なぜ、プロ野球に興味がないかと考えてみたら、まず東京ジャイアンツの存在がある。
読売新聞社が親会社だという時点で、私には嫌いになる理由が正当化できる。
あらゆることにゴリ押しすることを好む讀賣。
鼻持ちならない存在だ。
次に嫌いになる理由として、野村克也氏の存在がある。
野村克也氏の選手時代の実績に関しては、文句のつけようがない。
ただ、監督としての野村氏の実績は、ほぼ5割。
順位も、Aクラス12回、Bクラス12回。
名監督の成績ではない。
しかし、巷の評価では「名監督」になっている。
大阪タイガースを3年連続最下位にし、東北イーグルスの4年のうち、3年をBクラスにした監督が、なぜ名監督?
ウィキペディアで調べると、その7年間の勝率は4割4分である。
そして、野村氏がタイガースの監督になる前の3年間の勝率は、4割2分。
野村氏が監督だったときは、4割1分5厘。
下がっているのである。
野村氏が監督をやめたあとの3年間は、5割3分4厘。
1割2分近く上がっているのだ。
野村氏を名監督にしたい人は、野村氏が我慢して若手を育てたから、成績が上がったと言いたいようだが、結果の求められるプロは、その時の成績が全てだ。
公平に、成績で判断すべきだと、私は思う。
イーグルス4年間の成績は、4割5分8厘。
タイガース時代よりは、ましだ。
4分以上、上がっている。
しかし、5割には、程遠い。
イーグルスでは、野村氏の前に、田尾監督が1年やって、その勝率が2割8分1厘。
野村氏の成績は、それよりは断然いい。
野村氏の後のブラウン監督が、4割4分。
野村氏は、その勝率より、少しいい程度だ。
つまり、結果が求められる監督の実績として、野村氏の成績は、どんなマジックを使って評価しても「名監督」のものではない。
しかし、世間と(おそらく)本人の評価は、「名監督」で固まっている。
これは、いったい、どんなマジックを使ったら、そうなるのだろうか。
そう考えていたら、ひとつのヒントになる記事を見つけた。
5月21日のライオンズ対ドラゴンズの一戦に関しての記事だ。
その日の試合は、ライオンズの大勝だった。
13対4でライオンズが勝ったのだ。
その試合で、ドラゴンズの落合監督は、2番手で登板した小熊投手が、打者18人に対し、3本の本塁打を打たれ、3回で7点を失っても代えなかった。
そのことに関して、野村氏が落合監督の采配を評して、こう言ったのである。
「俺と同じことやってんの、落合。代えないでしょ? 僕は11点取られても代えなかった」
そして、「いや、もうゲームを壊しているから。自分で責任を取れっていう。ゲームが決まっちゃっているのに、次出てくるピッチャーの気持ちを考えたら、最後まで責任を取って貰わないと。こんな後に出される方が大変ですよ」「そういうね、恥をかかせるっていう一つの育成法なんですよ。恥をかかなきゃ、本物になっていかない。いい薬ですよ。その辺は落合もちゃんと計算に入っているよね」とも言ったのである。
落合監督が、俺と同じことをした。
落合氏は「名監督」と言っていい実績を持っている。
成績を見ると、勝率5割6分2厘。
7年間で、1位が3回。
Bクラスが一度もないのだから、特筆すべき安定感と言っていい。
較べて、野村氏の最初の7年間の監督時代は、5割1分9厘。
Aクラス5回、Bクラス2回。
プロは、成績がすべて。
現役時代からの落合氏の言動、態度など、私にとっては好ましいものではないが、どちらが名監督か、と単純に成績をもとに考えたら、深く考えるまでもなく、落合氏の方が名監督であることは間違いがない。
落合監督が「俺と同じことやってんの」と野村氏は喜び、過去、自分が投手を見殺しにした自分の采配を正当化する。
現代の名監督が、俺と同じことをやってるから、俺も「名監督」だ。
舌先三寸 = 口先だけの巧みな弁舌。
夜郎自大 = 自分の力量もわきまえず尊大に振る舞うこと。「夜郎」は漢の時代中国の西南部にあった小国の名前。「自大」は自分を大きく見せる尊大な態度。漢の使者がこの小国に立ち寄った際、漢の強大さを知らなかった夜郎国の王が自分の国の力を自慢したと言う故事による。(出典元は『史記』)
つまり、舌先三寸だけで生きてきた夜郎自大の男が、「名監督」と崇められるプロ野球という世界が、摩訶不思議すぎて、私はプロ野球に興味を持つことができないのである。
それに、私ひとりくらい嫌ったとしても、巨大なプロ野球機構は、ビクともしないだろう。
だから、これからも安心して嫌っていられる。
読売新聞社が親会社だという時点で、私には嫌いになる理由が正当化できる。
あらゆることにゴリ押しすることを好む讀賣。
鼻持ちならない存在だ。
次に嫌いになる理由として、野村克也氏の存在がある。
野村克也氏の選手時代の実績に関しては、文句のつけようがない。
ただ、監督としての野村氏の実績は、ほぼ5割。
順位も、Aクラス12回、Bクラス12回。
名監督の成績ではない。
しかし、巷の評価では「名監督」になっている。
大阪タイガースを3年連続最下位にし、東北イーグルスの4年のうち、3年をBクラスにした監督が、なぜ名監督?
