Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『かがみの孤城 上・下』

2024-12-17 21:02:46 | 読書。
読書。
『かがみの孤城 上・下』 辻村深月
を読んだ。

かがみの孤城に集められた7人の中学生。彼らは5月から3月までのあいだ、鍵探しと鍵の部屋探しを課されます。鍵を見つけ、鍵の部屋を探し当てたものは、そこで願いをひとつ叶えられるというミッションです。また、7人の他にもうひとり、彼らを集めた張本人である狼面の少女が監督者として、たびたび出現しますが、年齢不相応の話し方がおもしろいです。ギャップの妙、というものがあります。

「言葉が通じない」と主人公のこころが思うところがあります。こころがひどいいじめを受けた真田さんや、担任の伊田先生に対して強く。また、様々な地区から集まった中学一年のクラスで、最初から遠慮もなく自分たちが主人公というように自己都合優先で、つまりでかい顔をして学校生活をするタイプの人たちがでてきますが、これは僕にとってもそういう人たちがいたなあ、と眠っていた記憶が甦るシーンでした。しかしよく、こういったことを言語化して、物語にできるものだなあ、と感嘆しましたねえ。

ここは下巻につながることではあるんですが、こころがいくら説明しても気持ちが通じず、「言葉が通じない」ような自己都合の強い傾向で、生きづらい人の気持ちを想像もできないような人たちを、「ああいう子はどこにでもいるし、いなく、ならないから」(下巻p170)と断じるセリフがあります。これには僕なんかはいい歳をしていながらも、身が引き締まる思いで読んでいました。

あと、登校せず勉強もせず外出もせずひきこもっている主人公・こころが「怠け病」だと思われることを嫌がり、恐れているシーンにいくつか出くわすんです。「怠け病」というのは、そういうレッテルを貼りやすい人がいるんですよね。「怠け病」に見える人には、だいたいにおいて事情があると僕は思うほう。

上巻は5月から12月まで。7人が、お互いを知っていき、絆が深まっていきます。


* * * * *


下巻は、大きく物語が動き、「なんだ、いきなりやってきたな!」といった感のクライマックスはぐいぐい読んでしまいました。

内容にはあまり触れずに、抽象的ではありますが、以下に感想を。

「だいたいみんな、同じようなものだ」という多数派の幻想に目をくらませられがちな、「個別性」というもの。人はそれぞれ違うもの。環境も能力も違うのだから、違って当たり前です。そして、この作品に出てくる7人の中学生たちが抱える生きづらさも、それぞれが誰のものとも当たり前に違う、個別の生きづらさだったりします。それを本作はわからせてくれるところがあります。

最後、エピローグは10ページほどの分量で書かれていました。正直、エピローグ直前までは、「なるほど、そういうことだったか」という、謎解きができた知性的な脳の部分ばかりが活動してしまい、物語の整合性に気を取られるような気分でいました。しかし、それが見事だったのが、上下巻併せて700ページ以上の物語が、その10ページで驚くほど見事に終点へ着地するそのさまです。読者の昂った気持ちが、すっと、それもワンランク上の清澄な場所に昇華されておさまる感覚というか、それまでの物語の重みが闘牛のようにこちらへ走り飛んでくるなか、作者がひらりと赤いマントを翻してその勢いを削ぎ、いなしながら、読後の余韻のほうへと転化して、おさまるところへとおさめてしまうというか。ちゃんと、読者の感情面をふくらませて、納得と感動をさせて、終わらせていくのですから、作者の「物語る力量」を見た気がしました。

作者の「物語る力量」といえば、設定やプロットは練られていますし、キャラクター構築ではそのキャラクターの心理がどう形成されたのかが、納得のいく形で為されているなあと思いました。ただ、こうやって事前にきちんと裏側や細部を決めて物語を作ると、あれはこういうことだし、これはこうだし、これは作者がこう考えたのだろうな、などと、すべて理詰めでわかってしまうきらいがあります(「おそらくこうだろう」という推測も含めて「わかる」とすると、です)。これは今の時代傾向としてそういう物語が好まれているというのはあるでしょう。仕掛けたものががおさまるところにすべておさまってすっきりするということもそうです。ですが、「わからない」ということを感じさせることも大切ではありますし、これはきっと好みや気分の問題なのかもしれませんが、ちょっと、この物語がまた違う形で編まれていたら、というifをうっすらと想像せずにはいられなかったのでした。







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『恐怖と不安の心理学』

2024-12-09 23:54:41 | 読書。
読書。
『恐怖と不安の心理学』 フランク・ファランダ 清水寛之・井上智義 監訳 松矢英晶 訳
を読んだ。

著者はニューヨークで開業している心理療法士です。セラピー現場での経験と、学んできた知識とがうまく融合したような知見が語られていて、とてもエキサイティングな読書となりました。

