9月27日 おはよう日本
今年7月に105歳で亡くなった
医師 日野原重明さん。
その半年前に行われた最後のインタビュー映像が残されていた。
約20時間に及ぶインタビュー。
自宅で闘病生活をする中で1か月間の撮影に臨んだ。
(次男の妻 日野原眞紀さん)
「そのインタビューにかけていたんだと思う。
刻々と自分の死が迫っていることをすごく意識していた。」
生涯現役医師を貫いた日野原重明さん。
最後に残したメッセージである。
ホスピス専門の病院をつくるなど日本の終末期医療を築き上げてきた。
また子どもや若者たちに向けて命の尊さについて積極的に発言してきた。
自らの死に直面に残したかったメッセージとは何だったのか。
Q.先生は怖いですか?
死ぬことは。
「怖いね。
聞くと嫌になるね。
はっきり言われると恐ろしい。」
1,000人を超える患者を看取ってきた日野原さんでも自らの「死」は恐ろしいものだった。
「おろおろすること以外で何もできない自分を感じてね。
おろおろする自分はどうしたらいいかということを考える。」
しかしこのおろおろする自分こそ日野原さんが新たに出会った自分自身だった。
「人間は病むことによって本当の人間が現れてくるんだなと。
人間 存在をおろおろするなかにやっと気づいてくる。」
自らを成長させ
人生をより豊かにするために
新しい出会いを求め続けた日野原さん。
死に直面しその恐怖を感じた自分自身をも
新たな自分との出会いととらえている。
「最高のものです。
自分との出会いが
みんな自分との出会いがあっても気がつかないの。
自分との出会いがあって初めて自分がわかる。
“未知の自分”というものがそこに存在しているけれども
未知の自分との出会いで
私たちは本当の自分ということに気づきがあるんじゃないかと。」
日野原さんの生活を支えてきた次男の妻 眞紀さん。
亡くなる直前まで日野原さんは新しい自分を発見することに貪欲だったという。
(次男の妻 眞紀さん)
「どうしてこんなに頑張っちゃうんだろう。
静かに寝ている方が楽でしょうにと思うけど。
もう1回自分を問置くからちょっと見てみようと
面白そうだ楽しそうだ
次はどんな世界が待っているんだろうという気持ちになった。」
死を前にして新たな自分と出会った日野原さん。
この出会いは仲間や家族の支えがあればこそ。
日野原さんから出てきたのは
支えてくれた人たち全てに向けた感謝の言葉だった。
「いろんな人と会うこと自体が自己発見。
1人でいると自己発見はない。
皆さんと一緒になって今日の日を迎えることに感謝。
以前の私の感謝よりも
病の苦しみが強かっただけに
今の感謝は以前の感謝よりも何倍も何倍も大きな感謝。」
(次男の妻 日野原眞紀さん)
「最後はすべてを受容して感謝の気持ちで“ありがとう”って。
みんなも本当に悲しいけれど
そのまま受け入れられたみたいな感じだった。
1か月に及んだたインタビューの最終日。
この日はいつもの会話とは異なり
日野原さんは30分にわたってひとりで語り続けた。
最後の力をふりしぼり発したのは
これから生きていく人たちへの励ましの言葉だった。
「いま私は旅立ちの中に
感謝の旅立ちの心意気を感じている。
しかしこの旅の中には思わないような苦しみがあるに違いない。
苦しみがあって初めて
私の苦労の多い旅が報われるのではないか。
つらさ以上に喜びはその中にあることを
私は考えるべきだと
今さら深く感じ取る。
感謝に満ちた気持ちで
キープ・オン・ゴーイング!(前に進み続けよう!)
さらに前進また前進を私たちは続けなくちゃならない。」
キープ・オン・ゴーイング(前に進み続けよう)。
命を懸けて伝えたかったのは
悲しみや苦しみに直面しても
あきらめずに前に進み続けてほしいという願いだった。
インタビューを終え
その後体調を崩した日野原さん。
今年7月
家族に見守られ
自宅で静かに旅立った。
感謝を伝え続けた晩年
最後に自宅で書き残した詩にもその思いがあふれていた。
風吹きて庭のみどりがささやける
私はこれをみてありがとうの言葉を捧げて言うと
眠るよ
静かに
“どんな苦しみの中えも
生きることは喜びに満ちている”
日野原さんが自らの死を前にして残した言葉は
未来へ続く希望のメッセージだった。
9月26日 キャッチ!
