今は、仕事が一段落した時だから、時間に余裕がある。
スポーツジャーナリズムについて検索していたら、少し古い記事に行きあたった。
フィギアスケートの世界選手権の記事である。
スポーツジャーナリストの菅谷齊氏が書いたものだ(私としては初めて聞く名前)。
これが、読み進むうちに、余りにもお粗末な記事だったので、呆れた。
おそらく氏は、フィギアスケートに詳しくないのではないだろうか。
文章の全体を覆うのは、ごく一部の人にインタビューして、安易で空虚な文章でまとめたという典型的な「やっつけ仕事」感しかない。
長い文章なので一部抜粋だけにとどめる。
まず、安藤美姫が言ったとされる「自分のスケートのスタイルを変えずにやってきた。それへの神様のご褒美かな」ということに関してのひとつのエピソード。
五輪女子マラソンでメダルを獲得したとき「自分で自分を褒めてあげたい」と言った有森裕子の言葉を思い出させた。ここ3年ほど低迷していただけに感慨はひとしおだったようだ。
有森裕子は「自分で自分を褒めてあげたい」とは言っていない。
「自分で自分を褒めたい」と言ったのである。
彼女が、49.195キロを走りきった心象風景を、体の奥からほとばしらせた言葉として有名な言葉だ。
このとき、有森裕子は、「あげたい」という思い上がった表現はしていない。
奥ゆかしく「褒めたい」と言っているだけだ。
完全燃焼したアスリートの尊厳を「一言一句間違えずに伝える」のが、スポーツジャーナリストの務めなのに、それをおろそかにするのは怠慢以外の何ものでもない。
ショートプログラムでのキム・ヨナの演技について。
やはりキム・ヨナの演技は際立っており、「さすが世界No.1」の声が高かった。
これは、プロの審査員が採点したのだから、キム・ヨナのSP一位は、文句を付けても仕方のないものとは思うが、私の個人的な見解では、これは五輪の金メダリストに敬意を表したものに思える。
キム・ヨナ選手にしては、不本意な出来だったのではないだろうか。
決して「さすが世界No.1」の滑りではなかった。
その演技は、決して際立ってはいなかった。
菅谷氏は、本当に試合を見たのだろうか。
ここ2、3年、日本の女子フィギュアスケートは、ずっと浅田真央が第1人者のように扱われてきた。安藤は確かに2007年から2009年まで勝つことから遠ざかっていた。
安藤が、浅田真央の後塵を拝していたのは事実。
ただ、揚げ足取りになるが、安藤は、2009年に優勝している。
安藤の不振を強調するためには、無勝利としたほうが都合がいいのだろうが、事実は正確に記すのがジャーナリストの務めである。
そして、文章の締めはこうなる。
大会中、東日本大震災の被災者に向け「元気を与えたい」と勝負に臨んだ。プロ野球で仙台を本拠とする星野仙一監督率いる楽天イーグルスは「野球の底力を見せよう」と激励したが、安藤も思いは同じで、さしずめ「女の底力」を示したといえる。
読むと一見普通の文章に思えるが、「野球の底力を見せよう」という意味と「女の底力」を示した、という意味はリンクしない。
この場合、「野球の底力」は、激励の意味を込めた言葉である。
しかし、「女の底力」と表現したら、普段秘められた力が大事な場面で出る、という意味だ。
ここで、二つの「底力」を掛けるというのは、文章作法として、おかしい。
私は、安藤が実力でもぎ取った偉業を「女の底力」と表現する安っぽさに、三文ゴシップ記事の臭いを感じる。
そして、さらに私が三文ゴシップの臭いを感じたのは、小見出しに「■視聴率でもロイヤル・ウェディングに勝つ」と「■『イケメン』コーチが『精神面の支え』」という、まるで品のないタブロイド紙のような表現を使っているところだ。
スポーツを「ゴシップ」というくくりでしか表現できないスポーツジャーナリズムは、邪悪だ。