心理学や精神医学分野の読書感想ではそうなることが多いのですが、今回も勉強モードでの長文レビューとなります。今回はより箇条書き的なレビューですが、ご容赦ください。後半部はいくつか引用をまじえながら書いていますので、まずさらっと知りたい方はスクロールしてそちらから目を通してみてくださるとわかりやすいかもしれません。



暗闇という状況に恐怖を感じるように、人間はできています。それは原始の頃から。夜行性の肉食動物に襲われる危険がありましたし、それでなくても、歩けば足を踏み外してケガをしてしまったり、どこかに体をぶつけてしまったりしがちでした。それゆえのこういった恐怖は、脳の深いところで発生するらしいです。まだ下等生物だった頃からの機能としてあったそうです。

それでこんな心理実験が載っていました。何枚かの写真を被験者に見せるというのがその実験で、写真にはそれぞれ別々の人が写っており、被験者はそれぞれにどのくらい危険を感じるかの印象を答えるというものです。これを、実験する部屋の明度を低くして薄暗くした中で行うと、写真に危険を感じる度合いが増すそうです(まあ、影が射して、人相が悪く見えるだろうなあとは思いますが、そもそもそれこそが、そういったかたちでの「闇」による心理的影響と言えるものかもしれません)。

不安症の人などは、部屋を明るくして過ごすといいのかもしれないですね。電気代がかかるからと、不安性的な貧困妄想の人もいますけれど、そうやって薄暗い中で過ごしがちだとさらに不安度は増していくのでしょう。(あと別な話ですけど、薄暗い中にいると眼圧が上がりますから、明るくすることで緑内障のリスク減にもなったりします)



一方と他方を結びつける「比喩」は想像力を使う行為ですけれども、そうして比喩を使うことによって培った想像力の作用で、他者の心を慮ることができるようになる、という本書に書かれた気づきは見事です。心はそうやって発達していった、すなわち比喩の能力が心を作っていったとする理論でした。他者の心ってわかりません。でも想像はできます。そしてそれは比喩的なもの、とする考え方でした。こうして思いやりや同情が生まれ、かたや、嫉妬や裏切りも生まれました。なかなかに説得力があります。



空っぽな心を感情で満たしたい、喜びでも怒りでもいい、という欲求があってセラピーを受けにきた患者が、パートナーへの怒りを表出し心をそれで一杯にしているシーンがありました。怒りの奥には悲しみがあり、つまり悲しみや裏切りへの傷つきを怒りにしていた。これらの気持ちを自分で許容できるようになれば良い傾向だそう。

怒りを伴って表れる世代間連鎖の暴力も、もしかすると幼少時の満たされなかったりした悲しみや傷つきがその奥にあるのかもしれません。また、介護が必要になった伴侶への怒りと暴力も、その奥には伴侶の状態への悲しみとともに、自分だけが残された悲しみ、寂しさ、傷つきがあるのかもしれないなあ、と思い浮かびました。

こういう視点で、修復的正義の介入って望めないものなんでしょうか。暴力があると相談したら「はい、分離します」じゃなくて。この方面でのマニュアルがまだないでしょうし、ということは前例もないわけで、進んでいかないというのはあるのではないか。



ここからは引用をはさみます。まずひとつ目。
__________

意識化されない心(無意識)を、フロイトは疑いの目で、ユングは希望の目で眺めた(p118)
__________

→フロイトは無意識を、ジキルとハイドの、凶暴な二重人格のほうのイメージに近い、抑圧への反発といった捉え方をし、ユングは無意識のなかに眠る、心の自己治癒能力の存在を感じていました。

フロイト理論は20世紀を超えなかったけれど、この理論を用いていたときの精神分析とは「心の闇をのぞき見よう」とする行為といったイメージがあります。そうやって症状の原因を知り解決へ導いていく。このやり方だから恐怖を感じるのでしょう。それでなくとも、自分と向き合うことが怖いという人が多数だそうです。いまや、こういった自分の内部にダイブするようなものに近い手法を使うのは一部の小説作家のみなのかも。

心理療法は認知行動療法の時代に入りつつあるというような印象の文章が書かれていました。認知行動療法は、考え方や意識感覚に働きかけてよくない症状をなくしていこうというものなので、心の闇を見つめなきゃという恐怖を感じなくていい療法です。まああえて苦手なことをさせる暴露療法なんかもありますけれど。

