彼女たちの一面なんだし、というように情報処理して彼女たちを見ていられるのはなんだか人としても好ましいというか、虚構性に毒気が薄くて良いというか、そういう感じがするんです。

本作品のトップバッターを飾った与田さんはまもなく卒業されてしまいます。彼女には、人として生きていくための栄養をたくさんいただきました、ほんとうにありがとうでした。





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『13歳からの法学部入門』

2025-02-14 14:05:38 | 読書。
読書。
『13歳からの法学部入門』 荘司雅彦
を読んだ。

著者は弁護士。

法律はなぜあるのだろう、なぜ必要なのだろう、という初歩的で根源的な疑問から考えていく本です。前半では、正義、国家、自由、権利などを考えていくことで、法律の概念がくっきりとしてくるつくりです。後半では、法律の文章の読み方など、具体的な面を教えてくれます。「13歳から」とタイトルにありますが、初学者、あるいは、ちょっと興味を持った人に対しての間口が広いという意味で、万人におすすめできます。それでいて、法律周辺の深みに触れることができるでしょう。。

中世ヨーロッパの思想家であるホッブス、ロック、ルソーがそろって国家は必要と説いたこと、そして産業革命以降の市場と資本主義の経済、法律が自己増殖するさまなどがまず第一章で語られていました。授業で13歳に語り掛けるように、わかりやすく、深いりはせず、浅く広く。こういった専門的な知識が、触れやすい形で言葉になっているのは、ちょっと面食らうところはあるかもしれませんが、慣れればありがたみすら感じるかもしれません。

その法律を知らなくても、違反したら罰せられるのが法律ってものですからね。それは常識、当たり前の事なのだけれど、実際、知らない法律だらけだったりしますよねえ。


では、いくつか引用をしていきます。



__________

「基本的人権」とは個人の生命・身体・財産が国家によって侵害されないという自由権、国政に参加する参政権、最低限度の生活を営めるよう国家に請求できる生存権が中心となっている。そして基本的人権の中心になるのが「自由権」なんだ。(p116)
__________

→義務教育で教えてもらうことの確認のようなところです。実社会ではけっこうないがしろにされている権利だと思うので、こうして確認してみると基本に立ち帰るような気持ちになりました。



__________

この基本的人権というのが、決して「棚ぼた的」に与えられたものじゃない。
君だけじゃなくぼくも、生まれたときから日本国憲法によって基本的人権が認められていたからピンとこないかもしれないけど、先に書いたように基本的人権は「人類の多年にわたる努力によって勝ち得たもの」であって、ぼくたちにはそれを「保持するだけでなく将来的に発展させていかなければならない」という責務がある。(p117)
__________

→人権が、ある程度担保された世の中に生まれ育ったことで、人権という権利を守らないといけないこと、発展させていかなければいけないこと、そして、それを先人たちが勝ち得てきたことが頭に浮かびにくいということはあるでしょう(僕自身、20代の終わりくらいまでほとんど考えてこなかったと思います)。平和ボケという言葉がありますが、それに近い状態になってしまう。満ち足りた環境に甘やかされてダメになってしまう、というわけで。これはよく陥いりがちな落とし穴です。人権が大切だと気がついていても、その言葉の表層しかわかっていない状態を含めば、ほんとうに多くの人がハマッてしまっているのではないか。もちろん、僕もそうなのですが。



__________

何かを選ぶとき、全部を自分で決めなければならないという状況は、人間にとって実はかなりのストレスになることなんだ。
だって、選んだ後、「自分の選択はこれで正しかったんだろうか?」「別のものを選んだ方がよかったんじゃないかな?」という気持ちは、だれにでも必ず湧いてくるからね。
何か選ぶということは、そういう気持ちを断ち切って、自分の選択に責任を持つということだ。(p123)

自由の重みと孤独に耐えられなくなったとき、人間はどんな行動をとるのか。それを研究したのが二〇世紀の精神分析学者、エーリッヒ・フロムだ。彼は有名な『自由からの逃走』という本の中で、「近代社会は人間に自由をもたらしたが、人間はまだそれに適応できず、かえって不安が高まった」と書いている。
(中略)
自由が辛くなると、人間は、ルールを決めてくれる人を求めるようになる。それで、ドイツの多くの若者が独裁者ヒトラーに狂信してしまった。フロムはそれを「自由からの逃走」と読んだんだ。(p124)
__________