菅谷氏は、絶対にスポーツを愛していないと思う。
スポーツジャーナリズムについて検索していたら、少し古い記事に行きあたった。
フィギアスケートの世界選手権の記事である。
スポーツジャーナリストの菅谷齊氏が書いたものだ(私としては初めて聞く名前)。
これが、読み進むうちに、余りにもお粗末な記事だったので、呆れた。
おそらく氏は、フィギアスケートに詳しくないのではないだろうか。
文章の全体を覆うのは、ごく一部の人にインタビューして、安易で空虚な文章でまとめたという典型的な「やっつけ仕事」感しかない。
長い文章なので一部抜粋だけにとどめる。
まず、安藤美姫が言ったとされる「自分のスケートのスタイルを変えずにやってきた。それへの神様のご褒美かな」ということに関してのひとつのエピソード。
五輪女子マラソンでメダルを獲得したとき「自分で自分を褒めてあげたい」と言った有森裕子の言葉を思い出させた。ここ3年ほど低迷していただけに感慨はひとしおだったようだ。
有森裕子は「自分で自分を褒めてあげたい」とは言っていない。
「自分で自分を褒めたい」と言ったのである。
彼女が、49.195キロを走りきった心象風景を、体の奥からほとばしらせた言葉として有名な言葉だ。
このとき、有森裕子は、「あげたい」という思い上がった表現はしていない。
奥ゆかしく「褒めたい」と言っているだけだ。
完全燃焼したアスリートの尊厳を「一言一句間違えずに伝える」のが、スポーツジャーナリストの務めなのに、それをおろそかにするのは怠慢以外の何ものでもない。
ショートプログラムでのキム・ヨナの演技について。
やはりキム・ヨナの演技は際立っており、「さすが世界No.1」の声が高かった。
これは、プロの審査員が採点したのだから、キム・ヨナのSP一位は、文句を付けても仕方のないものとは思うが、私の個人的な見解では、これは五輪の金メダリストに敬意を表したものに思える。
キム・ヨナ選手にしては、不本意な出来だったのではないだろうか。
決して「さすが世界No.1」の滑りではなかった。
その演技は、決して際立ってはいなかった。
菅谷氏は、本当に試合を見たのだろうか。
ここ2、3年、日本の女子フィギュアスケートは、ずっと浅田真央が第1人者のように扱われてきた。安藤は確かに2007年から2009年まで勝つことから遠ざかっていた。
安藤が、浅田真央の後塵を拝していたのは事実。
ただ、揚げ足取りになるが、安藤は、2009年に優勝している。
安藤の不振を強調するためには、無勝利としたほうが都合がいいのだろうが、事実は正確に記すのがジャーナリストの務めである。
そして、文章の締めはこうなる。
大会中、東日本大震災の被災者に向け「元気を与えたい」と勝負に臨んだ。プロ野球で仙台を本拠とする星野仙一監督率いる楽天イーグルスは「野球の底力を見せよう」と激励したが、安藤も思いは同じで、さしずめ「女の底力」を示したといえる。
読むと一見普通の文章に思えるが、「野球の底力を見せよう」という意味と「女の底力」を示した、という意味はリンクしない。
この場合、「野球の底力」は、激励の意味を込めた言葉である。
しかし、「女の底力」と表現したら、普段秘められた力が大事な場面で出る、という意味だ。
ここで、二つの「底力」を掛けるというのは、文章作法として、おかしい。
私は、安藤が実力でもぎ取った偉業を「女の底力」と表現する安っぽさに、三文ゴシップ記事の臭いを感じる。
そして、さらに私が三文ゴシップの臭いを感じたのは、小見出しに「■視聴率でもロイヤル・ウェディングに勝つ」と「■『イケメン』コーチが『精神面の支え』」という、まるで品のないタブロイド紙のような表現を使っているところだ。
スポーツを「ゴシップ」というくくりでしか表現できないスポーツジャーナリズムは、邪悪だ。
菅谷氏は、絶対にスポーツを愛していないと思う。