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『恐怖と不安の心理学』

2024-12-09 23:54:41 | 読書。
読書。
『恐怖と不安の心理学』 フランク・ファランダ 清水寛之・井上智義 監訳 松矢英晶 訳
を読んだ。

著者はニューヨークで開業している心理療法士です。セラピー現場での経験と、学んできた知識とがうまく融合したような知見が語られていて、とてもエキサイティングな読書となりました。

心理学や精神医学分野の読書感想ではそうなることが多いのですが、今回も勉強モードでの長文レビューとなります。今回はより箇条書き的なレビューですが、ご容赦ください。後半部はいくつか引用をまじえながら書いていますので、まずさらっと知りたい方はスクロールしてそちらから目を通してみてくださるとわかりやすいかもしれません。



暗闇という状況に恐怖を感じるように、人間はできています。それは原始の頃から。夜行性の肉食動物に襲われる危険がありましたし、それでなくても、歩けば足を踏み外してケガをしてしまったり、どこかに体をぶつけてしまったりしがちでした。それゆえのこういった恐怖は、脳の深いところで発生するらしいです。まだ下等生物だった頃からの機能としてあったそうです。

それでこんな心理実験が載っていました。何枚かの写真を被験者に見せるというのがその実験で、写真にはそれぞれ別々の人が写っており、被験者はそれぞれにどのくらい危険を感じるかの印象を答えるというものです。これを、実験する部屋の明度を低くして薄暗くした中で行うと、写真に危険を感じる度合いが増すそうです(まあ、影が射して、人相が悪く見えるだろうなあとは思いますが、そもそもそれこそが、そういったかたちでの「闇」による心理的影響と言えるものかもしれません)。

不安症の人などは、部屋を明るくして過ごすといいのかもしれないですね。電気代がかかるからと、不安性的な貧困妄想の人もいますけれど、そうやって薄暗い中で過ごしがちだとさらに不安度は増していくのでしょう。(あと別な話ですけど、薄暗い中にいると眼圧が上がりますから、明るくすることで緑内障のリスク減にもなったりします)



一方と他方を結びつける「比喩」は想像力を使う行為ですけれども、そうして比喩を使うことによって培った想像力の作用で、他者の心を慮ることができるようになる、という本書に書かれた気づきは見事です。心はそうやって発達していった、すなわち比喩の能力が心を作っていったとする理論でした。他者の心ってわかりません。でも想像はできます。そしてそれは比喩的なもの、とする考え方でした。こうして思いやりや同情が生まれ、かたや、嫉妬や裏切りも生まれました。なかなかに説得力があります。



空っぽな心を感情で満たしたい、喜びでも怒りでもいい、という欲求があってセラピーを受けにきた患者が、パートナーへの怒りを表出し心をそれで一杯にしているシーンがありました。怒りの奥には悲しみがあり、つまり悲しみや裏切りへの傷つきを怒りにしていた。これらの気持ちを自分で許容できるようになれば良い傾向だそう。

怒りを伴って表れる世代間連鎖の暴力も、もしかすると幼少時の満たされなかったりした悲しみや傷つきがその奥にあるのかもしれません。また、介護が必要になった伴侶への怒りと暴力も、その奥には伴侶の状態への悲しみとともに、自分だけが残された悲しみ、寂しさ、傷つきがあるのかもしれないなあ、と思い浮かびました。

こういう視点で、修復的正義の介入って望めないものなんでしょうか。暴力があると相談したら「はい、分離します」じゃなくて。この方面でのマニュアルがまだないでしょうし、ということは前例もないわけで、進んでいかないというのはあるのではないか。



ここからは引用をはさみます。まずひとつ目。
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意識化されない心(無意識)を、フロイトは疑いの目で、ユングは希望の目で眺めた(p118)
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→フロイトは無意識を、ジキルとハイドの、凶暴な二重人格のほうのイメージに近い、抑圧への反発といった捉え方をし、ユングは無意識のなかに眠る、心の自己治癒能力の存在を感じていました。

フロイト理論は20世紀を超えなかったけれど、この理論を用いていたときの精神分析とは「心の闇をのぞき見よう」とする行為といったイメージがあります。そうやって症状の原因を知り解決へ導いていく。このやり方だから恐怖を感じるのでしょう。それでなくとも、自分と向き合うことが怖いという人が多数だそうです。いまや、こういった自分の内部にダイブするようなものに近い手法を使うのは一部の小説作家のみなのかも。

心理療法は認知行動療法の時代に入りつつあるというような印象の文章が書かれていました。認知行動療法は、考え方や意識感覚に働きかけてよくない症状をなくしていこうというものなので、心の闇を見つめなきゃという恐怖を感じなくていい療法です。まああえて苦手なことをさせる暴露療法なんかもありますけれど。