→現代日本は、なんでも個人が自分で決めていいとされる自由主義の社会です。その自由が辛くて、誰かに決めてもらえたら楽なのにと思い、つまり自由によって不安になってしまったりしている人も少なくないのではないか。自由に慣れていないと、ルールを決めてほしいと思い、そのルール通りに生きたくなると。個人的な話ですが、たとえば不安症なうちの父には、自分のことを誰かに決めてほしいという性質がよく見られる。自由さからの影響があるのでしょう。



__________

「権利と義務」というと、権利を持っている人の方が立場が上、権利を持っている人の方が得、そういうイメージを抱くだろう。
抽象的な言葉の上での権利や義務については、確かにそういう面がある。でも現実の世界ではそれとは逆で、権利を持っている者が、実現のために多くの努力をしなければならない。そのことを忘れないで欲しい。(p153)
__________

→人権を守るにしてもそうだけれど、権利を有する者が権利を主張して実現させるためには自分から動かなくてはいけない。社会はそういうメカニズムです。大変な目に遭っていて、いっぱいいっぱいな状態にあるとわかってやっと、権利を主張しなければならないぞ、となったりするケースって多いと思います。で、そこからが大変で、いろいろ勉強したり労力を払ったりしないとならなくなる。
「権利の上に眠るものは保護せず」という言葉があるのだ、と書いてありました。行政でこんな制度がありますだとかも知らないことが多くないですか。学び続けること、自分から動いて制度を教えてもらうことなどは大切ですよね。つまりは、やっぱり人生において「自助」がダントツで大事だということになります。「共助」や「公助」にも大きな力がありますが、なかなか得られにくいものなのですから。



__________

たとえば、さっきもでてきた、日本の民法の七〇九条は「故意または過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」と書かれているよね。(p197-198)
__________

→この民法七〇九条は覚えておきたいです。人権侵害がひそかに行われている「家庭」という社会ではこれに該当するような大きな損害って被っていたりする人はいますよ。支配を含む虐待案件なんかはもうそうです。



__________

というのは、アメリカ社会では「個人と神様の約束」という宗教観が根づいている。たとえばボランティア活動をするのは神様との約束を果たすことであり、そのために仕事を休んでも同僚の理解が得られる。陪審員を務めることも同様だ。(p205)
__________

→アメリカ人って、市民一人ひとりが自分たちで街を作っていこうだとか、社会を作っていこうだとかという気概が強くあるような印象を、僕は持っていました。ちょっとうらやましくもあるし、窮屈ではないのかな、と斜めに見たりもしながら。で、そういった、自分から主体的に社会をよくしていこうという気概のその理由がこの引用で言われている宗教観によるものなのだな、とこの箇所で知ることになりました。日本人が社会に対して自分から活動していこうと決心するためには、同調の空気だとか、自らに内面化している卑屈さだとか、個人には力がないという思い込みだとかを打破しないとできないと思うんですね。それを宗教観が、ある程度やすやすと、そのハードルを越えてくるのはすごいです。



といったところです。200ページそこらで、なおかつ2010年の本ですが、いまもなお色褪せない、読み応えのある良書でした。






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『明るい夜に出かけて』

2025-02-09 00:38:43 | 読書。
読書。
『明るい夜に出かけて』 佐藤多佳子
を読んだ。

山本周五郎賞受賞作品です。

接触恐怖症でいわゆるコミュ障の二十歳の男性。彼が、主人公の富山(とみやま)で、とあるトラブルのために東京の大学を休学していて、実家も東京なのだけれど神奈川県の金沢八景に木造アパートの一室を借りている。

富山はコンビニで深夜バイトとして働き、趣味は深夜ラジオを聴くこと。そのなかでも、アルコ&ピースのオールナイトニッポンにハマっている。トラブルの影響でやめていたハガキ職人も、ラジオネームを新しくし、細々と再開もしている。

