Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『教育格差』

2025-03-13 23:22:09 | 読書。
読書。
『教育格差』 松岡亮二
を読んだ。

裏の帯にこうあります----<「緩やかな身分社会」この国の実態。>

教育格差についてざっくり言うと以下のようになります。父が大卒の子は大学進学率が高い。そして大学進学率には地域格差・学校格差もしっかりある。父大卒と関係ある条件だけれども、経済的に恵まれて幼少時から習い事をしていると大学進学率が高い。親の、教育に対する肯定的意識の多寡も子の進学に影響するのでした。

個人的には、これらはでも、未就学時点ですでに薄く感じていましたよ。習い事したいなあって思う動機のなかにはこういうことを察している部分がありました、振り返ると。


教育システムは選別機能を持っている。社会自体もそれを望んでいる。たとえば商品に、信用に基づいた値札がついていなくて自分で価値判断しないといけなければ大半の人は困る。だから値札を付ける。同様に、人間にも学歴が値札の代わりとなり、社会が回りやすくなる。

これはわかるのだけど、それ以上に、そんな選抜機能で人間の何がわかるのだ、と僕は憤りを覚えてしまうんですよね。彼、彼女の何をわかるっていうんだ、僕のなにを知っているっていんだ、というようにです。学歴などは便宜的なものだということをもっと意識したほうがよくないですか。

人を、つかえる、だの、つかえない、だのと都合に合わせて選別するのも嫌なものだと感じるほうです。不景気が長く継続している点で、大半の日本人は使えない、と選別されておかしくないようなもんですよ。それなのに得手か不得手か、優秀か並か、速いか遅いかだとかで劣ってる方にやけに不寛容ですからねえ。

学歴獲得競争としてしか、基本的には小学校・中学校・高校の期間に意味はないというのが教育を本質的に見る態度だとしても、それを要求するのは社会や国家です。競争結果からの格差が次世代の「生まれの格差」となり定着していく。しかも格差は拡大しやすい。格差があれば差別も生まれる。……自由経済のシステムや価値観の産物の負の側面にこういうところがあります。

では、引用していきます。



__________

制度上、誰に対しても機会が開かれているということは、全員に同じ機会が現実的に付与されていることを意味しない。(中略)「制度上は可能」であるとか「誰にでも機会は開かれている」という言葉は「(可能なのだから後は)本人(の能力と努力)次第」というメッセージを含意するが、実際に「上昇」した個人の出身家庭は恵まれた階層に大きく偏っているのが現実である。(p70)
__________

→父が大卒かどうかなどの「生まれ」によって、個人の進学率が異なる傾向が顕著にでているのが日本の社会の現実なのでした(とはいえ、格差は他国と比べても同じようなものです)。父が大卒あるいは両親ともに大卒であるような高SES層(SES=社会経済的地位)の家庭で育つと、家庭単位での教育熱が低SES層とは違い、教育に対する信用は厚いし、大学進学への希望の度合いも違っています。これは子どもが未就学の時点でもうその差として現れてくる。幼稚園、習い事、そして家庭での親からの教育(高SES層は意図的教育、低SES層は放任的教育といった違いの傾向もある)によって、もうすでに学習能力に差がつきはじめる。
上記の引用部分は、義務教育の教科書検定や学習指導要領などが全国で統一されていること、受験資格に生まれや男女の差別はないことなどから、誰でも這い上がっていけるための教育、ひいては開かれた社会であるのだとしてしまうとそれは間違いだ、と述べているのでした。このほかに、地域格差があり、男女の格差があります。高校までくるとランクがあるので、そこでも格差が拡大していきます。