だから、もっと認知行動療法が周知されて、問題行動のある人が心理療法を怖がって受けないでいて周囲を苦しめ続ける(そして自分も苦しみ続ける)ことが減っていって欲しい、と僕なんかは思うのです。怖くない心理療法なんだ、って多くの人に知られると、このあたりは変わってくるのではないか。


次はトラウマからの世代間影響の話を。人がはねられる交通事故を見たことがある親がそれをトラウマとして持っていると、子供と交差点を渡るとき、手を固く握りしめたりするなど、過度に制御的になるという。そしてこういった場合、人生全般においても過度に子どもに対して制御的になる、と。過保護もこの範囲にあるでしょう。

そうして子供はどうなるかというと、子どもは脅威評価を親の振る舞いから学び取るので、過度に制御的に扱われると脅威評価という主観的なものが歪む。つまり、個人のセキュリティシステムのメインの軸に欠陥ができてしまう、と。

セキュリティシステムの欠陥によって、四六時中の過剰警戒状態になってしまったりするそうです。なおかつ本書の例では、母親が鬱病かつ表情を読めないタイプだと、子供は成人した後も自分の願望や欲求が意識にない状態になってもいました。心の奥にしまい込み鍵をかけた状態になるんです。要は他者に過剰同調するためなのですが、感情の分からない母親を優先して自分を合わせてしまう経験が続くことでそういった心理機構ができあがってくるんだと思います。

それでもって、こういう本を読みながらだとセルフカウンセリングになりやすくて、自分の場合はどうかなと内省することにもなるんですよね。僕の、ストレスによる頻脈は、過剰警戒の証左ではないか、など浮かんでくる。母親は僕が子供当時、あまり表情が読めなかったし、すぐに不機嫌になったし、本の例に適合するところがありました。

話は戻り、子どもの心理傾向ですが、遺伝、環境の両方が言われるなか、親に似ているところは親の振る舞いから学んでいたり、親自身の脅威評価からくる制御、すなわち価値観の押し付けが似せさせる面があると本書から学んだのでした。で、過保護、過干渉という制御が子どものセキュリティシステムを歪めてしまう、と。

ということは、親が強迫症で過保護、過干渉や強制や支配がきついと、子どものセキュリティシステムが歪むということになります。でも、親自体もセキュリティシステムが部分的にあるいは全体的に歪んでいるのは確かで、そっちはトラウマ経験から来たのか、親(子どもにとっては祖父母)からの制御がきつかったからかは、当人しか分からなそうではあります。

過保護・過干渉でセキュリティシステムが歪むと過剰警戒、過剰同調になるということです。人に気を使いすぎて集団の中では疲れやすい人、表情や機嫌を読み気遣うことにエネルギーが取られて仕事に能力を発揮できない人はこういった育ち方をしているのだろうと読み解けると思います。実は僕もこのタイプ。



自らの感情の動きを見つめてちゃんとわかることは大切で、セラピーでもそうするようクライアントに言っているがありました。たぶん、これは基本なんでしょう。で思ったのが、自分の感情への感知力が低い人は、そんな自分でも感知しやすいように大げさな振る舞いをするではないか、ということ。仮説です。細やかじゃなくても、感情を知るという心理療法的な対応できますから。ただ、他者からすれば、大げさなのはやかましかったり、ときに迷惑になったりします。とくに日本人は静かだといわれるのが思い浮かびます。アメリカ人や中国人は声が大きくて、アクションも日本人からしたらオーバーです。それは、感情をわかりやすくして、自分の感情をよくしるための無意識的な防衛戦略なのかも、とちょっと思ったのでした。

さて、僕はちょっと短編を書いたりしますけれども、小説を書くことの治療効果は、こういった、心理の動きを追うこと、さまざまな感情の発生を見逃さないことが、原稿に登場人物の心理を書き込んでいくうえで欠かせないことですから、その大きな副産物としておそらくあるでしょう。創作って、こういった面からも、おすすめですね。

自分の中で沸き起こる感情をわかるには、自分に素直であればいいんです。体面を重んじる人や虚勢を張りがちで人に自分をよく見せたい人は、自分に対して偽るので、なかなか自分に素直になれないでしょう。くわえて、偽った自分を本当の自分のように思い込んだりする自己暗示にもかかると思うんですけど、どうでしょうね?