江西省にある日系の自動車工場。
作られているのはSUV(多目的スポーツ車)やピックアップトラック。
経済発展が続く中国では
個性的な車に乗りたいという消費者が増えて
若者を中心にSUVなどに人気が集まっている。
(日系自動車メーカー総経理 万建栄さん)
「我々の工場で生産するSUVは
去年に比べて30%増えています。」
中国の自動車の販売台数は前の年を14%近くも上回って
2,800万台を突破。
人気のSUVは前年比で44%の増加である。
(中国時王者鉱業協会報道官 陳士華さん)
「今年は初めてSUVの販売台数がセダンを追い抜くかもしれません。」
環境対策として重要とされるのが排ガスを減らすこと。
いま車の燃費を改善するある技術が注目されている。
それがエンジンをパワーアップさせるターボチャージャーと呼ばれる装置である。
通常のエンジンは
入ってきた空気を燃料と混ぜ
エンジン内で燃焼させてピストンを回す。
これにターボチャージャーをつけるとより多くの酸素を送り込むことができる。
酸素が多くなるぶん燃焼効率が上がるので
少ない燃料でもより大きなパワーが出るという仕組みである。
このターボ技術により燃費が20%程度改善すると言われており
環境対策として注目されている。
じつはこのターボ
世界シェアの80%程度を握っているのが日系2社を含む4社。
中国市場でしのぎを削っている。
日系企業のうちの1つ
吉林省にある工場。
2004年の操業を始め
当初は地元メーカー向けにトラック用ターボを生産していた。
環境規制の流れを受け
ここ数年
トラック以外の用途での引き合いが急激に増えている。
この工場では部品を現地メーカーから調達してコスト削減も進めてきた。
部品の現地調達率は約40%から70%程度まで増えている。
中国は2020年にはターボの需要が2,000万台に達するという予測もある。
会社では再来年度の生産台数は昨年度を100万台上回ると見込んでいて
生産ラインの増設も検討している。
(長春富億石川島ターボ総経理 杉山誠さん)
「かっこいい車で排ガスを抑えるためにはエンジンを小型化する。
かっこいい車の力が必要なのでターボチャージャーが必要。」
増え続ける中国のターボ需要。
この商機をつかむため更なる体制強化にも乗り出した。
ターボメーカーの上海事務所。
働いているのは設計担当の技術者たち。
ここでは去年4月に
日本の本社からターボの設計部門の一部を上海に移した。
IHI上海技術総監の江口雅敏さんは本社で設計部長を務めていたベテラン社員である。
中国での責任者として着任した。
江口さんたちは上海の事務所に3Dのソフトを導入して
中国メーカーからの要望をすぐさま取り入れて設計を変更している。
営業を担当する中国人スタッフとも日常的な情報交換は欠かさない。
こうした態勢を敷いたこともあり
現在現地メーカー2社と新たな商談が進んでいる。
(IHI上海 技術総監 江口雅敏さん)
「深くお客様に入っていって信頼を得て
プロジェクトにつなげて行きたい。」
大気汚染を軽減させる技術の提供。
日本メーカーがいま商機をつかんでいる。
9月23日 経済フロントライン
ラストワンマイル=最後の1マイル
商品を物流センターから客へ届ける配送の最後の区間を意味している。
秋葉原にある家電量販店。
ヨドバシカメラでは売り場と連動したネット通販を開設。
専用のアプリを使って商品のバーコードを読み取れば
通販サイトから購入でき家に届けてもらえる。
(ヨドバシカメラ マルチメディアAkiba マネージャー 勝田泰幸さん)
「インターネットであるとか店舗であるとか意識することなく
買い物を楽しんでもらいたい。」
家電製品以外にも書籍や日用品に野菜など530万点の商品を扱い
全国に配送している。
去年
川崎区に巨大な物流センターを建設。
最新のシステムを導入しコスト削減とスピードアップを進めてきた。
物流を強化してきたこの会社が特に力を入れているのがラストワンマイル。
客に商品を届ける際のリアルな接点でのサービス強化である。