だから、もっと認知行動療法が周知されて、問題行動のある人が心理療法を怖がって受けないでいて周囲を苦しめ続ける(そして自分も苦しみ続ける)ことが減っていって欲しい、と僕なんかは思うのです。怖くない心理療法なんだ、って多くの人に知られると、このあたりは変わってくるのではないか。


次はトラウマからの世代間影響の話を。人がはねられる交通事故を見たことがある親がそれをトラウマとして持っていると、子供と交差点を渡るとき、手を固く握りしめたりするなど、過度に制御的になるという。そしてこういった場合、人生全般においても過度に子どもに対して制御的になる、と。過保護もこの範囲にあるでしょう。

そうして子供はどうなるかというと、子どもは脅威評価を親の振る舞いから学び取るので、過度に制御的に扱われると脅威評価という主観的なものが歪む。つまり、個人のセキュリティシステムのメインの軸に欠陥ができてしまう、と。

セキュリティシステムの欠陥によって、四六時中の過剰警戒状態になってしまったりするそうです。なおかつ本書の例では、母親が鬱病かつ表情を読めないタイプだと、子供は成人した後も自分の願望や欲求が意識にない状態になってもいました。心の奥にしまい込み鍵をかけた状態になるんです。要は他者に過剰同調するためなのですが、感情の分からない母親を優先して自分を合わせてしまう経験が続くことでそういった心理機構ができあがってくるんだと思います。

それでもって、こういう本を読みながらだとセルフカウンセリングになりやすくて、自分の場合はどうかなと内省することにもなるんですよね。僕の、ストレスによる頻脈は、過剰警戒の証左ではないか、など浮かんでくる。母親は僕が子供当時、あまり表情が読めなかったし、すぐに不機嫌になったし、本の例に適合するところがありました。

話は戻り、子どもの心理傾向ですが、遺伝、環境の両方が言われるなか、親に似ているところは親の振る舞いから学んでいたり、親自身の脅威評価からくる制御、すなわち価値観の押し付けが似せさせる面があると本書から学んだのでした。で、過保護、過干渉という制御が子どものセキュリティシステムを歪めてしまう、と。

ということは、親が強迫症で過保護、過干渉や強制や支配がきついと、子どものセキュリティシステムが歪むということになります。でも、親自体もセキュリティシステムが部分的にあるいは全体的に歪んでいるのは確かで、そっちはトラウマ経験から来たのか、親(子どもにとっては祖父母)からの制御がきつかったからかは、当人しか分からなそうではあります。

過保護・過干渉でセキュリティシステムが歪むと過剰警戒、過剰同調になるということです。人に気を使いすぎて集団の中では疲れやすい人、表情や機嫌を読み気遣うことにエネルギーが取られて仕事に能力を発揮できない人はこういった育ち方をしているのだろうと読み解けると思います。実は僕もこのタイプ。



自らの感情の動きを見つめてちゃんとわかることは大切で、セラピーでもそうするようクライアントに言っているがありました。たぶん、これは基本なんでしょう。で思ったのが、自分の感情への感知力が低い人は、そんな自分でも感知しやすいように大げさな振る舞いをするではないか、ということ。仮説です。細やかじゃなくても、感情を知るという心理療法的な対応できますから。ただ、他者からすれば、大げさなのはやかましかったり、ときに迷惑になったりします。とくに日本人は静かだといわれるのが思い浮かびます。アメリカ人や中国人は声が大きくて、アクションも日本人からしたらオーバーです。それは、感情をわかりやすくして、自分の感情をよくしるための無意識的な防衛戦略なのかも、とちょっと思ったのでした。

さて、僕はちょっと短編を書いたりしますけれども、小説を書くことの治療効果は、こういった、心理の動きを追うこと、さまざまな感情の発生を見逃さないことが、原稿に登場人物の心理を書き込んでいくうえで欠かせないことですから、その大きな副産物としておそらくあるでしょう。創作って、こういった面からも、おすすめですね。

自分の中で沸き起こる感情をわかるには、自分に素直であればいいんです。体面を重んじる人や虚勢を張りがちで人に自分をよく見せたい人は、自分に対して偽るので、なかなか自分に素直になれないでしょう。くわえて、偽った自分を本当の自分のように思い込んだりする自己暗示にもかかると思うんですけど、どうでしょうね?