ウィキペディアで調べると、その7年間の勝率は4割4分である。
そして、野村氏がタイガースの監督になる前の3年間の勝率は、4割2分。
野村氏が監督だったときは、4割1分5厘。
下がっているのである。
野村氏が監督をやめたあとの3年間は、5割3分4厘。
1割2分近く上がっているのだ。
野村氏を名監督にしたい人は、野村氏が我慢して若手を育てたから、成績が上がったと言いたいようだが、結果の求められるプロは、その時の成績が全てだ。
公平に、成績で判断すべきだと、私は思う。
イーグルス4年間の成績は、4割5分8厘。
タイガース時代よりは、ましだ。
4分以上、上がっている。
しかし、5割には、程遠い。
イーグルスでは、野村氏の前に、田尾監督が1年やって、その勝率が2割8分1厘。
野村氏の成績は、それよりは断然いい。
野村氏の後のブラウン監督が、4割4分。
野村氏は、その勝率より、少しいい程度だ。
つまり、結果が求められる監督の実績として、野村氏の成績は、どんなマジックを使って評価しても「名監督」のものではない。
しかし、世間と(おそらく)本人の評価は、「名監督」で固まっている。
これは、いったい、どんなマジックを使ったら、そうなるのだろうか。
そう考えていたら、ひとつのヒントになる記事を見つけた。
5月21日のライオンズ対ドラゴンズの一戦に関しての記事だ。
その日の試合は、ライオンズの大勝だった。
13対4でライオンズが勝ったのだ。
その試合で、ドラゴンズの落合監督は、2番手で登板した小熊投手が、打者18人に対し、3本の本塁打を打たれ、3回で7点を失っても代えなかった。
そのことに関して、野村氏が落合監督の采配を評して、こう言ったのである。
「俺と同じことやってんの、落合。代えないでしょ? 僕は11点取られても代えなかった」
そして、「いや、もうゲームを壊しているから。自分で責任を取れっていう。ゲームが決まっちゃっているのに、次出てくるピッチャーの気持ちを考えたら、最後まで責任を取って貰わないと。こんな後に出される方が大変ですよ」「そういうね、恥をかかせるっていう一つの育成法なんですよ。恥をかかなきゃ、本物になっていかない。いい薬ですよ。その辺は落合もちゃんと計算に入っているよね」とも言ったのである。
落合監督が、俺と同じことをした。
落合氏は「名監督」と言っていい実績を持っている。
成績を見ると、勝率5割6分2厘。
7年間で、1位が3回。
Bクラスが一度もないのだから、特筆すべき安定感と言っていい。
較べて、野村氏の最初の7年間の監督時代は、5割1分9厘。
Aクラス5回、Bクラス2回。
プロは、成績がすべて。
現役時代からの落合氏の言動、態度など、私にとっては好ましいものではないが、どちらが名監督か、と単純に成績をもとに考えたら、深く考えるまでもなく、落合氏の方が名監督であることは間違いがない。
落合監督が「俺と同じことやってんの」と野村氏は喜び、過去、自分が投手を見殺しにした自分の采配を正当化する。
現代の名監督が、俺と同じことをやってるから、俺も「名監督」だ。
舌先三寸 = 口先だけの巧みな弁舌。
夜郎自大 = 自分の力量もわきまえず尊大に振る舞うこと。「夜郎」は漢の時代中国の西南部にあった小国の名前。「自大」は自分を大きく見せる尊大な態度。漢の使者がこの小国に立ち寄った際、漢の強大さを知らなかった夜郎国の王が自分の国の力を自慢したと言う故事による。(出典元は『史記』)
つまり、舌先三寸だけで生きてきた夜郎自大の男が、「名監督」と崇められるプロ野球という世界が、摩訶不思議すぎて、私はプロ野球に興味を持つことができないのである。
それに、私ひとりくらい嫌ったとしても、巨大なプロ野球機構は、ビクともしないだろう。
だから、これからも安心して嫌っていられる。