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ここでいう「質」とは人間としての価値ではない。あくまでも現行の学歴獲得競争と親和性があるかどうかだ。小学生であっても同級生の大半が「大学は(いつか)いくもの」と考えていれば、個人(親の)SESがどんなものでも、大学進学が集合的「規範」となり得る。これは「隠れた(潜在的)カリキュラム」(hidden curriculum)と解釈できる(p135)
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→非認知的ともいえる、学校からの子どもへの影響について述べている箇所ですね。子ども同士が影響し合うので、友達がどういった意識を持っているかがポイントになってきます。そしてそれは学校の校風などから影響を受けているものです。大学は行くものだ、と進学意欲をはっきりもっている子どものほうが、進学率は高いというデータが出ていて、であるならば、上記引用のような影響はポジティブに作用します。



__________

目に見える範囲の平均(「みんなと同じくらい」)で走っていても、その集団そのものが全体の中でトップ集団であったり、すでに平均からも引き離された集団であったりと大きく違うのだ。学力偏差値の意味合いもよくわかっていない中学生にとっては、学習行動や大学進学のような「規範」についても自治体や全国の中でどのような位置にいるかは考えたこともないだろう。中学生の目線で「世界」の大半を占める「みんな」に合わせているうちに進学校にたどり着く生徒もいれば、大学進学する生徒が珍しい高校に入学することになる生徒もいることになるのである(p191-192)
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→学校によって、地域によって全然違うんだっていうことですよね。「どのような位置にいるかは考えたこともないだろう」なんて書かれていますけれども、僕の育った田舎では、学校のレベルが大したものではないので、もう少し大きな都市の学校へ転校したり、高校進学のときに地元を離れたりするべきだ、という考え方が一般的でした。僕も中1の家庭訪問のときから高校は地元を離れてはどうか、と勧められました(ただ僕の場合はそれが、そのころ暗雲の立ち込めてきた家庭環境にさらに風を吹かせることになったんですよねえ、まあ、それはいいとして)。



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日本では、SES下位16%で学力上位16%(偏差値60以上)となる割合は6%と低いが、学年人口が約120万人なので、実数としては1.2万人前後いることになる。「誰にでも機会は開かれている」という主張を裏付けようと、意図的に多くの「低SESで高学歴の生徒」を実例として集めることは難しくない。無論、数多くの珍しい実例をかき集めたところで、代表性のあるデータが示す傾向の反証にはならない。(p250)
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→低SESの学生は不利なのに、まるで機会は平等であるかのように見せることは簡単にできるということですね。情報操作できてしまうし、みんなも信じてしまいがちかもしれません。



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「みんな」が学習指導要領準拠の教科書で学び、似たような桜並木と入学式、同じような種目の運動会、合唱や証書の授与を含む卒業式という演出があれば、機会が「等しく」与えられたという幻想を事実として認識する人が増えても不思議ではない。「平等な機会」が付与されているのであれば、最終学歴・職業・収入・健康などあらゆる社会的に構成される「結果」は個人の責任となり、社会福祉政策は「能力」の低い「弱者」に対する「お情け」となる。(p267)
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→「生まれ」による格差は、小学校でも縮まることなく、それどころか拡大していく傾向があります。また、地域格差、学校格差もあるなかで、しかしながら表面上はいっしょであるために不平等が見えてきません。だから、「自己責任」なんて言われてしまいやすいのですけれども、その「平等な機会」はまやかしであることをはっきりと言ってくれた箇所でした。