とはいえ、誰でも自分をよく見せたいから、素直になるのが思うよりずっと難易度が高くなるものなんです。素直になれたりなれなかったりを繰り返しながら、自分としてのベターをやれれば及第点なのかもしれない。

過去の経験や外的な事情で心理が硬くロックしている場合ですとなかなかうまく素直になれないでしょうから、少しずつ自分の感情を思うようにして、解きほぐしていく方法をとることになるのだと思う。セラピーで、感情を自覚するように促していっているケースが、本に書かれています。またここでおすすめしたいのが、心理描写の細やかな小説を読むことです。たとえば辻村深月さんの書かれる小説は、こういった面でとてもよさそうです。



では、また引用を。ふたつ続きます。
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動物の生活から遊びが欠落すると幸福感も減退する。人間の場合はさらに、遊びが欠落あるいは抑制されると、より重大な心理的機能不全につながることがわかっている。そこで遊びが抑制される原因を探ると、恐怖がその主犯として浮かび上がる。(p33)
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「子どもや成人それぞれが創造力を発揮でき、そして自分のパーソナリティのすべてを使うことができるのは遊びのなか、唯一、遊んでいるときなのである。そして創造的であるときのみ、人は自分自身を発見する。」(精神分析医 D・W・ウィニコット p156)
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→遊ぶ人こそ自分がわかる、ということです。恐怖が遊びを制限させる、というのは、公園で危険だと認定された遊具が撤去されたり、「危ないからそっちへいくな」と制されたりすることでわかると思います。しかしながら、危険を感じる遊びで、人は学び成長もするようですし、引用にもあるように、創造的になって、自分のその時点での身の程も知れるということです。



次の引用は、暴行による影響のメカニズムです。
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当然のことだが、この種の麻痺状態を経験した性的暴行の被害者は、自分に起こったことを恥と感じる。このひどい出来事を止めることができなかったこと、責任感、これほどの侮辱を受けたあとには当然生じる自分が無価値だという感覚、これらのすべてが恥の基盤となる。この神経生物学的方略に付随する恥の思いが、性的暴行の犠牲者が名乗り出て事件の話をしたがらない理由として引き合いに出される。自由の喪失、虐待を止めることができなかったために感じる無力感、個人の主権を犯されたという経験、これらがすべて一緒になって犠牲者に、自分は人間以下だと思わせる。(p43-44)
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→性的暴行による被害の酷さがどういうものかがわかる箇所です。ただ、自由の喪失、虐待を止められなかった無力感、個人の主権を犯された経験、というのは、性的ではない虐待でもあるでしょう。これらが自尊心を損なわせることになります。自尊心が低いとつよい不安を抱えやすくなると、僕は近しい人を見てそう理解しているのですが、これはなかなかに厄介で、そこから自制心が弱くなって暴力に繋がることは珍しくないのではないか、と考えています。



次は不安症について。
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不安という名前でくくられてこの統計のなかに(成人の1/3の人が一生にどこかで不安に悩まされるという統計のこと)含まれる障害には、恐怖症、強迫性障害、パニック障害、心的外傷後ストレス障害などがある。治療しないままこれらの障害が進行すると、患者は病の前に無力となり、犠牲者となる。自らの人生に向き合うこと、自尊心、自己決定のすべてが減退するようになる。(p89)
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→不安症を放置しておくと進行していって、そうなると自尊心も決断力も弱くなっていき、様々な問題を先送りしてしまう流れに乗ってしまいます。このことは想像に難くないのではないでしょうか。これがひどいと、家族間のコミュニケーションがうまくいかない問題なども棚上げしたり、精神面での不安定さや抑えられない衝動的な怒りを繰り返すのを放置したり、自尊心の低下ゆえに粗探しや揚げ足取りをして他者のポジションを低めて相対的に自分のポジションが高くなったことを確認することで自尊心を保とうとしたりします、これも近しい人を見ていての見解です。そして、先送りがほんとうに酷いと、自分の寿命が来るまで、対処せずに逃げ切ろうとします。自分の暗闇と向き合えば、苦しみを克服できるのに、そうせず、苦しんだまま長い時間を過ごすことを選んでしまう。そればかりか、周囲の人をも苦しめてしまいます。

権力やお金を手に入れて、自分が脆いという感覚を遠ざける力とする行為があります。でもそれで得られる安心は擬似的なものなので、安定は得られず、本当の自分から遠ざかることでもあるため、苦しみは増していくといいます。そうして、その結果、ますます脆い自分から生じる不安のために、ますます困った行動をとるようになってしまう。

自分と向き合って、暗闇を知っていきそれと対峙して乗り越えたり受け入れたりすることで、精神的な健康が得られるといいます。権力や地位、金銭で補強する行為は自己を肥大させ、本当の自分を遠ざけてしまうんです。なんだか、老害を起こす人の核心を見たような気持ちになります。