そのため東京23区内では
手で持てる荷物の配送は運送会社ではなく社員自身が行っている。
(配送担当)
「売り場のときはパソコン関係の商品を売っていた。
3年くらい。」
「テレビ オーディオ売り場を担当していた。
10年以上。」
自社で配送することによって配達にかかる時間を短縮。
さらに利用者には到着予定時間を分単位でメールで通知する。
入社5年目の配送担当 川崎将広さん。
白物家電やカメラコーナーで売り場の経験を積んできた。
(配送担当 川崎将広さん)
「家電が好きで冷蔵庫が特に好きだった。
冷蔵庫を販売したいと思って家電業界に入って
楽しい毎日を送っていた。
配送は思っていたよりもハードワークだというのが素直な感想。」
客へのあいさつやお礼
荷物は両手で渡すことなどを徹底するなど
接客に力を入れている。
(客)
「対応はすごくいい。
荷物を大事に扱ってくれる感じがしていいと思う。」
この会社では
将来
社員の持つ専門知識を生かして商品の説明や修理の受付などを行うことを計画している。
(配送担当 川崎将広さん)
「とにかく元気よく明るく
気持ちよく受け取ってもらうことだけ胸に持ってやっている。
冷蔵庫も配送したい。
将来的には。
それが夢。」
(ヨドバシカメラ 副社長 藤澤和則さん)
「荷物を届けるのではなく
客が注文した商品を届ける。
これが一番大事なポイント。
できるだけ多くのエリアに客にこのサービスを届けられるように
エリアを拡大していきたい。」
9月23日 経済フロントライン
東京銀座の裏通りにあるビルの3階。
この店で売られているのは1枚8千円のTシャツや4万5千円のカーディガン。
高級な素材を使った品質の良さが売りですべて日本製である。
独特なのはその売り方である。
売場にレジはなく
顧客は端末を使ってこの店のサイトから購入。
商品は後日宅配便で自宅に届けられる。
こうした店を全国で4店舗展開するファクトリエ社長の山田敏夫さん。
山田さんの会社はかつて店舗を持たずネット販売を専門としてきた。
ホームページには作り手の顔を載せるなど工夫を重ねてきた。
しかし山田さんは
ネットだけでは製品の良さが十分に伝わっていないのではないかと考え
この店をオープンした。
(ファクトリエ社長 山田敏夫さん)
「何が素晴らしいのか伝え続ける場が必要だと思っていて
店舗は試着室であり
熱狂的なファンを作っていく場。」
店を訪れた人の間で評判が高まり
売り上げは大幅に増加。
今では購入する人の3割近くが店舗を経由しているという。
(常連客)
「ホームページが素敵だったので興味をもって
こちらの店舗に来た。
自分で見て触って買うのを決めたい。」
顧客との接点があるリアルな店舗を持つことには別の狙いもある。
(客)
「私が持っているのはしわになりやすかったから
電車に乗るときは脱いで座る。
しわになっちゃうから。
しわにならないならうれしいな。」
客の好みやニーズを具体的に聞き取ることができ
商品開発に生かすことができるのである。
こうしたニーズは社長の山田さんが自ら契約している工場をたびたび訪れ伝えている。
たとえばトレンチコート。
以前は肩に飾りがついていたが
最新作は客の声をもとに飾りを外した。
(縫製工場 社長)
「客の声は
ショルダーバッグをかけたときちょうど当たったりして違和感がある。」
さらには“もっと軽くしてほしい”という声に応え
裏地を外して軽量化して発売。
売り上げはすでに以前のコートの2,6倍に伸びている。
(ファクトリエ社長 山田敏夫さん)
「リアル店舗の強みという意味で
心と心でつながって感じてもらいやすいことが一番の強みなのではないかと思う。」
ネットに進出したものの
最近になってリアルな店舗での売り方を強化している企業もある。
フランスの高級調理器具メーカー ル・クルーゼである。
日本に進出して26年。
デパートやショッピングモールなどに出店してきたが
先行きには危機感を持っている。
(ル・クルーゼ ジャポン 社長 モニカ・ピントさん)
「あなたが最後にデパートに買い物に行ったのはいつ?
