読書。
『教育格差』 松岡亮二
を読んだ。
裏の帯にこうあります----<「緩やかな身分社会」この国の実態。>
教育格差についてざっくり言うと以下のようになります。父が大卒の子は大学進学率が高い。そして大学進学率には地域格差・学校格差もしっかりある。父大卒と関係ある条件だけれども、経済的に恵まれて幼少時から習い事をしていると大学進学率が高い。親の、教育に対する肯定的意識の多寡も子の進学に影響するのでした。
個人的には、これらはでも、未就学時点ですでに薄く感じていましたよ。習い事したいなあって思う動機のなかにはこういうことを察している部分がありました、振り返ると。
教育システムは選別機能を持っている。社会自体もそれを望んでいる。たとえば商品に、信用に基づいた値札がついていなくて自分で価値判断しないといけなければ大半の人は困る。だから値札を付ける。同様に、人間にも学歴が値札の代わりとなり、社会が回りやすくなる。
これはわかるのだけど、それ以上に、そんな選抜機能で人間の何がわかるのだ、と僕は憤りを覚えてしまうんですよね。彼、彼女の何をわかるっていうんだ、僕のなにを知っているっていんだ、というようにです。学歴などは便宜的なものだということをもっと意識したほうがよくないですか。
人を、つかえる、だの、つかえない、だのと都合に合わせて選別するのも嫌なものだと感じるほうです。不景気が長く継続している点で、大半の日本人は使えない、と選別されておかしくないようなもんですよ。それなのに得手か不得手か、優秀か並か、速いか遅いかだとかで劣ってる方にやけに不寛容ですからねえ。
学歴獲得競争としてしか、基本的には小学校・中学校・高校の期間に意味はないというのが教育を本質的に見る態度だとしても、それを要求するのは社会や国家です。競争結果からの格差が次世代の「生まれの格差」となり定着していく。しかも格差は拡大しやすい。格差があれば差別も生まれる。……自由経済のシステムや価値観の産物の負の側面にこういうところがあります。
では、引用していきます。
__________
制度上、誰に対しても機会が開かれているということは、全員に同じ機会が現実的に付与されていることを意味しない。(中略)「制度上は可能」であるとか「誰にでも機会は開かれている」という言葉は「(可能なのだから後は)本人(の能力と努力)次第」というメッセージを含意するが、実際に「上昇」した個人の出身家庭は恵まれた階層に大きく偏っているのが現実である。(p70)
__________
→父が大卒かどうかなどの「生まれ」によって、個人の進学率が異なる傾向が顕著にでているのが日本の社会の現実なのでした(とはいえ、格差は他国と比べても同じようなものです)。父が大卒あるいは両親ともに大卒であるような高SES層(SES=社会経済的地位)の家庭で育つと、家庭単位での教育熱が低SES層とは違い、教育に対する信用は厚いし、大学進学への希望の度合いも違っています。これは子どもが未就学の時点でもうその差として現れてくる。幼稚園、習い事、そして家庭での親からの教育(高SES層は意図的教育、低SES層は放任的教育といった違いの傾向もある)によって、もうすでに学習能力に差がつきはじめる。
上記の引用部分は、義務教育の教科書検定や学習指導要領などが全国で統一されていること、受験資格に生まれや男女の差別はないことなどから、誰でも這い上がっていけるための教育、ひいては開かれた社会であるのだとしてしまうとそれは間違いだ、と述べているのでした。このほかに、地域格差があり、男女の格差があります。高校までくるとランクがあるので、そこでも格差が拡大していきます。
__________
ここでいう「質」とは人間としての価値ではない。あくまでも現行の学歴獲得競争と親和性があるかどうかだ。小学生であっても同級生の大半が「大学は(いつか)いくもの」と考えていれば、個人(親の)SESがどんなものでも、大学進学が集合的「規範」となり得る。これは「隠れた(潜在的)カリキュラム」(hidden curriculum)と解釈できる(p135)
__________
→非認知的ともいえる、学校からの子どもへの影響について述べている箇所ですね。子ども同士が影響し合うので、友達がどういった意識を持っているかがポイントになってきます。そしてそれは学校の校風などから影響を受けているものです。大学は行くものだ、と進学意欲をはっきりもっている子どものほうが、進学率は高いというデータが出ていて、であるならば、上記引用のような影響はポジティブに作用します。
__________
目に見える範囲の平均(「みんなと同じくらい」)で走っていても、その集団そのものが全体の中でトップ集団であったり、すでに平均からも引き離された集団であったりと大きく違うのだ。学力偏差値の意味合いもよくわかっていない中学生にとっては、学習行動や大学進学のような「規範」についても自治体や全国の中でどのような位置にいるかは考えたこともないだろう。中学生の目線で「世界」の大半を占める「みんな」に合わせているうちに進学校にたどり着く生徒もいれば、大学進学する生徒が珍しい高校に入学することになる生徒もいることになるのである(p191-192)