とはいえ、誰でも自分をよく見せたいから、素直になるのが思うよりずっと難易度が高くなるものなんです。素直になれたりなれなかったりを繰り返しながら、自分としてのベターをやれれば及第点なのかもしれない。

過去の経験や外的な事情で心理が硬くロックしている場合ですとなかなかうまく素直になれないでしょうから、少しずつ自分の感情を思うようにして、解きほぐしていく方法をとることになるのだと思う。セラピーで、感情を自覚するように促していっているケースが、本に書かれています。またここでおすすめしたいのが、心理描写の細やかな小説を読むことです。たとえば辻村深月さんの書かれる小説は、こういった面でとてもよさそうです。



では、また引用を。ふたつ続きます。
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動物の生活から遊びが欠落すると幸福感も減退する。人間の場合はさらに、遊びが欠落あるいは抑制されると、より重大な心理的機能不全につながることがわかっている。そこで遊びが抑制される原因を探ると、恐怖がその主犯として浮かび上がる。(p33)
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「子どもや成人それぞれが創造力を発揮でき、そして自分のパーソナリティのすべてを使うことができるのは遊びのなか、唯一、遊んでいるときなのである。そして創造的であるときのみ、人は自分自身を発見する。」(精神分析医 D・W・ウィニコット p156)
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→遊ぶ人こそ自分がわかる、ということです。恐怖が遊びを制限させる、というのは、公園で危険だと認定された遊具が撤去されたり、「危ないからそっちへいくな」と制されたりすることでわかると思います。しかしながら、危険を感じる遊びで、人は学び成長もするようですし、引用にもあるように、創造的になって、自分のその時点での身の程も知れるということです。



次の引用は、暴行による影響のメカニズムです。
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当然のことだが、この種の麻痺状態を経験した性的暴行の被害者は、自分に起こったことを恥と感じる。このひどい出来事を止めることができなかったこと、責任感、これほどの侮辱を受けたあとには当然生じる自分が無価値だという感覚、これらのすべてが恥の基盤となる。この神経生物学的方略に付随する恥の思いが、性的暴行の犠牲者が名乗り出て事件の話をしたがらない理由として引き合いに出される。自由の喪失、虐待を止めることができなかったために感じる無力感、個人の主権を犯されたという経験、これらがすべて一緒になって犠牲者に、自分は人間以下だと思わせる。(p43-44)
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→性的暴行による被害の酷さがどういうものかがわかる箇所です。ただ、自由の喪失、虐待を止められなかった無力感、個人の主権を犯された経験、というのは、性的ではない虐待でもあるでしょう。これらが自尊心を損なわせることになります。自尊心が低いとつよい不安を抱えやすくなると、僕は近しい人を見てそう理解しているのですが、これはなかなかに厄介で、そこから自制心が弱くなって暴力に繋がることは珍しくないのではないか、と考えています。



次は不安症について。
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不安という名前でくくられてこの統計のなかに(成人の1/3の人が一生にどこかで不安に悩まされるという統計のこと)含まれる障害には、恐怖症、強迫性障害、パニック障害、心的外傷後ストレス障害などがある。治療しないままこれらの障害が進行すると、患者は病の前に無力となり、犠牲者となる。自らの人生に向き合うこと、自尊心、自己決定のすべてが減退するようになる。(p89)
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→不安症を放置しておくと進行していって、そうなると自尊心も決断力も弱くなっていき、様々な問題を先送りしてしまう流れに乗ってしまいます。このことは想像に難くないのではないでしょうか。これがひどいと、家族間のコミュニケーションがうまくいかない問題なども棚上げしたり、精神面での不安定さや抑えられない衝動的な怒りを繰り返すのを放置したり、自尊心の低下ゆえに粗探しや揚げ足取りをして他者のポジションを低めて相対的に自分のポジションが高くなったことを確認することで自尊心を保とうとしたりします、これも近しい人を見ていての見解です。そして、先送りがほんとうに酷いと、自分の寿命が来るまで、対処せずに逃げ切ろうとします。自分の暗闇と向き合えば、苦しみを克服できるのに、そうせず、苦しんだまま長い時間を過ごすことを選んでしまう。そればかりか、周囲の人をも苦しめてしまいます。

権力やお金を手に入れて、自分が脆いという感覚を遠ざける力とする行為があります。でもそれで得られる安心は擬似的なものなので、安定は得られず、本当の自分から遠ざかることでもあるため、苦しみは増していくといいます。そうして、その結果、ますます脆い自分から生じる不安のために、ますます困った行動をとるようになってしまう。

自分と向き合って、暗闇を知っていきそれと対峙して乗り越えたり受け入れたりすることで、精神的な健康が得られるといいます。権力や地位、金銭で補強する行為は自己を肥大させ、本当の自分を遠ざけてしまうんです。なんだか、老害を起こす人の核心を見たような気持ちになります。

