まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

戦争と歴史

2015年08月25日 | 日記
歴史は常に勝者によって作られる。歴史とは合意の上に成り立つ作り話に他ならない。 

勝てば官軍。

歴史は戦争に勝った方の立場、論理で作られ、常識になっていくということを言ったいろいろな言葉があります。勝った方とは、実際の戦争だけに限らず、絶対的な経済的な優位性も含まれるように思います。

先日今年の終戦の日が過ぎましたが、依然、日中、日韓(朝)の歴史認識の隔たりが大きく埋まりそうにありません。
日本は、西欧に対しては、太平洋戦争の敗戦国ですが、中国、朝鮮に対しては、戦後、昭和の時代までは、経済的に絶対的な優位に立ってきました。そんな中で、とってきた歴史認識が、今の隔たりの根っこにあるようにも感じます。

日本の技術力等を貪欲に取り込み、今は経済的には、日本を追い越し、彼らが優位に立ちました。
こんどは、彼らの視点での歴史が常識になっていく時代かもしれません。

子供のころから生活の中で歴史教育を行えば、それが常識になり、真実になる。国際的に、圧倒的な経済的優位性ができれば、その国の真実が、歴史になる。

戦争は、政治的には、どちらの側から見ても、大義があり、被害者意識があると思います。

でも、そんな政治的な思惑とは別に、実際に戦っている庶民には、おそらく目の前の苦しい生活と現実の被害しかない。

平和な時には子が親の弔(とむら)いをする。戦となれば、親が子の弔いをせねばならぬ。
とは、どっかで読んだ言葉ですが、庶民にとって、子、若い世代は、『希望』です。戦争は、希望を奪い取り、絶望を押し付けます。

大正末期から昭和一桁生まれの人たちは、太平洋戦争を前線で戦いました。昭和10年代生まれの人たちは戦後を語ることはできても、戦争体験はありません。昭和20年代生まれ以降は、“戦争を知らないおやじたち”です。昭和90年の今年、70歳の人は、戦争の実体験がありません。昭和30年代生まれのあたしには、戦争・戦後混乱期の凄まじさ、悲惨さは、想像もできません。
例年8月近くになると城山三郎さんなどの小説を引っ張り出して読んでみたり、近くの戦争遺跡を訪ねて、間接的に思いを馳せるのがせいぜいです。
戦争だけに限らず、その場を体験したことのない人間は、観念的に分かったつもりになり、同じ間違いを起こしやすい。

個々には面識も、なんの感情もない個人が、血を流し殺しあう戦争は憎しみのスパイラスしか生まないと感じます。

日本人が原爆を使ったアメリカを非難すれば、アメリカ人は、パールハーバーの奇襲攻撃や負けを受け入れず行った特攻攻撃でたくさんの人命がなくなったことを非難するでしょう。
憎しみは憎しみをうみ、出口はありません。
勝者の論理で戦争の歴史は書けても、実際に血が流される生活者の歴史とは違う場合も多い。

争わないのが一番ですが、人間どうもそうはいかない生き物のようです。
戦争の実体験のないあたしにもわかるのは、血を流しても殴り合いまでは和解の余地はあるが、命のやり取りをする戦争からは憎しみしか生まれないということで、たぶんこれは間違いない。

戦争を知らない世代の人間が中心となって、なにかと物騒な話題の多いこの頃ですが、子が親をおくり、お盆などにはささやかでも家族が寄り集まって先祖を偲べる様な平和な社会が続いてほしいと願います。


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