__________
→学校によって、地域によって全然違うんだっていうことですよね。「どのような位置にいるかは考えたこともないだろう」なんて書かれていますけれども、僕の育った田舎では、学校のレベルが大したものではないので、もう少し大きな都市の学校へ転校したり、高校進学のときに地元を離れたりするべきだ、という考え方が一般的でした。僕も中1の家庭訪問のときから高校は地元を離れてはどうか、と勧められました(ただ僕の場合はそれが、そのころ暗雲の立ち込めてきた家庭環境にさらに風を吹かせることになったんですよねえ、まあ、それはいいとして)。
__________
日本では、SES下位16%で学力上位16%(偏差値60以上)となる割合は6%と低いが、学年人口が約120万人なので、実数としては1.2万人前後いることになる。「誰にでも機会は開かれている」という主張を裏付けようと、意図的に多くの「低SESで高学歴の生徒」を実例として集めることは難しくない。無論、数多くの珍しい実例をかき集めたところで、代表性のあるデータが示す傾向の反証にはならない。(p250)
__________
→低SESの学生は不利なのに、まるで機会は平等であるかのように見せることは簡単にできるということですね。情報操作できてしまうし、みんなも信じてしまいがちかもしれません。
__________
「みんな」が学習指導要領準拠の教科書で学び、似たような桜並木と入学式、同じような種目の運動会、合唱や証書の授与を含む卒業式という演出があれば、機会が「等しく」与えられたという幻想を事実として認識する人が増えても不思議ではない。「平等な機会」が付与されているのであれば、最終学歴・職業・収入・健康などあらゆる社会的に構成される「結果」は個人の責任となり、社会福祉政策は「能力」の低い「弱者」に対する「お情け」となる。(p267)
__________
→「生まれ」による格差は、小学校でも縮まることなく、それどころか拡大していく傾向があります。また、地域格差、学校格差もあるなかで、しかしながら表面上はいっしょであるために不平等が見えてきません。だから、「自己責任」なんて言われてしまいやすいのですけれども、その「平等な機会」はまやかしであることをはっきりと言ってくれた箇所でした。
とというところですが、最後に。
ミクロにマクロに教育格差のメカニズムが解説されている。でも、どんなに教育格差を教育の分野で是正しようとがんばっても、社会から競争がなくなるわけじゃないし、であるならば「生まれ」の格差がなくなることもない。教育システムの枠内にさまざまな問題があり、いくつかの問題と紐づいていたりしているケースでも、すべてをしらみつぶしに解決したつもりでも、社会システムという外からの力でほぼそれらはうまくいかないと僕は思うのです。世界は自由競争経済(マネーゲーム)というメカニズムの上に乗っかっており、商売は競争に勝ってこそ大きな利益があがるので、その競争性は必然的に苛烈なものとなる。いちおう労働のルールは設けても、労働時間を長くして競争に勝とうとしたり、効率化を進めて競争に勝とうとしたり、ルールのぎりぎりのところやグレーのところで無理や無茶を課しながらよそよりもなんとか一歩、いや半歩でも出し抜こうとして目を血走らせていたりする。そういった競争社会が要求する教育のあり方なのだし、競争社会で生きる親たちが子どもたちをしつけ、環境をコントロールし、教育方針を作って歩ませることになっている。競争社会であることを肌にびしびし感じながら働いている高SES層の親ならば、子どもにそういった世界に出るための用意や教育をさせるだろうし、比較的末端の仕事についていることが多そうな低SES層の親ならば、世の中は世知辛いものだと思いはしているだろうけれども、比較的あまり競争社会の芯の部分を知らずに働いているので子どもの将来や育ちかたへのヴィジョンもゆるくなりがちかもしれない。そこにはまた、地域格差というものもあるのだけれど。
だから、教育を変えるには社会に大きな変化が起こることが条件なのだと思う。そうではない教育改革は、教育を根本から変えることはできない。つまり、格差は無くならないのではないか。悲観的な見方だけれど、僕にはそう思えました。
本書の主張では、子どもたちが「生まれ」に関係なくもっているのびしろを存分に伸ばせる教育が望まれ、その結果、進学率が伸びて社会にも「民度の向上」のようなかたちでポジティブな影響がでる、また、個人としても高学歴の方が収入が多いこともあり幸福感が高まる、というようなものだと読み受けました。しかし、やっぱり世界は自由競争の社会ですから、高学歴の者たちの間で格差が生じるだろうと思える。また、幸福感についても、学歴が高いほうがいい、という価値観が絶対的に正しいとする見方が本書では暗に貫かれているような気がしましたが、そうではない生き方でも生きていける社会のほうが豊かだとも考えられます。