とというところですが、最後に。

ミクロにマクロに教育格差のメカニズムが解説されている。でも、どんなに教育格差を教育の分野で是正しようとがんばっても、社会から競争がなくなるわけじゃないし、であるならば「生まれ」の格差がなくなることもない。教育システムの枠内にさまざまな問題があり、いくつかの問題と紐づいていたりしているケースでも、すべてをしらみつぶしに解決したつもりでも、社会システムという外からの力でほぼそれらはうまくいかないと僕は思うのです。世界は自由競争経済(マネーゲーム)というメカニズムの上に乗っかっており、商売は競争に勝ってこそ大きな利益があがるので、その競争性は必然的に苛烈なものとなる。いちおう労働のルールは設けても、労働時間を長くして競争に勝とうとしたり、効率化を進めて競争に勝とうとしたり、ルールのぎりぎりのところやグレーのところで無理や無茶を課しながらよそよりもなんとか一歩、いや半歩でも出し抜こうとして目を血走らせていたりする。そういった競争社会が要求する教育のあり方なのだし、競争社会で生きる親たちが子どもたちをしつけ、環境をコントロールし、教育方針を作って歩ませることになっている。競争社会であることを肌にびしびし感じながら働いている高SES層の親ならば、子どもにそういった世界に出るための用意や教育をさせるだろうし、比較的末端の仕事についていることが多そうな低SES層の親ならば、世の中は世知辛いものだと思いはしているだろうけれども、比較的あまり競争社会の芯の部分を知らずに働いているので子どもの将来や育ちかたへのヴィジョンもゆるくなりがちかもしれない。そこにはまた、地域格差というものもあるのだけれど。

だから、教育を変えるには社会に大きな変化が起こることが条件なのだと思う。そうではない教育改革は、教育を根本から変えることはできない。つまり、格差は無くならないのではないか。悲観的な見方だけれど、僕にはそう思えました。

本書の主張では、子どもたちが「生まれ」に関係なくもっているのびしろを存分に伸ばせる教育が望まれ、その結果、進学率が伸びて社会にも「民度の向上」のようなかたちでポジティブな影響がでる、また、個人としても高学歴の方が収入が多いこともあり幸福感が高まる、というようなものだと読み受けました。しかし、やっぱり世界は自由競争の社会ですから、高学歴の者たちの間で格差が生じるだろうと思える。また、幸福感についても、学歴が高いほうがいい、という価値観が絶対的に正しいとする見方が本書では暗に貫かれているような気がしましたが、そうではない生き方でも生きていける社会のほうが豊かだとも考えられます。

本書には、以前行われたゆとり教育の失敗した部分ばかりを述べて、これは失策だったとするところがあります。高SES層の子どもたちが私立に流れて「生まれ」の教育格差が広がった、だとか、低SES層の子どものなかには、学歴競争から自ら降りた者がでてきた、などがそれです。でも、新たな発想や価値観を持つ世代が生まれる土壌として機能する可能性のある教育方法だったのではないかと思えるし、おおらかに自分のやりたいことをみつけて邁進するにもいい教育方法だったのではないか、とも思えるところがあるのです。

たとえば、ゆとり教育をやるならばその前提として、まず自律を促すことは徹底してやって、その上でゆとりをする、など、改善策は考えられると思います。私立に流れて教育格差が広がる、などを調整しようとしても、格差は無くならない。ならばいっそ、自分のやりたいことを見つけてその分野で一流になることで学歴一本軸の社会の価値観に大きな波紋を起こす、波紋どころか大波を呼ぶ、みたいな方向で考えたほうが格差ってなくなるのではないか。価値基準が一本軸だからよくないんですよ。勉強が出来た出来ないだけで考える人っていうのは、そういう世界しか知らないからです。そんな硬直した世界を攪拌するには、やっぱり、バージョンアップしたゆとり教育的なものって効果があるような気が僕にはしますね。ゆとりといいつつ、自分の目指す方向が定まれば、一心不乱にとりくめる体制が構えてあるといい。そういうのが理想です。つまり、三段構えで。「自律心を身につける→ゆとり→興味を持った方向に寝食を忘れるくらい取り組んでよいとする」はどうなんだろう。パッと出たようなアイデアですが。

教育だけをいじくるなんて、そこはもう袋小路でしょう。もっとダイナミックで、あえての密度の低さを活かす方策のほうがたぶんいいです。偶有性のある社会、つまりカオスを含んでいるからこそ、どのポジションにいたとしても、それぞれにそれぞれの希望の方向が見えるというのが望ましいです。






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『Quick Japan vol.175 齋藤飛鳥 詩を紡ぐ身体』