今ではデパートに行く必要はありません。
夜ベッドでネット通販で買えばいいのです。」
8年前には独自のネット通販サイトを起ち上げた。
自慢の鍋が映えるレシピの掲載など
客の取り込みを図ってきた。
さらにアマゾンや楽天といったサイトにも出店。
ところが
ちょっと良い鍋が欲しいと考えて
“高級 鍋 ブランド”と検索すると
先に出てくるのは競合他社の商品である。
この会社の商品は遅れて登場。
しかも鍋ではなく鍋敷き。
多くの製品の中で埋もれてしまう難しさを感じていた。
(ル・クルーゼ ジャポン 社長 モニカ・ピントさん)
「ネット通販の場合は自分たちのサイトを見てもらわなければなりません。
サイトがあれば成功するというわけではないのです。
サイトを見てもらえなければ悲惨なことになるんです。」
どうすればネットでも商品の価値をアピールできるのか。
新たに打ち出したのが
デパートなどよりも目立つところにリアルな店舗を出す戦略だった。
今年4月
東京六本木の人通りの多い場所にこれまでで最も規模の大きな店舗をオープン。
さらに創業以来の歴史がわかる展示もした。
この会社ではリアルな店舗でブランドをアピールすることで
ネットでも関心を持ってもらえるようにしたいと考えている。
(ル・クルーゼ ジャポン 社長 モニカ・ピントさん)
「店舗がそこにあることで足を止めて商品を見てもらうことができるんです。
お客さんにより多くの機会を作っているんです。」
9月20日 国際報道2017
バーでふるまわれたのは
ラグビーのニュージーランド代表チーム「オールブラックス」にちなんで名づけられたご当地の酒
その名も「全黒」。
(客)
「とても繊細で軽く
きつくない味わいを楽しめる感じがします。」
「全黒」が造られているのは南部のクイーンズタウン。
山に囲まれ
豊富な雪解け水と長く続く寒冷な気候が酒造りを支えている。
杜氏のデピッド・ジョールさん(55)。
妻の康子さんと日本酒の製法で酒造りをしている。
若いころ日本に留学し日本酒の存在を知ったジョールさん。
世界で日本酒がブームになるなか
母国でもその魅力を広めたいと
50歳を過ぎて日本やカナダの酒蔵で修業。
2015年
地元に酒蔵を立ち上げた。
(杜氏 デピッド・ジョールさん)
「日本の文化に深く触れられる何かに取り組みたいと思っていました。
ニュージーランドでは誰も日本の酒を造っていませんでした。」
設備はほとんど特注か手作り。
伝統的な手法を大切にしながらも
ニュージーランドらしい酒造りを追求している。
独自の酒造りの核となっているのがもろみを混ぜる「かい棒」である。
ニュージーランドに自生する「マヌカ」から作った。
「マヌカ」は先住民族マオリの人たちが昔から重宝してきた薬としても使われる樹木で
葉や樹皮などにビタミンが豊富に含まれ
殺菌効果もあるとされている。
効能を生かすためわざと荒削りの状態で使っている。
もろみが完成するまでの約1か月棒を浸したままにする。
(デピッド・ジョールさん)
「マヌカがほのかに影響して独特の酒にしていると思います。」
ニュージーランドと日本の文化を融合させたジョールさんの酒。
醸造を始めてから1年が経った去年夏には
国際大会で金賞を受賞するまでになった。
(デピッド・ジョールさん)
「日本の人たちにも私たちのお酒を飲んでもらいたいです。
飲む人を笑顔にするようなお酒を造りたいです。」
9月16日 おはよう日本
イギリスの植民地時代に東洋と西洋の文化が混ざり合い
独特の文化が育まれてきた香港。
中国に返還されてから今年で20年。
中国本土から巨額の投資マネーが流れ込み
暮らしは様変わりした。
高層ビルが立ち並ぶ香港中心部。
香港のショッピングモールで開かれているミニチュアの展示会。
人々が見入っているのは中国に返還される前の香港の暮らしを再現したミニチュアである。
ダイヤル式の黒電話。
ブラウン管テレビは実際に映像も映る。
雑誌の表紙も丁寧に描かれ
細部まで作り込まれている。
時代は1980年代。
円卓のすぐ奥に2段ベッドがあったり
狭い台所に洗濯物が干されていたり
貧しくとも家族のだんらんがあったころの庶民の生活である。
土地が狭い香港では小さな住宅に大家族で暮らしてきた経験を持つ人が多くいる。
この様子を子どもたちに見せたいと
展示会には家族で訪れる人が多く当時を懐かしんでいた。
「昔に戻ったような感覚です。
10人兄弟だったので2段ベッドで寝ていたのは父と母だけ。
私たちは床で寝ていました。」
「この時代を経験していない人たちでも当時の生活を見ることができるので
とてもいいですね。」
展示会を開いたミニチュア作家の黎さん(50)。
香港が中国に返還され変わりゆくなかで
失われつつある風景と暮らしを残そうと作品を作り続けている。
(黎さん)
「この香港の理髪店は8年前から作り始めました。」
かつて香港のいたる所にあった理髪店を表現した作品である。
使い込まれた古い椅子に
壁掛け時計や
排水管のさびなど
全て12分の1のサイズで精巧に再現。
こうした理髪店では地元の顔なじみが集い世間話に花を咲かせていたと黎さんは言う。
黎さんはもともとは建設会社で建物の模型を作っていた。