本書には、以前行われたゆとり教育の失敗した部分ばかりを述べて、これは失策だったとするところがあります。高SES層の子どもたちが私立に流れて「生まれ」の教育格差が広がった、だとか、低SES層の子どものなかには、学歴競争から自ら降りた者がでてきた、などがそれです。でも、新たな発想や価値観を持つ世代が生まれる土壌として機能する可能性のある教育方法だったのではないかと思えるし、おおらかに自分のやりたいことをみつけて邁進するにもいい教育方法だったのではないか、とも思えるところがあるのです。
たとえば、ゆとり教育をやるならばその前提として、まず自律を促すことは徹底してやって、その上でゆとりをする、など、改善策は考えられると思います。私立に流れて教育格差が広がる、などを調整しようとしても、格差は無くならない。ならばいっそ、自分のやりたいことを見つけてその分野で一流になることで学歴一本軸の社会の価値観に大きな波紋を起こす、波紋どころか大波を呼ぶ、みたいな方向で考えたほうが格差ってなくなるのではないか。価値基準が一本軸だからよくないんですよ。勉強が出来た出来ないだけで考える人っていうのは、そういう世界しか知らないからです。そんな硬直した世界を攪拌するには、やっぱり、バージョンアップしたゆとり教育的なものって効果があるような気が僕にはしますね。ゆとりといいつつ、自分の目指す方向が定まれば、一心不乱にとりくめる体制が構えてあるといい。そういうのが理想です。つまり、三段構えで。「自律心を身につける→ゆとり→興味を持った方向に寝食を忘れるくらい取り組んでよいとする」はどうなんだろう。パッと出たようなアイデアですが。
教育だけをいじくるなんて、そこはもう袋小路でしょう。もっとダイナミックで、あえての密度の低さを活かす方策のほうがたぶんいいです。偶有性のある社会、つまりカオスを含んでいるからこそ、どのポジションにいたとしても、それぞれにそれぞれの希望の方向が見えるというのが望ましいです。
『教育格差』 松岡亮二
を読んだ。
裏の帯にこうあります----<「緩やかな身分社会」この国の実態。>
教育格差についてざっくり言うと以下のようになります。父が大卒の子は大学進学率が高い。そして大学進学率には地域格差・学校格差もしっかりある。父大卒と関係ある条件だけれども、経済的に恵まれて幼少時から習い事をしていると大学進学率が高い。親の、教育に対する肯定的意識の多寡も子の進学に影響するのでした。
個人的には、これらはでも、未就学時点ですでに薄く感じていましたよ。習い事したいなあって思う動機のなかにはこういうことを察している部分がありました、振り返ると。
教育システムは選別機能を持っている。社会自体もそれを望んでいる。たとえば商品に、信用に基づいた値札がついていなくて自分で価値判断しないといけなければ大半の人は困る。だから値札を付ける。同様に、人間にも学歴が値札の代わりとなり、社会が回りやすくなる。
これはわかるのだけど、それ以上に、そんな選抜機能で人間の何がわかるのだ、と僕は憤りを覚えてしまうんですよね。彼、彼女の何をわかるっていうんだ、僕のなにを知っているっていんだ、というようにです。学歴などは便宜的なものだということをもっと意識したほうがよくないですか。
人を、つかえる、だの、つかえない、だのと都合に合わせて選別するのも嫌なものだと感じるほうです。不景気が長く継続している点で、大半の日本人は使えない、と選別されておかしくないようなもんですよ。それなのに得手か不得手か、優秀か並か、速いか遅いかだとかで劣ってる方にやけに不寛容ですからねえ。
学歴獲得競争としてしか、基本的には小学校・中学校・高校の期間に意味はないというのが教育を本質的に見る態度だとしても、それを要求するのは社会や国家です。競争結果からの格差が次世代の「生まれの格差」となり定着していく。しかも格差は拡大しやすい。格差があれば差別も生まれる。……自由経済のシステムや価値観の産物の負の側面にこういうところがあります。
では、引用していきます。
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制度上、誰に対しても機会が開かれているということは、全員に同じ機会が現実的に付与されていることを意味しない。(中略)「制度上は可能」であるとか「誰にでも機会は開かれている」という言葉は「(可能なのだから後は)本人(の能力と努力)次第」というメッセージを含意するが、実際に「上昇」した個人の出身家庭は恵まれた階層に大きく偏っているのが現実である。(p70)