2025-03-11 23:10:16 | 読書。
雑誌を読書。
『Quick Japan vol.175 齋藤飛鳥 詩を紡ぐ身体』
を読んだ。

齋藤飛鳥さんの特集。ご自身へのインタビュー二本と、関係者10人へのインタビュー、そしてアート性のあるフォト、トータル90ページといった構成だった。

乃木坂46卒業公演から約1年半が経つころの企画。齋藤飛鳥さんは、今、何を考えているのか。使い古された言葉だけれど、彼女の「現在地」をフレームに収めようという努力の企画である。もちろん、フレームに収まりきるはずがないし、フレームに向けてさらけだすタイプでもない。

共感を抱くような考え方がしばしばでてくる。これはちょっとうれしい。でもそれは、僕が大好きな乃木坂46、そして気になり続けた齋藤飛鳥さんから、意識的にも無意識的にもさまざまな影響をたくさん受けた結果、僕のほうが似たということなのかもしれない。別々の者たちが、ふたを開けたらいろいろと偶然に似ていたというよりも、知らずに彼女たち乃木坂46の、そして齋藤飛鳥さんの考え方や感じ方へと僕のそれらが寄っていったのだろう。

齋藤飛鳥さんは、「乃木坂46の齋藤飛鳥」にしても、乃木坂46卒業後の「芸能人、齋藤飛鳥」にしても、それらを小説のように書き続けているのかもしれない。秘密に手に入れた魔法のペンで書いているので、書いたことが実現する。そういうペンで書かれた小説なのかもしれない。いったいいつから、そういう形の「作家」になっていたのだろう。そのきっかけも知りたいし、どうやって書く才能を養っていたのかにも、渇いた興味が前のめりになる。誰にも気づかれないように、トライ&エラーを重ねて独自の作家性を構築していったのかもしれない。それもまた、彼女の謎の部分だ。さまざまな謎は、謎であると同時に僕らをとらえて引き寄せる。深い魅力は引力としての働きを持っていることを知ることになる。

齋藤飛鳥さんを好きならば、彼女に執着してはいけない。彼女との距離をまず探り、許される距離感を勘をふり絞って働かせて把握するのが彼女へのマナーであるような気がした。

__________

自分でもきれい事って思うようなことも、ここ数年でまっすぐ受け取れるようになったというか。「きれい事でもいいじゃん」と思えるようになりました。丸くなったと言われれば、それまでなんですけど。(中略)でも卒業した今は、生き方や仕事のひとつ取っても自分で選択するしかない。自分がどうなりたいかを考えないと生きていけない。だから今までよりも幸せについて考えるようになって、自分だけの豊かさを追求することが幸せな人生っていうわけじゃないよな、というところにたどり着いたのかもしれないです。(p32)
__________

→こういう地点に今はいるんですね。それは未来から振り返れば「通過点だった」と懐かしむようになることなのかもしれないし、あるいは「芽が出たばかりの頃」であってのちに葉を広く伸ばし鮮やかに花が開くことになるのかもしれないそのはじめの記録である可能性もあります。まあでも、とくにこういった記録に縛られることもないでしょうけれども、なんとなく、これは乃木坂でいたことが彼女の背中をつよくひと押ししたんじゃないだろうか、っていう想像もできてしまいました。「きれい事でもいいじゃん」がロックな時代ですよ、現代は。僕からいえば、こんな方を好きでいられるのはうれしいというか、誇らしさまで感じちゃったりで。最初の一歩、乃木坂のオーディションを受けてくれてそこからはじまったわけでして、もうね、ありがとう、ですよ。






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型にはまる安心と、型にはまって負う傷。

2025-03-07 10:52:36 | 考えの切れ端
昨年10月期のドラマ『ライオンの隠れ家』の主人公には発達障害の弟がいた。弟は、時間に正確を期し、やることの順番も毎日おなじ。つまり自分を型にはめることで自身の状態を保っていた。これは、社会に自分をあてはめるやり方で、そうしないと不安になってパニックを起こすから。不安にならないため、秩序を求める。