このあたりについての引用も下に。

__________

比喩的に言えば、壁を築き、私たち自身の一部を地中に埋めてしまい、あるいは走って逃げることだ。だが、私たちの内面で起こっているものは相当に厄介な問題をはらんでいる。私たちの心は、記憶とのつながりを断ち切り、望まないものを仕切りで隔て、パーソナリティをいくつもの小さい部分に分割する能力をもっている。そして、こうした防衛行動が慢性化すると、満たされた幸福な状態の自分を回復するのは非常に難しくなる。(p127-128)
__________

→心の苦痛や苦悩が脅威となって、上記のような防衛行動を取ってしまうということでした。しかしながらそれは、自分自身に背を向けることであり、心を失うことでもあるのです。だから、苦痛や苦悩と向き合うことが、それらを克服するために必要だということになります。心の問題って、こういったパラドックスになっているのでした。

さらにもうひとつ、関連した引用を。
__________

だが、セラピストの仕事をしてきてわかったのは、私たちがもっとも恐れる精神的苦痛に敢えて飛び込み、通り抜けるのが、回復への道だということである。たぶんこれが(本書での)最後のパラドックスであり、理性的な脳では解決されないものである。(p233-234)
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→前述のように自分自身と向き合うのは多くの人にとって恐怖だといいます(僕にとっては疲れるものだという認識のほうがあります)。でも、敢えて飛び込むのが正しい道だと著者は言っています。昔読んだ「他人への怒りは全部かなしみに変えて自分で癒してみせる」という枡野浩一さんの短歌を覚えているのですが、内面化された怒りを自覚して、その源へと還元して対処してることに、今思うと震えそうになります。



恐怖が転じて虐待を生む、その虐待は恐怖を生む、という繰り返しで、虐待行為は世代間伝承トラウマとも呼ばれる伝染現象としてずっと人間の中に伝わり続けるとのこと。

そんな悠久の流れである負の濁流を、最後の子孫が防波堤となろうとすると、ものすごい圧力にバラバラになりかける、あるいはバラバラになっておかしくないものだと思います。この負の連鎖に自分が取り込まれないように気をつけつつ、さらに親世代に抵抗をしつつ、濁流をできるだけ浄化して次の世代に託すイメージで、僕なんかはやっていきたいほうです。そして、巻末のエピソードでは、この世代間伝承を食い止めた人がでてきて、それは勇気と希望を与えてくれます。

世の中なんて変わらないという人からすると、いや、世の中ちょっとは変わるという人からしてみても、自分が担い手となり流れを変えようとするのは他者には誇大妄想に映ってもしょうがないかもしれません。でもやるんだ、ってことに落ち着くものなんです、不思議と、なんだか。実存主義的にそうなるんでしょう。

そして、これ↓
__________

社会変化は社会を構成する個人の集団的心理状態に依存している。(p176)
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→僕の考え方も一緒なのでした。政治は大事でしょうが、政治家に任せていればいいってわけでもないんです。



というところで、最後にひと段落残して終わります。とてもよい本でしたが、力量的にまとまらなかったので、そこは諦めて、もうひとつ感じたことを書いて締めます。



比喩的な意味で、暗闇は恐怖で、光は安心を意味します。だから、光ですべてを照らしてしまえばいいとする考えは一般的です。本書にありますが、完璧に光で照らせば解決するんだ、という姿勢です。正しい行いを貫徹すればいいのだ、と。しかし、光あるところに必ず影ができるように、光が暗闇を作ってしまいます。正義の名のもと、拷問がおこなわれ、プライバシーが侵され、古くは魔女狩りや悪魔祓いが行われてきた、と著者は説きます。どこまでも暗闇を根絶しようとがんばるのは、そうすることで恐怖は無くなると信じているからです。これらについて本書には、はっきりとした解決策は書かれていません。そこで僕が出しゃばりますが、前に書いた小説で暗闇を取り扱ったとき、仏教の教えを採用して、暗闇というものそれは影でもあるものだから、と考えました。どうやっても影はついてくるものですから、それならば、もうそのことは諦めて受け入れることが最善ではないか、と。生き物とは、そういった負い目のある存在だと受け入れる。そう考えた上でならば、許し合えそうな気がするんです。できうるかぎりの善、それは押しつけの善ではなく、個人の範囲でそういった善を為し、誰かに働きかけるときはおずおずと慎重かつ下からの態度で。それが、影を持つ存在だと自覚したことで取ることのできる行動様式なんじゃないだろうか、と。このあたりは、ネット上の誹謗中傷ってすごいな、と感じたことがきっかけで考えたことでした。


とりとめがないですが、これにて終了です。ぜひ手に取っていただきたいなあと強く願う本でした。著者陣GJ!




