死後感なんて言葉があるのかどうか知らないけれど、死ぬ時の思いというのも随分変わってきました。
もっぱら明治生まれのばあちゃんに育てられたので、青年期までは、死んだら家の墓に入る。自分は先祖代々に繋がっており、死んだら、自分もその位に入るという思いが自然に植えつけられていたように思います。
家というのは、めんめんと続く人の生き様の拠り所であり、今を生きる自分のステイタスだったのだと思います。
わが家は家系もたどれない家ですが、守っていかなければと思ってきたのも事実です。
わが家は家系もたどれない家ですが、守っていかなければと思ってきたのも事実です。
壮年期は、生命力が旺盛で、身近な人が亡くなっても、自分は大丈夫!という変な思い込みが強く、いつかは終るという気持もどこかにはあったのかもしれないけれど、”自分は死ぬわけがない”と思ってきました。
さて、昨今です。
生きていく上で新しく出てきた厳しい問題もたくさありますが、物質的にはとても豊かになりました。
家族はそれぞれに住み、物の豊かさより、心の豊かさが必要な、”個”の社会になりました。
家族はそれぞれに住み、物の豊かさより、心の豊かさが必要な、”個”の社会になりました。
子たちも家を出て、普通なら皆親になっていても不思議でない歳になり、自分だけを考えると、この家(姓)、お墓にこだわる必要も感じません。
生まれるときは、父母、特に母の血肉を分けてもらうわけですが、死ぬときは誰もだた一人です。
家にこだわって死んでいくより、個として静かにフェードアウトしていけばいい。そんなふうに考えるようになってきました。
自分の最期は、セレモニーではなくて、直葬でいいし、お墓に入れなくても許されるなら野山に散骨でいい。
残った人の気持ちの整理のために、ご住職にお経をあげてもらってもいいけれど、自分としてはお経がないからと恨んで出てくる気持ちはさらさらない。
葬式としてお別れしなくても、必要があれば生きている内にこちらからお別れに行く。
残った人の気持ちの整理のために、ご住職にお経をあげてもらってもいいけれど、自分としてはお経がないからと恨んで出てくる気持ちはさらさらない。
葬式としてお別れしなくても、必要があれば生きている内にこちらからお別れに行く。
そう思っています。
余熱で生きるステージですが、まだ、余熱でも焼き芋くらいは焼けるかもしれない。
日々是好日。
自分に与えられた時間をしっかり生き朽ちる。
個として納得がいくまで生きて、ひとり静かに逝ければいいなぁ。
自分に与えられた時間をしっかり生き朽ちる。
個として納得がいくまで生きて、ひとり静かに逝ければいいなぁ。
今日、明日は、90年あまりを生きた母方の最後の叔母を送ります。
いつ来るか分からない最期ですが、そろそろ腹を固めておかないとなぁ。
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