そんな彼と、同じコンビニで深夜バイトをする年上の歌い手・鹿沢や、奇しくも出合うことになったアルコ&ピースのANNヘビーリスナーで実力派ハガキ職人の女子高生・佐古田、そして、富山と高校時代の同級生で、この地の居住先を紹介してくれた永川の四人が駆け抜けるドラマが、本小説です。ラジオ番組の解説部分に熱が入っていて、著者はかなりのラジオ好きなんだろうな、と圧され気味になるところもありましたが、おもしろかったです。

エンタメ小説の見本になるようなしっかりとした出来映えだと思いました。そのしっかりさ加減を表に匂わせないような黒子としての仕事ぶりがされていて、探りに探るような読みをすると「たぶん、こうだからこうなんだよな」というように、痕跡から論理的に辿っていけるというようになんとなくわかるのですが、これも、本書の内容に夢中になることでわからなくもなっていってしまいました。

さきほど名前を出しましたが、佐古田というおもしろい女子高生が第二章から登場します。作中、サイコなんて呼ばれ方もしてるのだけれど、キャラクターのアクが強くて、それでいて嫌われることなく読み手に好まれそうなんです、僕もすぐに好きになったキャラでした。そして、こういったキャラの登場で、また一段深く、物語に引き込まれます。どういうキャラをどのタイミングで登場させて、何を担わせるか。物語がうまくいったのは構成の段階での仕事が生きているということなのでしょう。


「明るい夜に出かけて」という、本書のタイトルになっている言葉は、二重にも三重にも意味を成すようになっています。物語内での具体的な部分はさておき、次のような解釈も可能だろうと思いますので、ちょっと書いていきます。

主人公の人生に夜がやってきている。人間関係のトラブルのためメンタルに傷を負い、大学を休学して人生のエアポケットにはまったみたいな状態が「夜」にあたる。そして主人公は、コンビニの深夜バイトをやっている。人生の夜を暗喩するかのような深夜バイト。でも、主人公をとりまく仲間たちが思いがけず彼の人生の「夜」を明るくしてくれてもいるし、主人公を含めた仲間たちそれぞれがそれぞれの夜を明るくしてもいる。自身の内にこもっていただけで終わるはずだった休学期間が、仲間たちとともに外へと開いて、でかけていくようになる。



では、引用をいくつか。
__________

思ったほどひどくなかったけど、思った以上に気持ち悪かった。俺、カラオケに連れていかれても、人の歌聴いてると、けっこう気持ち悪くなる。うまい、へた関係なく。歌唱ってさ、なんか、そいつの中味、出るよな。(p157)
__________

→素人が歌うのを聞いて、たしかに、その人自身が出るなあとは僕も思っていましたけど、「中味がでる」という言い方の言い得ている感じがとても気に入りました。それに、そういった他者の「中味」に食あたりするかのように、「けっこう気持ち悪くなる」というところに、この主人公の「浮ついて無さ(≒ノリの悪さ)」が感じ取れます。主人公はラジオにネタを投稿するハガキ職人として名うてだった過去がありますが、感性で感じ取ったものを他者に先駆けて言語化する人ならではの情動だと思いました。



__________

「金曜のことですけど」
 俺は休憩に入る前、店内に客がいないのを見計らって、鹿沢に話しかけた。
「大事な仕事のときは休んでください。俺、入りますから」
(中略)
「そんな優しいこと言ってると、君の人生は簡単に侵略されちゃうよ」
 鹿沢は言った。
なんだよ。人がせっかく思いきって親切に申し出たのに、感謝もしないで。(p159)
__________

→けっこう僕は、同じ職場の人たちに気を遣ってしまうタイプですし、職場に限らず他者に対してもどうも優しすぎるところがあり、負担を引き受けてしまったり犠牲になったりしてしまうことは珍しくありません。だから、「君の人生は簡単に侵略されちゃうよ」が骨身に響く思いがしました。もっと断ることができることと、自分を優先できるようになることと。それが喫緊の課題です。



__________

 わかんねえな。特別におせっかいでも、面倒見がいいわけでも、救世主タイプでも、兄貴タイプでも、何かしてやることで自分の存在価値を見出すタイプでもなさそうなのに。
 何か抱えてる、精神に傷があるようなヤツのことが気になるんだ、あいつ。面白がってるのと手を差し伸べるのと、あんまり違わないのかもしれない。だとしたら、すげーやばいヤツだ。悪気がないぶん、もっと始末が悪いや。女にいろいろされるの、当たり前だよ。偽善者のほうがまだマシ。(p199-200)
__________