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『黙って喋って』

2024-12-03 22:47:45 | 読書。
読書。
『黙って喋って』 ヒコロヒー
を読んだ。

本を読むことで旅をする。行ったことのない土地、異国、ファンタジーの世界、未来そして過去の世界。ひととき、日常を忘れ、本の世界に浸る。そうやって、本を読む人たちはリフレッシュしたりする。知らなかった世界を知るばかりか、考え方を教えられるというよりも発見するに近い経験をしたりもする。と、まあ、ここまで書いたことも、読書のほんの一面に過ぎないとは思います。

ピン芸人・ヒコロヒーさんによる全18編の短編集『黙って喋って』はどんな世界へ読者を連れて行ってくれるのか。簡単にいうとそれは、若い年代の女性がしっかりと地面を踏みしめながら歩いていく日常の世界へだと思う。そこには恋愛がもれなくくっついていて、テーマとしてはそっちがメインにはなっている。ただ、「薄い」ともいえず、「浅い」ともいえないくらいの日常のあれやこれやの場面の記録が虚構世界に刻まれていることで、虚構世界が現実世界の匂いをしっかりと帯びている。だから、生まれた土地を離れて住み着いた地方都市なんかで希薄な人間関係にある人や、引っ込み思案で引きこもりがちな人、つまり、メインストリートは華やかすぎるから棲み分けを選んだような人が、選ばなかった世界を覗くこと、つまり生々しいifの現実を虚構世界で体感することが本作品集からはできそうな気がするのでした。でも、不用意にページをめくると咽てしまうかもしれません。

もちろん、メインストリートまたはメインストリートの端っこを歩く人たちが本書のページを繰ってもおもしろいと思うと思います。誰それの体験談を読むみたいな感覚になるかもしれない。

さて、すべてに唸りながらも僕が「これいいじゃないですか」とあげたくなったのは二編です。まずは「覚えてないならいいんだよ」です。学生時代に仲の良かった女子の心理が隠されての再会。主人公の男子は、彼女との「生きるスピード感」が違う。そのため、最後になる会う時間に対する覚悟も、その時間の味わい方も、期待していたりしてなかったりすることも食い違っているのだけど男子はよくわかっていない。ラストまで淡々と流れていきますが、うっすらと後悔のまじった軽いため息に似た苦味のような気持ちが生まれる余韻を味わうことになりました。僕にとってそれは悪くないものでした。二人が住んでいた同じ世界が、ある時点から分岐してしまって、別々の世界を生きることになってしまったような切ない感じすらありました。

次に挙げるのは「問題なかったように思いますと」。舞台はどこかの企業。本社から出向してきた女性社員が、なあなあでなし崩し的に横行するハラスメントが満ちる職場でひとり戦う。その姿を見る主人公の別の女性社員が、処世術を優先した生き方に圧倒されながら、それと相反するまっすぐな生き方との間で揺れるんです。
それでは引用をまじえながら。


__________

 社会で生きるということ、その上で自分を楽にさせてくれるものとは諦めることであると、悲観的な意味合いではなく現実的に、いつからかそう心得ることができていた私にとって、凛子さんの芯を剥き出しにするような部分は解せないものがあった。恋人の有無を聞かれても、ある女性社員の容姿を嘲るような冗談めいた会話を振られても、たとえ自分自身にその矢が向いてきたとしても、その場を凌いで笑顔で対応していれば決して波風が立つことはない。そのくらいのことならやればいいのに、なぜ頑としてやらないのか、何の意地なのだろうか、もっとしなやかに生きればいいのにと、何度も彼女に対して、そう思っていた。
 笑いたくないジョークにも適当に笑い、苦痛だと感じる質問にも態度に出さず愛嬌で逃げる、傷つくようなことを言われても傷ついていないふりをしていれば彼らにとっての「やりやすい」を創造することができ、それこそがこの社会で生きる「術」なのだと理解して、諦めて、迎合していくことは、単純に自分自身が楽に生きていくための知恵であり、要領だった。(「問題なかったように思いますと」p226-227)
__________

→悪い慣習が連綿と続いていくのはこういった保守的な姿勢があるからですが、それって自分が生き抜くためのものですから、糾弾するみたいにはいかないものでもあるとは思います。
また、以下の箇所もおもしろいので引用します。


__________

「いいえ、私の部署内でのハラスメントを感じたことは特にありません」
 癖づいたように笑みを浮かべて言えば、男性社員は納得いかない様子で顔を歪めた。内密になんてされるわけがないことくらい、ここで話したことはすぐにどこかに漏れ伝わることくらい、そうすればこの組織で居心地が悪くなってしまうことくらい、簡単に分かる程度には私も社歴を重ねていた。(「問題なかったように思いますと」p230)
__________