いっぽうで、メンタルを病んだり調子を崩したりする人のなかには、社会性に耐えられなくなったのではないか、と考えられるところがあったりする。現代の社会性による厳しい締め付け、型にはめすぎなところが、本来の人間性を発揮する時間やその実感を押しのけてしまう。

人間ひとりの中でも、人間性と社会性の配分はあるし、社会自体も極端なありかただといけないんじゃないかと思う。社会的な事象については、モノのように見て扱えばいい、とデュルケームは考えたと、録画を見始めた100分de名著でやっていた。社会への飛び込み方も、そういうモードであるべきだろうか。

社会参加に対しては割り切った態度でいられると楽だと思う。でも、人間性を求められる局面は、社会にいる場面で必然的にもそうじゃない場合にもでてくるものだ。柔軟に、臨機応変でやるとすれば、周囲からの寛容さが不可欠だと思う。割り切るというのは不寛容さだから、反対のものが要るようになる。

発達障害の傾向の人にも、メンタルが傷ついてる人にも、周囲からの、つまり社会からの寛容さが、彼らをケアしたり心理的にフォローしたりするのではないか。社会は極端であるべきじゃない、とこういうところでも考えられる。競争とか規律とか常識とか、どれも極端になるといけないじゃない?

要らない真面目さってあると思うのだ。四角四面、杓子定規みたいにある種の融通の利かなさがそれ。決められたこと、ルールは一枚岩であらねばいけない、とそう遵守しないと世の中が乱れるという言い分はわかるけれども、そうじゃなくて、「良い二枚舌」「良いダブスタ」ってのもある。

それは不安定なことだけれども、それをときに「やれやれ」と言いながらでも、受け止めて生きていく姿勢がベターなような気がする。不安定な生き方でも人々を不安症にさせない仕組みってないかなあ!
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『こぼれ落ちて季節は』

2025-03-05 23:45:44 | 読書。
読書。
『こぼれ落ちて季節は』 加藤千恵
を読んだ。

いろいろな人たち、とくに学生など若い人たちが多くでてきます。本作は恋愛を扱う連作短編なのですが、そのなかで主人公を担っているひとたち、相手役の人たち、脇役の人たち、それぞれが、外向的だったり内向的だったり、興味の方向も恋愛観も、積極性の強い弱いも違うことがしっかり書き分けられている。ほんとうにいろいろな人が描けているので、小説世界が閉じていないです。だから、フィクションではあっても、誰かの(つまり著者の)独り舞台のような空想劇という感じは僕にはほとんど感じられなくて、好ましく、そして心地よく思えた作品でした、ときに屈折した心理を見せる人物がでてきてもです。読み心地の重さ、軽さといった重量感にしてみても、読み手として負担の少ないちょうどよい好感触でした。

最初の短編から、男女の関係のとき、女性側が「触れられてさまざまな境目がわからなくなっていく自分と、」(「友だちのふり」p16)と体感している最中の言語化と感性がいいなと思いました。普段は他人との間にしっかりした境界があるものですからねえ。そういったところに注目し意識するのか、と。

主人公がそれぞれの話にそれぞれの人たちがでてくる中で、脇役として別の話にまたがってでてくる者もいました。その脇役の男がある話の中で浮気をしていて、別の話で浮気がバレて修羅場を迎えているのですけど、おっかしくて仕方なかったです。だけど、ちょっと読み進めるとわかるのだけど、出合い頭でおっかしさを感じたりしたけれども、笑い話というわけではないんだよな、とすぐに身を正すことになりました。脇役の彼の人生もまた連作短編の物語のカギになっているんです。というか、身を正すなんて言い方をするとかしこまっているようでまたそれはそれで違って、個人的な笑いという逸脱から物語という本筋の道に戻って踏みしめて歩くように、つまりそのとおりを味わうように正対する感覚なのでした。まあ、それはそれとして。