→メンタルがまいっている人が大好物で、しれっと近づいている人って、いるかもしれません。この引用箇所は、主人公が脇役の鹿沢の性向を勘ぐっているところで、実際はそんなことはなさそうなのですが、世の中にはこの勘繰りの通りの人がいないわけでもないので、思い違いや疑い過ぎであったとしても、構えることは必要だよなあ、と僕は考えていたりしますねえ。



__________

自分が正しいなんて意味がねえんだなって、つくづく思ったよ。通用しない相手がいる。だけど、自分の心を守る最後の砦は、やっぱり、そこだ。俺は俺が正しいと思ったことをやる。その信念。その意地。(p292)
__________

→年上の後輩で、でもコンビニバイト経験は主人公よりもある男がサボり魔であることに困っているところ。掃除してください、といっても、簡単に「やだよ」で返される。主人公は店長や店長の兄にチクることも考えるが、それはやりたくない、と耐える。こういう人って、そんなに珍しいわけでもないですよね、現実に。僕も、それなりの人数で働く場所に何か所か居たことがありますが、必ず一人はいましたね。そういう人はそういう人なりに、自分を守っているのだと思いますけれども、たぶん余裕がないからあまりに不格好な守り方だし迷惑になっている。


といったところです。優れていると思ったのは、20歳や17歳の登場人物を等身大に描けているなあと思えるところです。精神年齢がぴたっとはまっている感じがあります。キャラクター作りが成功しているし、ふだんからいろいろな人を観察しているのかもしれないし、洞察力もあるんだろうなあ、と思えました。






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『ヘビ学 毒・鱗・脱皮・動きの秘密』

2025-02-04 18:19:29 | 読書。
読書。
『ヘビ学 毒・鱗・脱皮・動きの秘密』 ジャパン・スネークセンター
を読んだ。

全世界で約4100種を数えるヘビの生態のあれこれを解説し、さらに全体の2割程度を占める毒ヘビのその毒の種類などについて深掘りし、それからヘビにまつわる事件(違法飼育事件、脱走事件、咬傷事件など)を紹介し、最後に神話や伝承などから人類がヘビに何を見てきたかを辿っていく構成です。

著者名義の「ジャパン・スネークセンター」は群馬県にある蛇専門の動物園で、一般財団法人「日本蛇族学術研究所(蛇研)」が運営しているそうです。執筆には、研究者四名があたっていました。

本書で得られる知識の一端を箇条書き的に少しだけご紹介します。

ヘビには聴覚がない。道にヘビがいてどいてくれないときに、大声で「どいてー!!」などと怒鳴ったり叫んだりしても、ヘビには聞こえないので無意味。

アオダイショウは50mほどもある鉄塔にもするするのぼっていき、高圧電線と接触してたびたび停電を起こしもするそう。どうして高いところにのぼっていくのかははっきりとはわかっていないとか。僕は北海道の田舎に住んでいますけれども、一年に数回は短い停電があります。これってもしかするとアオダイショウによるものもあるのかもしれないなあと思いました。

昨今はペットとして買われるヘビですが「なつく」ことはなく「なれる」だけ。蛇にとって生物に対する思考の選択肢は三つしかなく、「餌かどうか(食えるかどうか)」「敵かどうか」「繁殖の対象かどうか」だそう。そしてどれにも当てはまらないと判断したものには無関心になります。ただ、実際は、人間に接したときは敵かどうかの判断になるでしょうから、そこには恐れや怯えが生まれます。でも、攻撃されない、敵視されていないとわかると、ヘビの感覚はどんどん鈍麻していき、人間になれていく。そうする触ることができますが、犬のようになつくことはないのだそう。