昔の記憶や写真などを頼りに
3か月ほどかけて1つの作品を完成させる。
黎さんがミニチュアを通してよみがえららせたいのは自らの青春時代の香港である。
(黎さん)
「昔は近所の人たちと助け合っていましたが
今は隣の人の名前すら知りません。
だから昔見たり触れたりしたことを今の時代に再現したい。」
20年前にイギリスから中国に返還された香港。
中国本土から巨額の投資マネーが流れ込み高層ビルが次々に建設された。
一方で古い建物は姿を消していった。
「唐楼(とうろう)」と呼ばれる形式のアパート。
その多くは2階から上が住居で1階が商店となっていて
濃厚な人間関係が築かれていた。
こうした風景も今は少なくなった。
黎さんは100年以上前に建てられたある唐楼に強い思いを抱いている。
若いころ近くで働いていたため
時代とともに変わりゆく様子を見続けてきたからである。
(黎さん)
「昔と比べてすっかり変わりました。
中にあった質屋や住宅もレストランになってしまいました。」
記憶をたぐりよせ黎さんの心の中にあった唐楼のミニチュアが完成した。
暮らしてた人たちの様子も再現しその息づかいを伝えようとしている。
(黎さん)
「香港は変化のスピードが速く
私たちはそれに適応しなければなりません。
ミニチュアをつくり
なくなってしまった暮らしを次の世代に残していきたい。」
より多くの人に昔の香港を知ってもらいたい。
黎さんはミニチュアの作り方を教える教室を開いている。
希望者は年々増加し生徒は100人を超えた。
(生徒)
「香港の多くの場所はすでになくなってしまいました。
ミニチュアをつくって思い出を残したいです。」
(黎さん)
「香港は私たちが生まれ育った場所です。
世界中の人々に香港の昔の様子や香港人の生活を知ってもらいたい。」
急速に変わり続ける香港。
元の暮らしを見つめ直そうという取り組みに共感が広がっている。
9月15日 国際報道2017」
20年前にNASAアメリカ航空宇宙局などによって打ち上げられた土星探査機「カッシーニ」が
日本時間の9月15日午後2時前
土星の大気圏に突入したことが確認され
ミッションを終えた。
カッシーニのプロジェクトに30年近く関わってきた科学チームのリーダー
リンダ・スピルカー博士。
土星の研究が専門のスピルカー博士は
「カッシーニ」によって分からなかった世界が見えてきたと言う。
(NASA カッシーニ・プロジェクト スピルカー博士)
「土星の輪をこれまでにない解像度で見られて
手で触れそうに感じた。
本当に素晴らしかった。
素晴らしい宇宙船にさよならするのは本当に悲しいけれど。」
「カッシーニ」は1997年10月
アメリカ フロリダ州から打ち上げられた。
20年間で旅したのは78億キロ。
地球と月の間を1万回往復したのと同じ距離である。
司令室では技術者や研究者が「カッシーニ」の状況を24時間体制で監視。
刻一刻と送られてくる画像やデータから多くの成果が上がったという。
土星の象徴ともいえる輪。
何重にも重なっていることが精細な画像で確認された。
土星の北極上空の映像では
ジェット気流が六角形を描くように循環する現象の撮影に成功した。
さらに「カッシーニ」の最大の発見とされるのが
土星の衛星エンケラドスの探査である。
地表の割れ目から噴き出ているガスを採取。
地下深くにエネルギー源があることを突き止め
微生物が生息できる環境が存在する可能性を見出した。
「カッシーニ」を制御するコンピューターシステム担当の技術者
モリ―・ビットナーさん。
技術者たちにとって最大の難関の1つとなったのは
土星の大気などを観測するため表面から約3,000kmまで近づくことだった。
しかし輪の内側は氷などのちりが高速で飛び交い
衝突して壊れる可能性があった。
(「カッシーニ」制御担当 技術者 ビットナーさん)
「オペレーションのときにここにいましたが
ちりがたくさんあるかも分からず何が起こるか不明だった。」
今年4月にこのミッションは行われた。
「カッシーニ」は衝突を防ぐためアンテナを進行方向に向け盾のようにしながら
無事に輪の内側を通過することに成功したのである。
(「カッシーニ」制御担当 技術者 ビットナーさん)
「初めての信号を受信したとき
すべてがうまくいったことに興奮と誇りを感じた。
素晴らしかった。」
「カッシーニ」に熱い思いをはせるのは科学者だけではない。
ニューヨークに住むアーテイスト
サイモンン・クーパーさん(25)。
子どものころから遠い宇宙を旅する「カッシーニ」に大きな憧れを抱いていたと言う。
(アーティスト サイモン・クーパーさん)
「地球から出て宇宙に何があるか冒険するのは
人類の営みのうちで最も大事なこと。」
「カッシーニ」が最期を迎えるにあたってクーパーさんは仲間とともに
「カッシーニ」をモチーフにした展覧会を開いた。
(アーティスト サイモン・クーパーさん)
「カッシーニがなくなってもまたカッシーニについて話し
いい思い出とともに振り返るよ。」
そして迎えた最後の日。
カッシーニの信号が消えました
この素晴らしい偉業を誇りに思います
皆さんおめでとう!