このあたりについての引用も下に。

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比喩的に言えば、壁を築き、私たち自身の一部を地中に埋めてしまい、あるいは走って逃げることだ。だが、私たちの内面で起こっているものは相当に厄介な問題をはらんでいる。私たちの心は、記憶とのつながりを断ち切り、望まないものを仕切りで隔て、パーソナリティをいくつもの小さい部分に分割する能力をもっている。そして、こうした防衛行動が慢性化すると、満たされた幸福な状態の自分を回復するのは非常に難しくなる。(p127-128)
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→心の苦痛や苦悩が脅威となって、上記のような防衛行動を取ってしまうということでした。しかしながらそれは、自分自身に背を向けることであり、心を失うことでもあるのです。だから、苦痛や苦悩と向き合うことが、それらを克服するために必要だということになります。心の問題って、こういったパラドックスになっているのでした。

さらにもうひとつ、関連した引用を。
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だが、セラピストの仕事をしてきてわかったのは、私たちがもっとも恐れる精神的苦痛に敢えて飛び込み、通り抜けるのが、回復への道だということである。たぶんこれが(本書での)最後のパラドックスであり、理性的な脳では解決されないものである。(p233-234)
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→前述のように自分自身と向き合うのは多くの人にとって恐怖だといいます(僕にとっては疲れるものだという認識のほうがあります)。でも、敢えて飛び込むのが正しい道だと著者は言っています。昔読んだ「他人への怒りは全部かなしみに変えて自分で癒してみせる」という枡野浩一さんの短歌を覚えているのですが、内面化された怒りを自覚して、その源へと還元して対処してることに、今思うと震えそうになります。



恐怖が転じて虐待を生む、その虐待は恐怖を生む、という繰り返しで、虐待行為は世代間伝承トラウマとも呼ばれる伝染現象としてずっと人間の中に伝わり続けるとのこと。

そんな悠久の流れである負の濁流を、最後の子孫が防波堤となろうとすると、ものすごい圧力にバラバラになりかける、あるいはバラバラになっておかしくないものだと思います。この負の連鎖に自分が取り込まれないように気をつけつつ、さらに親世代に抵抗をしつつ、濁流をできるだけ浄化して次の世代に託すイメージで、僕なんかはやっていきたいほうです。そして、巻末のエピソードでは、この世代間伝承を食い止めた人がでてきて、それは勇気と希望を与えてくれます。

世の中なんて変わらないという人からすると、いや、世の中ちょっとは変わるという人からしてみても、自分が担い手となり流れを変えようとするのは他者には誇大妄想に映ってもしょうがないかもしれません。でもやるんだ、ってことに落ち着くものなんです、不思議と、なんだか。実存主義的にそうなるんでしょう。

そして、これ↓
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社会変化は社会を構成する個人の集団的心理状態に依存している。(p176)
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→僕の考え方も一緒なのでした。政治は大事でしょうが、政治家に任せていればいいってわけでもないんです。



というところで、最後にひと段落残して終わります。とてもよい本でしたが、力量的にまとまらなかったので、そこは諦めて、もうひとつ感じたことを書いて締めます。



比喩的な意味で、暗闇は恐怖で、光は安心を意味します。だから、光ですべてを照らしてしまえばいいとする考えは一般的です。本書にありますが、完璧に光で照らせば解決するんだ、という姿勢です。正しい行いを貫徹すればいいのだ、と。しかし、光あるところに必ず影ができるように、光が暗闇を作ってしまいます。正義の名のもと、拷問がおこなわれ、プライバシーが侵され、古くは魔女狩りや悪魔祓いが行われてきた、と著者は説きます。どこまでも暗闇を根絶しようとがんばるのは、そうすることで恐怖は無くなると信じているからです。これらについて本書には、はっきりとした解決策は書かれていません。そこで僕が出しゃばりますが、前に書いた小説で暗闇を取り扱ったとき、仏教の教えを採用して、暗闇というものそれは影でもあるものだから、と考えました。どうやっても影はついてくるものですから、それならば、もうそのことは諦めて受け入れることが最善ではないか、と。生き物とは、そういった負い目のある存在だと受け入れる。そう考えた上でならば、許し合えそうな気がするんです。できうるかぎりの善、それは押しつけの善ではなく、個人の範囲でそういった善を為し、誰かに働きかけるときはおずおずと慎重かつ下からの態度で。それが、影を持つ存在だと自覚したことで取ることのできる行動様式なんじゃないだろうか、と。このあたりは、ネット上の誹謗中傷ってすごいな、と感じたことがきっかけで考えたことでした。


とりとめがないですが、これにて終了です。ぜひ手に取っていただきたいなあと強く願う本でした。著者陣GJ!




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