ヘビ毒は大きく三つのグループに分けられる。「出血毒」「神経毒」「カルディオトキシン(心臓毒・循環障害毒)」がそれです。ハブやマムシは「出血毒」系で、この毒が回ると消化器官で出血が起きたり、筋肉や皮下で出血が起きたりする。コブラ科の毒ヘビは「神経毒」系で、毒が回ると呼吸ができなくなり、病院に搬送されて人工呼吸器につながれるケースがいろいろと紹介されていました。また、ブラックマンバというアフリカの毒蛇は、咬んだ相手の体内の神経伝達物質を大量に放出させる毒を送り込み、そのため、相手は神経伝達物質がすぐに枯渇し、麻痺状態になるんだそうです。ナショナルジオグラフィックのテレビ番組で、ブラックマンバに咬まれたライオンがけいれんを起こしているシーンがあったとありました。他、日本にいるヤマカガシは血液凝固作用を起こす毒をもっていて、メカニズムはよく飲み込めませんでしたが、出血が止まらなくなるそうです。

ヘビの抗毒素(血清)は、2000年ころではマムシが1万7000円で、ハブが3万8000円だったそうですが、近年値上がりしていて、現在ではそれぞれ9万円、24万円という高値だそう。医療保険適用になりますが、一般の3割負担だとしてもかなりの額面になります。しかも、ハブでは1~3本程度使っての治療となるので、そら恐ろしいですね。

ヘビの人的被害について。種々のヘビについて個別の節で解説してくれていますが、かの有名なキングコブラにはかなり人間がやられているのかと思いきや、人里離れた区域に生息しているため、主な被害者はヘビ使いだそう。繰り返しますが、主な被害者はヘビ使い。

最後の章では、神話などからヘビと人類の関係を考えていますが、インドの世界観ではヘビは世界を一番下から支えてるイメージがあるんですね。ヘビは宇宙に相当し、そのうえにでっかい亀がのっかり、その亀のうえに亀ほどではないですがでっかい象が何頭か乗って、その象が世界を乗っけている。この図は、検索するといくつもヒットするので、興味のある方は見てみてください。

アダムとイヴのイヴに青リンゴを食べさせたのもヘビでした。人間の先祖、アダムとイヴは楽園を追われましたけれども、人間は「神様のように善悪を知る者」となりました。ヘビは人間に知恵を授けちゃった存在です。この話に限ったことではなく、ヘビは多様な文化圏で「善悪両面の性質」を持っている役割を担わされています。守護者や知恵の象徴でありながら、危険や誘惑の象徴でもあります。また、日本の一部地域では、「家にヘビが入ると運がいい」とされますし、昔からヘビの脱皮した皮は金運を上げるとも言われてきました。そのほか、再生や回復のイメージがあり、白ヘビとなると財運・知恵・芸術との結びつきを考える向きがあるみたいです。

といったところです。自治体などからいっさい助成金をもらわずにスネークセンターを経営しつつ研究もしている研究者たちが書いた本です。本書を読んでみると、ここに列記したあれこれをもっと詳しく知ることができますから、興味を持たれた方はぜひ。

著者たちの語り口がどことなく質実としているなかで、ところどころで素朴なユーモアを見せてくれもして、なごやかな気分で読み進めていくことができました。ときに日向ぼっこが必要な変温動物であるヘビたちは、研究のため、抗毒素のためなどで命をいただかれてしまうことは珍しくないようですが、そういった個体たちに対してはせめてもの温かさであり、展示されている個体たちには陽光のあたたかさにプラスした温かさであるような、研究者たちの熱意とともに個性ある気概のようなものがあたたかく宿る本だった、と最後に結んで終わりとします。






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『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』

2025-01-31 01:16:05 | 読書。
読書。
『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』 小川さやか
を読んだ。

香港にある安宿、チョンキンマンション。そこには貧困国タンザニアからやってきた多くの人たちなど、多国籍の人びとが住まっている。それぞれが、さまざまに、インフォーマルな仕事をしながら。ブローカー業、衣料や雑貨や家具そして家電製品などを仕入れて母国で売る商人、セックスワーカー、地下銀行業者など。そして明記はされていないけれども、麻薬の販売や窃盗、詐欺などをしている者も少なくはないはず。