__________
→父が大卒かどうかなどの「生まれ」によって、個人の進学率が異なる傾向が顕著にでているのが日本の社会の現実なのでした(とはいえ、格差は他国と比べても同じようなものです)。父が大卒あるいは両親ともに大卒であるような高SES層(SES=社会経済的地位)の家庭で育つと、家庭単位での教育熱が低SES層とは違い、教育に対する信用は厚いし、大学進学への希望の度合いも違っています。これは子どもが未就学の時点でもうその差として現れてくる。幼稚園、習い事、そして家庭での親からの教育(高SES層は意図的教育、低SES層は放任的教育といった違いの傾向もある)によって、もうすでに学習能力に差がつきはじめる。
上記の引用部分は、義務教育の教科書検定や学習指導要領などが全国で統一されていること、受験資格に生まれや男女の差別はないことなどから、誰でも這い上がっていけるための教育、ひいては開かれた社会であるのだとしてしまうとそれは間違いだ、と述べているのでした。このほかに、地域格差があり、男女の格差があります。高校までくるとランクがあるので、そこでも格差が拡大していきます。
__________
ここでいう「質」とは人間としての価値ではない。あくまでも現行の学歴獲得競争と親和性があるかどうかだ。小学生であっても同級生の大半が「大学は(いつか)いくもの」と考えていれば、個人(親の)SESがどんなものでも、大学進学が集合的「規範」となり得る。これは「隠れた(潜在的)カリキュラム」(hidden curriculum)と解釈できる(p135)
__________
→非認知的ともいえる、学校からの子どもへの影響について述べている箇所ですね。子ども同士が影響し合うので、友達がどういった意識を持っているかがポイントになってきます。そしてそれは学校の校風などから影響を受けているものです。大学は行くものだ、と進学意欲をはっきりもっている子どものほうが、進学率は高いというデータが出ていて、であるならば、上記引用のような影響はポジティブに作用します。
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目に見える範囲の平均(「みんなと同じくらい」)で走っていても、その集団そのものが全体の中でトップ集団であったり、すでに平均からも引き離された集団であったりと大きく違うのだ。学力偏差値の意味合いもよくわかっていない中学生にとっては、学習行動や大学進学のような「規範」についても自治体や全国の中でどのような位置にいるかは考えたこともないだろう。中学生の目線で「世界」の大半を占める「みんな」に合わせているうちに進学校にたどり着く生徒もいれば、大学進学する生徒が珍しい高校に入学することになる生徒もいることになるのである(p191-192)
__________
→学校によって、地域によって全然違うんだっていうことですよね。「どのような位置にいるかは考えたこともないだろう」なんて書かれていますけれども、僕の育った田舎では、学校のレベルが大したものではないので、もう少し大きな都市の学校へ転校したり、高校進学のときに地元を離れたりするべきだ、という考え方が一般的でした。僕も中1の家庭訪問のときから高校は地元を離れてはどうか、と勧められました(ただ僕の場合はそれが、そのころ暗雲の立ち込めてきた家庭環境にさらに風を吹かせることになったんですよねえ、まあ、それはいいとして)。
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日本では、SES下位16%で学力上位16%(偏差値60以上)となる割合は6%と低いが、学年人口が約120万人なので、実数としては1.2万人前後いることになる。「誰にでも機会は開かれている」という主張を裏付けようと、意図的に多くの「低SESで高学歴の生徒」を実例として集めることは難しくない。無論、数多くの珍しい実例をかき集めたところで、代表性のあるデータが示す傾向の反証にはならない。(p250)
__________
→低SESの学生は不利なのに、まるで機会は平等であるかのように見せることは簡単にできるということですね。情報操作できてしまうし、みんなも信じてしまいがちかもしれません。
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「みんな」が学習指導要領準拠の教科書で学び、似たような桜並木と入学式、同じような種目の運動会、合唱や証書の授与を含む卒業式という演出があれば、機会が「等しく」与えられたという幻想を事実として認識する人が増えても不思議ではない。「平等な機会」が付与されているのであれば、最終学歴・職業・収入・健康などあらゆる社会的に構成される「結果」は個人の責任となり、社会福祉政策は「能力」の低い「弱者」に対する「お情け」となる。(p267)