では、引用をしながらになります。



__________

(略)ゆきは中学時代、イジメに遭っていたらしい。友だちとケンカしたのがきっかけらしい。きっと友だちが力のある子だったのだろう。
 腕力ということじゃなくて、力の差は絶対にある。わたしは幼いころからそれを意識していた。クラスの中で、誰が強く、誰が弱いのか。もしもトラブルが起きそうになったら、どう立ち回り、誰を味方につけるのが得なのか。
 わたしだって、いつもうまくやってきたわけじゃないけど、それほど大きな問題は起こしてこなかった。多分、ゆきはわからないのだろう。笑いたくなくても笑ったり、楽しそうに振る舞ったりしてみせることの重要さについて。(「逆さのハーミット」p87-88)
__________

→この短編の主人公である姉のあさひが、不登校になった妹のゆきについて述べている箇所です。ここを読んでみても、あさひが、うまく友人関係を乗り切る能力に優れているタイプなのがわかります。とくに大きな傷を負うことはなく、紙一重のケースはあったかもしれなくても危険をうまく回避して、学生時代を終えていくような人ではないか、と感じられました。
で、この引用部分ですが、僕には二重に身に染みてわかるんです。小学生から中学生の終わりくらいまでは、僕は「笑いたくなくても笑ったり、楽しそうに振る舞ったりしてみせ」られるほうでした、周囲に。かなりふざけたことやバカみたいなことを言ったりやったりして、友だちたちを笑わせることが好きだったのだけど、それは相手側からすると、気を遣って「いい反応」を見せてくれていたところはけっこうあったんだろうなあ、と今になるとわかってきます。で、中学の終わりころから、スクールカーストみたいなものが嫌になり、逸脱あるいは転落をするのですが、そうすると、それまでそんなに気を遣わなくてもよかった同学年たちの力関係が見えてくる。また、同学年のそれぞれが、力の強弱において僕をどう評価しているのかもわかってくる。
学生時代って、勉強に励む人には友人関係が二の次だったりする人もいますが、反対に、勉強が二の次で友人関係を楽しむことが第一の人も、たとえば僕の通ったような田舎の高校にはわんさかいるものです。勉強がよくわからなくても、後者のような子たちはすごく複雑なことをやっているんですよね。政治力とか、駆け引きとか、そういった試験とは関係のない能力が、日ごろから大なり小なり交差したりぶつかったりっしていて、勉強よりもそういったところが鍛えられていく人たちがいる。それは、社会に出てから、世渡りすること、先輩たちとのうまい付き合い方なんかに発揮されていくのでしょう。サバイバル能力につながるスキルとも言えますよね。
このあとの「向こう側で彼女は笑う」という短編の主人公である、別の高校生の女子もまた、この引用にあるように、笑いたくなくても笑ったり、ということで平静に過ごすことをよしとし、そこからはみださないか怯えてもいました。作家は学生たちの間に(実は、学生を卒業しても変わらなくて、あとのほうの社会人の短編でも似たようなことがでてくるのですが)厳然としてあるこういったひとつの有りようをぐうっと掴んでいて、巧みに言語化し、物語のなかで表現しているわけです。それは、暗黙の了解のような、良いか悪いかは別としても、この社会一般に根差す不文律であって、これを表現して突き付けたことは本連作短編でのストロングポイントにもなっていますし、作家の腕を見せたところだったとも言えるでしょう。



__________

(略)こんなにかっこよくて素敵な人に、彼女がいないはずはなかった。第一、彼女がいたとして、どれくらい問題だっていうんだろう? 多分昨日までのわたしだったら、そんなのはありえないって思っただろう。でも目の前、触れられる距離に彼がいて、温度や手触りを知ってしまっては、この状況こそが、それだけが、信じるべきものに感じられた。(「逆さのハーミット」p101)
__________