→これは人事部からの調査の場面ですが、実際、社内に労働組合がある場合もこうだったりしますよね。


本書の総合的な感想をいえば、食い違いやわかりあえていない部分を抱えながら一緒にいる男女の女性側の気持ち、それはたぶん淡い孤独感で、日常生活の背後にひっそり佇んでいたりするものだったりすると思うのだけど、そういう場面を言語化しています。書くことをしているなあって思います。

また、本書をカウンセリングをする誘い水みたいな位置づけでの感想を言うと、誤解を恐れずに言うことにはなるんですけど、「言葉で説明のつくものって、小さいし浅くないだろうか」というのがどろっと出てきます。また、対話において、自分は何でも善だと表現したくなったりするのって、相手によっては僕はあります。ちょっとでも良くなかったら相手にそれはだめだと目くじら立てられちゃったりするから、それに反論するにはまだ言語化は無理な段階だし、自分の内側からもそのモノ・コトをさらえていないので、かえって偽ったりします。それがまた後の災いになることもあるんですが。これは相手によります。


というところで、最後にまた引用を。
__________

「春香、お母さんの言うこと聞きな。あっち行くよ」
夫が割り込んできてそう告げると、春香はいやだあと言って、また身体を左右に振った。まだ幼いのに、なのか、幼いから、なのか、子どもは自分の判断を疑うことを知らない。すると唐突に、できるだけ、何にも惑わされず、そのままでいてほしいと、なぜだか強くそう思った。今のまま、自分が良いと思ったことを信じることをやめずに、そうして、すきな靴を履いて出かけて、いろいろな人と出会い、たとえそれが悲しくてつらい気持ちを与えるものだったとしても、きっとそれがいつかあなたを支えるものになるのだろうと、きらきらとした無垢な表情でこの小さな靴を見つめる彼女に、なぜだか、急にそう思わされたのだった。(「春香、それで良いのね」p218)
__________

ヒコロヒーさんから、さまざまな考え方や思想がキャラクターとともにあふれ出ています。それと、一文の長さが長い文章をわかりやすく巧みに使う技術がある書き手だと思いました。

惜しまれるのは、書き手が芸能人の分だけ損をしているところ。その人の経歴や芸風や声音、話し方、外向きの性格などの個人情報が知られすぎていてとても損だと思うんですよ。小説作品にまるで関係のない作者のイメージを読み手はどうしても引きずってしまって、意図せずに作品の言葉づかいなどに挿し込んだり重ねたりしてしまいがちになるものです。そういった読者心理の働きがマイナスになってしまう。そのぶんを考えて、作品自体にプラス0.5点を加点して、☆5点満点とさせていただきます。でも、もしももしも作家がエゴサをして5点満点を見つけてしまったときに慢心されてしまうと不本意なので、こうして書き残しておく次第です。また小説を書かれるかもしれないですからねー。


朝日新聞出版
発売日 : 2024-01-31


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異性関係の「圧」

2024-11-30 23:58:26 | 考えの切れ端
これはあくまで、地味で穏やかな独身男性による空想からの思考実験なのですが。
しかしながら以下のような考え事が、小説執筆時の物語場面などに影響したりするんです。






「まさかあなたがわたしに不満を言うなんてことはありえないよね」とおそらく疑いなく考えているんだろうなあ、という、そういう種類の「圧」ってある。で、「何かあるならどうして言わないの!」とくる。わざわざ目に見える地雷を踏みに行きません。僕は日常に平穏を望むタイプです。

離婚はとても疲れるといいますけれど、こういう「圧」が張り巡らされている環境を打破することだからかな、と受け身の側に立って考えてみるとそう思います。ちょっと意見や提案を言っても、それを攻撃と受け取られて不機嫌になられてしまったりしがちなら、不満は避けたくなりますもの。「力関係で優位に立とうとするのは普通でしょ」っていう人が出しがちな「圧」なんじゃないかなあ。僕みたいな平穏な亀的人間からすると、マウントはできるだけ自覚してもらって、自覚したときは引っ込めてほしいのですよ。

でもって、こちらとしては我慢の限界があるから、気づかれないようにフェードアウトしていくのですよ。気づかせません。亀的人間ですから、私生活にはできるだけ波風を立てたくないのでした。


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『ガリレオ ――はじめて「宇宙」を見た男』

2024-11-25 21:52:19 | 読書。
読書。
『ガリレオ ――はじめて「宇宙」を見た男』 ジャン=ピエール・モーリ 田中一郎 監修 遠藤ゆかり 訳
を読んだ。

