5月31日 おはよう日本
私たちの生活に欠かせない天気予報。
台風や大雨が相次ぐなか重要性が増している。
その内容や精度も進化している。
気象衛星による詳細な観測。
地球全体の写真が2分半に1度送られてくる。
台風の目やそれを取り巻く積乱雲の姿までもはっきりととらえる。
こうしたデータをもとに気象庁は台風の進路を予測。
今年7月からは
洪水や浸水の危険性を地域ごとに細かく示し
迅速な非難につなげるための情報も新たに発表される。
命を守る天気予報。
しかしかつて姿を消したことがあった。
そのことを示す資料がNHKに残されている。
今から76年前
昭和16年12月8日のラジオの番組表である。
午前6時台を見ると
放送される予定だった天気予報の欄に二重線が。
消されていた。
この日始まった太平洋戦争。
真珠湾攻撃の直後
軍が当時の気象台長にあてた文書である。
“直ちに全国気性報道管制を実施すべし”。
“天気予報などの気象情報は軍事作戦に深く関わる”とし
軍が国民から隠すよう命令したのである。
当時気象台の職員だった増田善信さん(93)。
16歳だった増田さんは
京都の日本海側にあった測候所で天気予報の作成などにあたっていた。
測候所には全国の気象観測データが毎日数字で送られてきていた。
昔も今も変わらない世界共通のルール。
これをもとに天気図を作成し
天気予報を発表していた。
ところが大戦を境に観測データはすべて暗号化された。
(気象台 元職員 増田善信さん)
「まず送られているのがこれ【青)だと
それに乱数(赤)を足すと
そうすると初めて元の電報が現れてくる。」
天気予報は作り続けたが住民に伝えることは禁止された。
冬場に天気が変わりやすい日本海。
天気予報が命綱となる地元の漁師から詰め寄られることもあった。
(気象台 元職員 増田善信さん)
「極めて厳しい気象現象が起こる可能性があると思われる時に
教えられないって言うのは本当に心苦しい感じでしたね。」
天気予報が隠されたことで多くの命が失われる事態も起きた。
山口県宇部市に住む大亀恒芳さん(83)。
8歳のとき天気予報を知らされないまま突然強い雨や風に襲われたという。
(大亀恒芳さん)
「雨が相当降っていましたね。
どんどん風が強いうえに雨が土砂降り。」
開戦の翌年
昭和17年8月の周防灘台風である。
九州の西の海上を北上し日本海へ。
満潮の時刻と重なり
山口県沿岸の周防灘などで高波が発生した。
軍は当初
気象台に台風の進路や警報をラジオなどで伝達することを禁止した。
大亀さんが家族で避難を始めたのは
台風が最も接近していた夜8時頃。
突然堤防が決壊したという知らせを聞いたからである。
非難の途中で通りかかった田んぼで高潮が流れ込んでくるのを目にする。
(大亀恒芳さん)
「稲の上10センチか20センチぐらいをドババーッと
恐ろしかったですよ。」
急いで高台へあがり家族全員ぎりぎりでで難を逃れた。
その時暗闇から助けを呼ぶ声を聞いたと言う。
(大亀恒芳さん)
「『助けてぇ!』ってこういう声です。
次の瞬間はもう死ぬかもしれない。
その時の人間の声ですからすごいですよ。
こんなことになるとは全然夢にも思わない。
天と地がひっくり返ったような状況ですから。
あすの朝まで命が助かるかなと。」
夜が明けると信じられない光景が広がっていた。
高潮や暴風雨などで多くの家屋が倒壊。
犠牲者は山口県を中心に1,100人以上にのぼった。
「あのとき天気予報がきちんと伝えられていれば奥の命が助かった」と考えている大亀さん。
今その大切さをあらためて感じている。
(大亀恒芳さん)
「当時の事を思ったら恐ろしいですよ。
情報が全く無かったんですから。
今その情報(天気予報)がバサッとストップしたら
それは大変なこと。
日本は平和な状況が続いていますから
この平和な状態がずっと続いてもらうように願っています。」