→音楽フェスのバイトスタッフとして働いたとき、現場で知り合った男の虜となり、彼の部屋で彼と寝た主人公。そのあと、男に付き合っている彼女がいることがわかるシーンです。彼と肉体関係を持ったことで、もう赤の他人ではなくなり、心理的な距離が特別なものへと変わったことがうまく描かれているなあと思いました。「この状況こそが」が、お見事なほどの鋭い感性ではないですか。ふつうでは踏み入れない状況。ふつうではそうはならない特別な状況。そういった二人だけの状況にいる自分と彼は、だからこそ、特別な深みにいるわけです。そして、その深みに至るまでに経た過程が証明する二人だけの実感があったからこそ、主人公のあさひは「信じるべきものに感じられた」んだろうなあと思えた次第でした。



__________

 大学生活を通して、わたしが身につけてきたように思っているものなんて、ちっとも価値のないものなのかもしれない。
(中略)
 東京を特別な場所だと思ううちに、自分までもが特別になっていくように錯覚していた。でも、地元にいたときと、今とで、わたしのどこが変ったっていうんだろう?(「波の中で」p223-224)
__________

→就活を振り返った主人公が、当時がくぜんとした思いを述べているところです。大学生なんて、「浮かれた存在」にどうしてもなってしまいますよね。いろいろやったようでいて、井の中の蛙だったのを思い知るというのは、ほとんどの人が社会に出て、あるいは社会に出る前の就活で感じることなのかもしれません。ただ、個人的なことを言うと、それを先に社会に出て会社や組織で十年選手とか二十年選手とかやってる人が、新人のそういった未熟さを知っていて、マウントをとるわけでじゃないですけど、なめて接してくることって多いと思うんです。そういうのが、僕が主人公たち大学生に感情移入してみると、とっても嫌ですね 笑 まあ、そこまで本作には書いていないですが。


というところです。

元も子もないことを言うのですが、一人称の小説って、自己言及が多いっていうの、あるあるじゃないですか。自己客観性も強い。外向的な性質の部分あるいは自己を保守する部分が、他者との境界をしっかり築かせるのでしょうか。自身の輪郭をきっちり定めるというようなのは、自分を言葉で定義づけする度合いの強さの結果かもしれません。もっとぼんやりしてたり、もっとよくわからない欲求や衝動に任せたりして生きている場面が多くてもいいんじゃないかな、と小説でも現実でもそうあればいいのにと、僕なんかは思ったりしました。人それぞれだから好きにすりゃいいことなのですけどね。まあ、割合の話です。






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『蛇の神 蛇信仰とその源泉』

2025-02-25 14:40:09 | 読書。
読書。
『蛇の神 蛇信仰とその源泉』 小島瓔禮 編著
を読んだ。

古より蛇は、「正・邪」「善・悪」「敵・味方」など、相反する性質をもたされた揺らぎのある存在とみなされてきたそうです。矛盾が同居させられていて、同じ神話や言い伝えのなかでもケースバイケースでどちらかに転んだ行動を取らされていたり、物語の性質によってどちらかの側に立たされていたりする生きものでした。また、インドの神話では、蛇は宇宙蛇としてこの世界を根本から支える存在とされていますし、北欧神話でもミズガルズ蛇が大地の中心を担い、世界の軸としての役目を持つような神様だったりします。本書は、そんな「蛇」への人類の精神史といいますか、人間は蛇になにを感じ、またなにを見てきたかを、古文書や伝承などから読み取り考察したものを教えてくれます。

蛇の神って伝統的にけっこうポピュラーな存在だったようです。あの金毘羅神も蛇の神だったと本書で知りました。女の神が蛇の神とまぐわい子をもうけたりする神話が珍しくないみたいにいくつか類例が記されているのですが、これ、言ったら、男根の形状が蛇っぽいから連想してそうなったのではないのか……。

おもしろかったトピックをひとつ。神無月という呼び名のある10月は日本全国の神様が出雲に集まるためそう呼ばれます。だけれど、東京都府中市周辺の地域に君臨する神様である大國魂神社の神様は蛇体なので神無月に出雲へ行きません。かつて、のろのろ這っていったため遅れてしまい、もう来なくてよい、といわれたと伝わるそう。好いゆるさのある神様界隈ではないですか。ちなみに、ここで例に出した神様以外でも全国各地に蛇体の神様がいて、みな神無月になっても自分の土地を離れないそうです。