「カッシーニ」は地球との交信を断ち
土星の大気圏に突入しミッションを終えた。
(NASA カッシーニ・プロジェクト スピルカー博士)
「土星到着後13年間でカッシーニが送ってきたデータを完全に理解するには
おそらく何十年もかかるでしょう。
もしもカッシーニに何か言うとしたら
“土星のリングサイド席にありがとう”と言いたい。」
10月6日 編集手帳
建国当初の米国では、
農民一揆が治安を揺るがしたらしい。
世界的なベストセラー『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』(上巻、あすなろ書房)に詳しい。
政府に言われるまま借金をして土地を得たものの、
返済に苦しみ、
そのうえ重税を課された。
払えないと土地や家畜、
病人のベッドまで徴収された。
裁判所を怒り狂った農民が襲う騒ぎもあったという。
貧しい者に目を向けない国に、
著者の政治学者ハワード・ジン氏は
<建国の父たちとは本当に聡明(そうめい)な人々だったのだろうか>と問いかけている。
政府高官や銀行家は反乱におびえたことだろう。
米憲法に武器所持の権利が盛られたのも1791年、
この時代である。
そこにつなげると、
先の問いの答えはすでに出ているかもしれない。
銃撃事件が日々発生する。
ラスベガスではついに、
数百人もの人々が死傷した。
おかしな男がたった一人で大量のライフルを準備し、
コンサート会場に銃弾の雨を降らせた。
ワシントン、
ジェファーソン…
お札の肖像画がきりっとした表情を崩さぬように、
権利とやらも何も変わらない――アメリカの現実だろう。
9月14日 キャッチ!
フランスの食生活になくてはならないのがパン。
パリの朝と言うと
長いフランスパンを脇に抱え行きかう人の姿をよく見かける。
フランス南部の小さな村。
人口約360人のサンチュラリードルド。
フランスで最も美しい村のひとつに認定され
夏には多くの観光客が訪れる。
しかしその一方で年々進んでいるのが高齢化と人口減少である。
子どもたちは数えるほどになり
学校は廃校になった。
そうしたなか村の人たちの生活の支えとなっているのが
70年続く村で唯一のパン屋さんである。
この店のパンは柔らかく小麦の香りが強いうえに
木の香りが漂うのが特徴である。
(買い物客)
「この店のパンが買えないことになったら私は生きていけないね。」
村でただ1人のパン職人 ジャンイブ・オードさん(60)。
3代目として伝統の味を守り続けてきた。
オードさんが愛用しているのは創業当時のかまどである。
毎朝4時間かけて約80個のパンを焼き上げる。
今年還暦を迎えたオードさん。
体力の衰えを感じ
売れ行きも伸び悩むなか
この春
店をたたむ決意を固めた。
(パン職人 ジャンイブ・オードさん)
「フランス人の生活様式も変わり
私のパンは売れなくなりました。
どこにでもある冷凍パンを好んで買うようになったからね。」
オードさんの話を聞きつけてすぐに起ちあがったのは村の人たちだった。
後継者を探して
オードさんの店を存続させようというのである。
今年5月
村の人口の3分の1にあたる100人余が資金を出し合い
パン工房の救済作戦が始まった。
近郊の街に求人広告を出したり
オードさんのパンを広く知ってもらうため
メンバーがボランティアで街に出たりして販売。
活動の中心となっているグザビエ・コランさん(56)は
週に3回
約10キロ離れてた村まで出来たてのパンを届ける。
(ボランティア グザビエ・コランさん)
「パン屋を存続させたい気持ちがあれば必ず解決策はあるはずです。」
村の人たちの熱意の押されてオードさんも新たな試みを始めた。
観光客にパン工房を案内し
自分が守ってきた伝統の技を知ってもらおうというのである。
(観光客)
「伝統の焼き方を教えてもらえるので本当にうれしいです。
フランスで消えつつある伝統だからね。」
コランさんたちが活動を始めて4か月。
ついに村の人々の思いが実を結ぶ時がやってきた。
後継者を探しているという情報を聞き付けて
ひとりの若者が名乗りを上げたのである。
約50キロ離れた町の菓子職人 サミー・テラソンさん(29)。
美しい村に残る伝統の工房で自分なりのパンを焼きたいと
恋人とともに村に移り住むことにしたのである。