そんなチョンキンマンションの「ボス」を自称するタンザニア人のアラフィフ男性・カラマが、論考的エッセイである本書の最重要人物として登場します。著者は偶然にも彼と出会い、それから友好関係ができあがっていき、そのうち彼の連れのようになり、ともに日常を送っていくことで見えてくるものがあったようです(著者は経済人類学者なので、「見えてくる」ことを最初から企図して彼に帯同しているのでしょうが)。見えてくるものとは、商売目的で香港に(長期にしても短期にしても)滞在しているタンザニア人たちの商売の成り立ち方、そしてコミュニティのメカニズムなのでした。そこには、西洋化した資本主義社会から見れば独特の仕組みが息づいており、彼らは香港の商業文化や制度、法律などを受けるかたちで衝突や摘発から逃れるために知恵を使い自らの態度を変化させ、うまく適応したかたちで自然と独自の仕組みが発現してきた、と言えるところがあります。

また、香港で商売をするタンザニア人たちのやり方は、昨今の、Airbnbやサブスクなどのシェアリング経済と仲間内での「分配」という意味合いでの類似性も見出されていましたが、タンザニア人たちの「分配」には分配する者とされる者の間に生じる権威や負い目を回避しながらも「お互いがともにある」と思い合えるマインドがありました。言ってしまうと興ざめですが、約束をいちいち守らなかったり、いい加減さが緩衝材の役目をしたり距離を保ったりしています。

他に、Amazonや食べログなどがイメージしやすいと思いますが、利用者が出品者や飲食店に星をつけて、かれら事業主の信用度を評価するという評価経済型システムが有する「排除の問題」を回避する仕組みがあることも指摘されていました。星が低いと信用度が低いので淘汰されていく、というのが排除の仕組みで、評価経済は行き過ぎるくらいに責任感や気遣いを強いる傾向があります。これは、評価経済に参加している社会全体でおしなべて強迫観念が強化されることを意味するでしょう。タンザニア人たちは、仲間への親切や喜びや遊びを仕事にするというマインドがまずありまず。それでいて「誰も信頼できないし、状況によっては誰でも信頼できる」という集まりなので、一度裏切りがあったとしても、状況が変わればその人の立ち位置は変わりもするので、信じてみることを選択するほうが得策ということにもなり得るのです。これは、強迫観念的な「是か非か」「0か1か」「白か黒か」といった二分思考の枠外にある思考法ではないでしょうか。二分思考は強迫観念をあおるので、やっぱり生きやすさを考えれば、二分思考ではないほうがよいのでした。

読み進めていけば、これは本書の背骨に当たる箇所だなと思える部分はなんとか判別がつき、その尻尾はつかめるのですが、タンザニア人たちの生き方が、あまりに日本人に内面化しているあれこれを刺激したり、俎上にあげたりするものですから、頭も気持ちもぐらぐらぐにゃぐにゃしながらになりました。それでも、海外に滞在してみないと、そういったギャップやショックを受けることはまずないですから、家にいながらそういった経験が少しでもできるのはよい経験です。

また、香港でセックスワーカーとして稼いだタンザニア人女性が帰国して、そのお金を元手に化粧品会社を立ち上げ、母国では誰でも知っている大成功者になっているそうです。もちろん、セックスワーカーの過去は封じ込められている。時代や国を問わず、こういう成功譚ってたぶん珍しくないのではないかな、と思います。秘められているだけで、社会に出たときにはロクなことをしてなかったけどその後大成功して地位を手に入れた、というような。

というところです。読んでみて、「サバイブ」の片鱗でもいいから自分のものとできたら素晴らしいと思います。本書からなにをフィードバックするか、そして実際的に遂行できるかが肝ですが、おそらく、こういったオルタナティブな方法論があるんだよ、といったことが多くの人たちの間に広まることが、いちばんインパクトが生じるムーブメントではないでしょうか。勇気ある誰かが率先して実践してみた、という現実が最初の一押しになったりもするでしょう。小さな一部分であっても、仕事へのアイデアで、組織のありかたででもいいですが、なにか応用が効いたものが採用されるなんてことがあったらすごいですよね。そういった、小さな一歩と全体の空気感の変容と。同時に進むと世の中にはなにか変化が生じるのかもしれないですね。