ガリレオの人物像とその時代を、カラー図画などをふんだんに使いながらコンパクトに伝える本でした。

キリスト教カトリック派の力が強大だった中世ヨーロッパ、聖書と齟齬をきたさないプトレマイオス説(天動説・地球が宇宙の中心で太陽をはじめ他の星はすべて地球の周りをまわっているとする説)と、異端視されるコペルニクス説(地動説・現在の太陽系観である、太陽が中心で地球もその周りをまわる星であるという説)が、どちらが正しいとも決着を見ていない時代にコペルニクス説を確信しつつ、実際に当時オランダで発明された望遠鏡の風聞を聴いて自ら光学を勉強しながら作製し、性能をアップさせたものへと改良していき、宇宙をはじめて肉眼以外で観測した人がイタリア人のガリレオ・ガリレイでした。

その観測によって、コペルニクス説の正しさを証明する明確な証拠をガリレオがつかんでいきます。木星に4つの衛星があること、金星の満ち欠けについてのことなどの観測からガリレオは考察を深めていったのでした。

しかしながら、妬みや嫉妬を持ったり、聖書に反するものの見方だとして旧来の秩序を守ろうと敵視してくる人たちがいます。それはイエズス会の神学者たちであったり、学者たちであったりしますが、その批判の内容は幼稚な言いがかりレベル(今で言えば、SNSの「クソリプ」のようなものかもしれません)のものだったりもして、ガリレオははじめこそひとつひとつ反論して打ち破っていったようではあります。

ここでちょっと、思ったことを書かせていただきますが、新しい思想というものは危険視されやすいものです。たとえばイエス・キリスト。彼は当時としてはまったく新しい思想を広めて同胞を増やしていき、それを危険視したユダヤ人の罠で裁判にかけられました。時代は下って中世ヨーロッパ。ガリレオは当時まだ主流のアリストテレスの科学を批判し地動説を支持し、キリスト教カトリックによる裁判にかけられました。キリストがかけられた罠を、その信者たちが、かつてのユダヤ人たちがキリストに対してしたのと同じように「新しい思想の排除」のため、ガリレオにかけた。皮肉が効いているというか、ミイラ取りもミイラになるというか、やっぱり内省や自己批判などが大切なのではないだろうか、と思うなどしました。

そうなんですよね、有名な話ですがガリレオは最後には異端裁判にかけられて、アリストテレス科学を暗に批判した書物などは禁書とされ、自らの信念ともいうべき地動説も捨てさせられます。ガリレオが異端裁判にかけられる一昔前には、ブルーノという人物がやはり地動説を支持したことを罪とされて火刑に処されています。ガリレオが禁固刑と、その後の監視処分で済んだのは(それでも厳しい処分ですが)、僕がこの本から感じ取るに、その対人関係の誠実さと柔らかさにあるような気がします。あからさまな敵への反論でも、感情的な文面で返していません。相手に対して、丁寧に説明し、責め立てて追いつめたりもしていません。そういった人間的な性質が、「ガリレオだから、火刑はきつすぎるか」とためらわせたのかもしれない。また、科学に明るい枢機卿や貴族との強いつながりを持っていたので、そういった処世的な柔らかさが自らの命を救ったのかもしれない、とも考えられると思います。

ガリレオって、愚直で、一歩一歩確実に歩いていくタイプだったぽく感じられるんです。だけれど、その歩みは日々続けられ、重い一歩が着実に積み重ねられて、常人との大きな差となっていったような感じがしました。天才的な飛躍だとか、軽妙なひらめきだとかはあまり感じられないほうですね。ただ、偏見や既成概念に捕らわれない人だとは言えそうです。なんていうか、ちゃんと世間の中にいる科学者です。象牙の塔で自分だけ最先端へ行っちゃうタイプではなさそうです。


最後にひとつ、引用を。
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コロンベが味方にしようとしたのは、まったく別の種類の人間、つまり無学で、口汚く、攻撃的で、「信仰の番犬」を自称する人びとだった。(p77)
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→コロンベという人物は、なんとしてでもガリレオをやっつけようと、仲間を集めてガリレオを非難する小冊子をつくってばらまいたりしています。しかし、取るに足らない内容で、ガリレオと彼の協力者たちは笑い飛ばしたと本書にあります。コロンベのような、ただ、当時の人びとに内面化されていた旧来の秩序を頑として守りたいだけで、新しい思想や発見を吟味する知性もない人がやるのが、上記引用のような仲間集めなのでした。これは現代にも通じている行動様式ではないでしょうか。怖いのは、そういった力が、終いにはガリレオを異端裁判へと向かわせていることです。コロンベのような困った人たちであっても、どうにかして説得するなどして包摂しないといけないのだろうか、と考えてしまうところでした。



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