__________
→「生まれ」による格差は、小学校でも縮まることなく、それどころか拡大していく傾向があります。また、地域格差、学校格差もあるなかで、しかしながら表面上はいっしょであるために不平等が見えてきません。だから、「自己責任」なんて言われてしまいやすいのですけれども、その「平等な機会」はまやかしであることをはっきりと言ってくれた箇所でした。
とというところですが、最後に。
ミクロにマクロに教育格差のメカニズムが解説されている。でも、どんなに教育格差を教育の分野で是正しようとがんばっても、社会から競争がなくなるわけじゃないし、であるならば「生まれ」の格差がなくなることもない。教育システムの枠内にさまざまな問題があり、いくつかの問題と紐づいていたりしているケースでも、すべてをしらみつぶしに解決したつもりでも、社会システムという外からの力でほぼそれらはうまくいかないと僕は思うのです。世界は自由競争経済(マネーゲーム)というメカニズムの上に乗っかっており、商売は競争に勝ってこそ大きな利益があがるので、その競争性は必然的に苛烈なものとなる。いちおう労働のルールは設けても、労働時間を長くして競争に勝とうとしたり、効率化を進めて競争に勝とうとしたり、ルールのぎりぎりのところやグレーのところで無理や無茶を課しながらよそよりもなんとか一歩、いや半歩でも出し抜こうとして目を血走らせていたりする。そういった競争社会が要求する教育のあり方なのだし、競争社会で生きる親たちが子どもたちをしつけ、環境をコントロールし、教育方針を作って歩ませることになっている。競争社会であることを肌にびしびし感じながら働いている高SES層の親ならば、子どもにそういった世界に出るための用意や教育をさせるだろうし、比較的末端の仕事についていることが多そうな低SES層の親ならば、世の中は世知辛いものだと思いはしているだろうけれども、比較的あまり競争社会の芯の部分を知らずに働いているので子どもの将来や育ちかたへのヴィジョンもゆるくなりがちかもしれない。そこにはまた、地域格差というものもあるのだけれど。
だから、教育を変えるには社会に大きな変化が起こることが条件なのだと思う。そうではない教育改革は、教育を根本から変えることはできない。つまり、格差は無くならないのではないか。悲観的な見方だけれど、僕にはそう思えました。
本書の主張では、子どもたちが「生まれ」に関係なくもっているのびしろを存分に伸ばせる教育が望まれ、その結果、進学率が伸びて社会にも「民度の向上」のようなかたちでポジティブな影響がでる、また、個人としても高学歴の方が収入が多いこともあり幸福感が高まる、というようなものだと読み受けました。しかし、やっぱり世界は自由競争の社会ですから、高学歴の者たちの間で格差が生じるだろうと思える。また、幸福感についても、学歴が高いほうがいい、という価値観が絶対的に正しいとする見方が本書では暗に貫かれているような気がしましたが、そうではない生き方でも生きていける社会のほうが豊かだとも考えられます。
本書には、以前行われたゆとり教育の失敗した部分ばかりを述べて、これは失策だったとするところがあります。高SES層の子どもたちが私立に流れて「生まれ」の教育格差が広がった、だとか、低SES層の子どものなかには、学歴競争から自ら降りた者がでてきた、などがそれです。でも、新たな発想や価値観を持つ世代が生まれる土壌として機能する可能性のある教育方法だったのではないかと思えるし、おおらかに自分のやりたいことをみつけて邁進するにもいい教育方法だったのではないか、とも思えるところがあるのです。
たとえば、ゆとり教育をやるならばその前提として、まず自律を促すことは徹底してやって、その上でゆとりをする、など、改善策は考えられると思います。私立に流れて教育格差が広がる、などを調整しようとしても、格差は無くならない。ならばいっそ、自分のやりたいことを見つけてその分野で一流になることで学歴一本軸の社会の価値観に大きな波紋を起こす、波紋どころか大波を呼ぶ、みたいな方向で考えたほうが格差ってなくなるのではないか。価値基準が一本軸だからよくないんですよ。勉強が出来た出来ないだけで考える人っていうのは、そういう世界しか知らないからです。そんな硬直した世界を攪拌するには、やっぱり、バージョンアップしたゆとり教育的なものって効果があるような気が僕にはしますね。ゆとりといいつつ、自分の目指す方向が定まれば、一心不乱にとりくめる体制が構えてあるといい。そういうのが理想です。つまり、三段構えで。「自律心を身につける→ゆとり→興味を持った方向に寝食を忘れるくらい取り組んでよいとする」はどうなんだろう。パッと出たようなアイデアですが。
教育だけをいじくるなんて、そこはもう袋小路でしょう。もっとダイナミックで、あえての密度の低さを活かす方策のほうがたぶんいいです。偶有性のある社会、つまりカオスを含んでいるからこそ、どのポジションにいたとしても、それぞれにそれぞれの希望の方向が見えるというのが望ましいです。