9月からオードさんの指導のもとパン作りの修業が始まった。
テラソンさんはバゲットから菓子パンまで
全て手作りで焼き上げるようになりたいという。
(サミー・テラソンさん)
「自分の作ったパンが村の人々に受け入れられるようにしたい。」
(パン職人 ジャンイブ・オードさん)
「このパン屋を再び村民の集いの場にして
村に活気を取り戻したいです。」
フランスで最も美しい村の食を支えてきたかまどの炎は
消えることなく次の世代に引き継がれようとしている。
9月14日 おはよう日本
“ショッピングモールの歌姫”こと半崎美子さん。
買い物客が行きかう場所で
日常にある喜びや悲しみを歌い
人々に深い感動を与える半崎さん。
いまその歌声は海を越えて広がっている。
半崎さんの歌はいま台湾で広がっている。
地元のテレビ局が半崎さんを“売場歌姫”と紹介。
歌詞を翻訳して伝えたところ多くの反響があった。
そして9月
台湾へ渡り
初の海外ライブを行うことになったのである。
もちろん舞台はショッピングモールである。
(シンガーソングライター 半崎美子さん)
「きょうはどんな出会いがあるのか
楽しみです。」
台湾でも日本語で歌う半崎さん。
それでも多くの人が歌声に聞き入った。
この会場に1時間かけてやって来た夫婦がいる。
黄さん夫妻である。
半崎さんのある歌を聴きたかったのである。
それは交通事故で最愛の息子を失った母親の悲しみを受け止め
励ますために作った歌である。
(半崎美子さん)
「この歌は大切な息子さんを亡くして
その家族の勇敢な背中をたたえたいと思って書きました。」
(「明日へ向かう人」)
♪声をからして泣いても
たどり着けない場所がある
前を向くそれだけでも
つらいことが時にはある
それでもあなたは進むことをあきらめないで
実は黄さんたちも2年前に一人娘を亡くした。
血液の病気で8歳でこの世を去った。
死の4日前に病室で娘に頼まれて録音した声が残されている。
「私のことは心配しないで。
私は強い子だから。」
(黄さん)
「娘は周りが心配しないようにふるまっていたんです。」
「耐えられません。
涙が止まりません。」
亡くなって2年
ふたりはいまも死を受け入れられず娘の部屋はそのままにしている。
悲しみに暮れるなか
突然て微から流れてきたのが半崎さんの歌だった。
前を向けない自分にそっと寄り添ってくれる言葉。
黄さんは救われた思いがしたのである。
(黄さん)
「本当に悲しいときに前なんて向けないです。
この歌は傷ついた心にただ寄り添ってくれました。」
黄さんはその感謝を伝えたくて半崎さんに思い切ってメッセージを送った。
(黄さん)
あなたの歌は
私たちの心を温めてくれました。
いつかあなたの生の声を聴いてみたいと願っています。
すると思いがけない返信があった。
9月に台湾でライブをします。
そのときにお会いしましょう。
♪悔し涙を流した時
心の奥が熱くなった
前を向くそれだけでも
つらいことが時にはある
それでもあなたは進むことをあきらめないで
半崎さんから招待を受け黄さんは控室をたずねた。
(黄さん)
「あなたの歌を聴いて感動しました。
あなたの声は私を癒してくれます。
これからも歌い続けてください。」
(半崎美子さん)
「私は初めて台湾でライブをしに来ましたが
あなたに会えただけで台湾に来た意味がありました。」
人々の悩みや思いにそっと寄り添う半崎さんの歌。
いま国境を超えて人々を包み込んでいる。
9月13日 国際報道2017
インドネシアでは日本のアニメや漫画などのポップカルチャーが大人気なこともあって
日本語学習者の数が中国に次いで2番目に多い。
多くの若者たちが日本語を学ぼうと参加している劇団が人気を集めている。
8月にジャカルタ郊外で上映されたミュージカル。
♪この川は私たちの生きる道しるべ
歌やせりふは全編日本語。
演じたのはインドネシアで日本語を学ぶ大学生たちである。
学生たちが所属する劇団は定期的に公演を行い
ジャカルタ在住の日本人の間で評判となっている。
メンバーの中で抜群の歌唱力を持つムハンマド・バルカンさん(21)。
ジャカルタの大学に通う3年生である。
大学で経営学を学んでいるバルカンさん。
日本語を勉強するようになったきっかけは
♪(「北国の春」 千昌夫)
白樺 青空 南風
こぶし咲く あの丘北国の
ああ 北国の春