あとは、虹は大きな蛇だとみなす伝統が世界中にあること(日本では蛇の吹く霊気だとするものもある)や、土地の神様とはおそらく別の「蛇神」の話、蛇を呼んだり追い払ったりする法術の話(追い払う呪文には「山立姫」という言葉が見られ、これはイノシシの意味だそう。イノシシはマムシを食べるとされるため呪文に使われる)、中国の白蛇伝説などさまざまな伝承をみていくようなところの多い内容でした。

小説家・安部公房は、蛇は非日常の存在だと捉えていたそう(p31)。それは手足がない胴体だけの生きものという、当然あるべきものの欠如からくる嫌悪感がベースになっているのですが、あるべきもののない者の日常を想像することはむずかしい、すなわち日常性の欠如、言い換えれば非日常の存在という図式になるのだとありました。本書では、蛇は人間にとって混沌、カオスを意味するとしています。



では、ふたつほど引用を。

__________

虹を指さしてはいけないという伝えが、日本の各地にある。長野県埴科郡でも、虹を指さすと指がくさるという。鹿児島県でも、虹を人さし指でさすと手がくさるという。琉球諸島では、沖縄群島の久高島で、虹をシー・キラー、ティー・キラーという。「手を切るもの」という意味である。虹は神であるから、これを指させば失礼に当たり、指さした指の先から、だんだんにくさってきて、手が切れてしまうという。(p84)
__________

→虹の話でしたが、虹と同一視される場合の多い蛇にも、同じことが当てはまるとあります。東京あたりでも、蛇を指さすと指がくさるといい、両手で蛇の長さを示したときには、ほかの人に、そのあいだを切ってもらう、というのがあったそう。指さしは禁忌とする宗教的な要因がなにか存在しているのだろう、と著者は見ています。



__________

蛇の腹をつつくと雨が降るという伝えのある土地もある。(p97)
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→蛇はしばしば水の神とされるのだそう。稲田が気がかりな農民にとっては、田畑にでてくる蛇の挙動に関心があったのだろう、ともあります。また、ヘビは雷の象徴で、水を支配する力を持っていることを解説するところもありました(p112)。雷はイナズマとも呼ばれますが、イナ=稲であるように、稲の妻=イナヅマとして、雷は稲の配偶者として稲をはらませると見ていたところがあるようです。雷が鳴れば恵みの雨が降りますからね。そして、その雷の化身として蛇を見ていたそうなのでした。



といったところでした。本書中盤では、世界に伝わる蛇の寓話や童話などを紹介してくれるのですが、物語前半では助けてくれる存在だった蛇が後半では裏切ってくるなど、このレビューのはじめに書いたように、蛇は「敵・味方」などの相反する性質をになうトリックスター的な生き物として位置付けられている印象を強く持ちました。古来より、にょろにょろと独特なやり方で歩いていく蛇の生態は、人間にとっては不思議な在り方だし畏れを抱かせる存在だったのかもしれません。ただ、おもしろいのは、欧州では蛇を飼ったりなど慣れ親しむ習俗があったようで、伝承でも、「蛇にミルクを飲ませて家に住まわせると家が繫栄した」などがあります。日本でも、家に蛇が入ると家が栄える、と言われる地方があり、そういわれる一因として、どうやら作物を食い荒らすネズミなどを蛇が食べてくれるからという害獣駆除の面が重宝されたところがあるみたいです。ネズミ捕りとして有能な猫がまだペットとしてみなされていない頃からの習俗なのでしょうね。

蛇をどう見てきたのか。現代では、気持ち悪さや毒のために忌避する傾向が強いと思いますが、そこにもっと昔の人はさまざまで豊かなイメージを持たせたのだなあと知ることができてよかったです。






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