では、引用をいくつか。

_________

「(略)サヤカ、香港のタンザニア人が病気になる一番の原因は何だと思う? 多くの人は、最初に物事の調整ができなくなるという病にかかる。その後に(アルコール依存症の)本当の病気になるんだ。(香港と母国とは物価が違うので)俺たちは母国ではありえない額のお金を稼ぐ。誰でも考えるさ。香港で一皿を買うお金でタンザニアでは何人が食べられるのかとか。それでもっと稼ぐために何にしたらいいか、どんな商売に投資しようなどと仕事のために頭を働かせる。けれども思いがけずボロ儲けする日が続くと、これからもどうとでもなる気がしてくる。逆にぜんぜん稼げない日が続いたら、突然すべてのことがむなしくなる。こんな遠いところまで来て俺は何をしているんだと。きっかけは人それぞれだろうけど、もうどうでもいいやって気分に陥ることは誰にでもある。そうして仕事をやめて暇になると、稼ぐことに頭を使っているうちには考えなかったことに悩まされ始める。母国と香港の生活のギャップとか残してきた家族とか、せっかく香港にいるのだから自分の人生を楽しもうとか犯罪行為をして楽に稼ぐ仲間がうらやましいとか、あいつが稼げて俺が稼げないのはなんでなんだとかさ。この時点では大した病じゃない。大部分の人は悩むことに飽きて、しばらくして普通の日々に戻る。だけど商売は大事なんだよ。頭を働かせるのをやめたら、そこから先の転落はあっという間だ」。そしてこうつけ加えた。「こじらせて犯罪者になったり不治の病になったりした仲間がいたとして、そんなやつはどうでもいいとはならないよ」(p81-82)
_________

→カラマの言葉です。商売に明け暮れていれば(でもタンザニア人は1時間くらいしか働かない人もいて、遊んだりネットで動画をみたりして過ごすのは珍しくないのだけど)、悩む心配はいらない。悩むとロクなことにならないから、香港へ来て「悩む」という洗礼を浴びても、また商売へ復帰するのがいいのだ、と説いているような箇所です。また、「そこから先の転落はあっという間だ」というところ、泳ぎ続けないと死んでしまう、みたいだしとてもシビアな現実が反映されているのですが、最後につけ加えた「そんなやつはどうでもいいとはならないよ」が、競争社会で資本主義社会の日本や西洋化した社会には無い、包摂や連帯の意識だなあと思いました。こういうところを日本にも導入できればいいのにって思っちゃいます。


_________

「毎日(パキスタン人の中古車ディーラー)イスマエルに会いに行けば、彼は俺を自分の子分のように思い始めるだろう。イスマエルが怒るから彼の言うとおりにするなんて態度をとっていたら、彼は俺を自分の従業員のように扱うようになるよ。俺は、パキスタン人と何年も仕事をしているから、これは予想ではなく事実だ。もしイスマエルに雇われたら、彼だけが儲けて、俺は彼の稼ぎのために働くことになる。俺たちアフリカ人が、香港の業者と対等にビジネスをするためには、彼らが俺に会いたいと恋しがる頃に会いに行くのがちょうどいいのさ」
 カラマは、本気で彼らを怒らせないように時々なだめる必要があると言いながらも、そもそも自分たちを対等であるとみなしていない人々に対しては、「扱いやすい人間」にならないことが肝要であると説明した。(p98)
_________

→カラマは商談さえ遅刻したりすっぽかしたりするのですが、それには上記のような考えが存在しているのでした。これ、パキスタン人とタンザニア人の間に限らず、僕らの社会にも使えそうじゃないですか。たとえばマウントを取られ続けて、相手が自分を下と見なすようになると、相手は自身が得するために自分を使うようになります。そういう相手には、遅刻やすっぽかしで勝負したいですが、なかなかそうはいかないでしょうから、「怒るから言うとおりにする」というのは避けるなどが有効かもしれませんね。対等って大事ですよねえ。



引用はここまで。香港のタンザニア人は「商売」がまっさきに頭にあるひとたちで、だからこそ、実にうまいぐあいに人間関係が成り立っています。たぶん「商売」というものを、場合によっては巧みに名目的にも利用できるからなのではないか。「商売」という看板に、面倒くさいものを背負ってもらって、その場をしのぐみたいなシーンはありそうです。

重ねて言うことになりますが、カルチャーショック的な、いい意味での「ぐらぐらする感覚」を覚えた読書でした。こうして書いてみても、書評としてはかなり不完全ですけれども、自分にとってのここぞの部分は書き残しておいたつもりです。





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