演歌である。
たまたまインターネットで耳にしたのをきっかけに
こぶしの効いた歌のとりこになった。
(ムハンマド・バルカンさん)
「聴いた瞬間心をつかまれ
“演歌を勉強しなきゃ”と思ったんです。」
演歌の歌詞を調べるなど独学で日本語を勉強していたバルカンさん。
しかし壁にぶち当たる。
(バルカンさん)
「本やインターネットでの勉強は一方通行。
分からない部分を質問できないので困りました。」
そんなとき友人から
日本語教師の女性が起ち上げたこの劇団を紹介され
2年前に入団した。
劇団には楽しみながら日本語を学ぼうと100人の若者が所属している。
公演前の最後の練習となったこの日
集大成となる公演に向けて
発音や歌詞の内容など細かい点を最終確認する。
(ムハンマド・バルカンさん)
「長い時間をかけて練習し
できるかぎりの準備はしました。
頑張ります!」
迎えた公演当日
この日の演目は「ジャカルタ ライフ ストーリー」。
ジャカルタに初めて赴任した日本人夫妻の視点でインドネシアの日常が歌われる
劇団オリジナルのミュージカルである。
一番盛り上がったのはジャカルタ中心部の渋滞についての歌。
♪あれに捕まったら どこにも逃げられない
マチェット(渋滞)!
ジャカルタを訪れる日本人の誰もがカルチャーショックを受ける激しい渋滞をコミカルに歌いあげる。
♪警察も 魔法も 消しゴムも
何にも効かない
マチェット(渋滞)!
約40分間
練習の成果を出し切った。
(観客)
「意外と面白いなと思いました。
日本語も上手かった。」
「言葉だけじゃなくて心の表現もしっかりできていて最高でした。」
手ごたえを感じたバルカンさん。
さらに学ぶ意欲を高めていた。
(ムハンマド・バルカンさん)
「お客さんが思いきり笑っていたので努力が報われた気分です。
皆さんの笑顔を見て
もっと日本語の勉強を頑張ろうと思いました。」
日頃の学習の成果を歌とともに届けたい。
ミュージカルが日本語を学ぶ人たちの大きな力になっている。
9月13日 おはよう日本
『もうぬげない』(ブロンズ新社)
ぼくのふくがひっかかってぬげなくなって
もうどのくらいたったのかしら。
このままずっとぬげなかったらどうしよう。
ぼくはこのままおとなになるのかな。
服が脱げなくなってしまった男の子が
“このまま過ごしたらどうなるんだろう”とどんどん想像を膨らませていく絵本
『もうぬげない』。
子どもの困りごとが思いもよらない展開をみせることで
大人にも人気のこの絵本。
37万部を超えるベストセラーになっている。
作者はいま注目の絵本作家ヨシタケシンスケさん(44)。
(ファン)
「のほのほしている絵が好き。
共感できる点が多い。」
「自虐的なところがある。
クスッと笑えるところが大好き。」
多くの共感を呼んでいるヨシタケさんの世界だが
ヨシタケさんの生き方のモットーは
(ヨシタケシンスケさん)
「怒られないこと
場を荒らさないことが
僕の生きる目標だったので。」
4年前から本格的に絵本作家として活動を始めたヨシタケさん。
最新作は
男の子の“つまんない”という思いがきっかけに話が展開していく。
『つまんない つまんない』(白泉社)
うーん・・・
なんか つまんない。
うーん。
ねえ。
つまんないんだけど。
「・・・じぶんでなんとかしてちょうだい!」
“つまんない”とはどういうことなのか。
男の子はどんどん想像を膨らませる。
ヨシタケさんの大きな特徴が
ちょっとしたトラブルや些細な困りごとが
思いもよらない形で展開していくところ。
ついやってしまう自分の癖の理由を描く
『りゆうがあります』(PHP研究所)
ぼくのハナのおくにはスイッチがついていて
このスイッチをたくさんおすと
あたまから
「ウキウキビーム」がでるんだ。
へりくつをこねる。
(ヨシタケシンスケさん)
「僕はもともとすごくネガティブな性格。
心が弱いんですね。
何かですぐ落ち込んじゃう。
なんとかして自分を励まし直す必要があるんですね。
世の中思いどおりにいかないこと
つらいことがいっぱいあるけれど
考え方のよっては楽しいこともいっぱいあるし
おもしろがることができる。」
子どものころから自己主張が苦手だったというヨシタケさん。
自分の思いや気が付いたことをイラストでメモし続けている。
もともと落書きとして書いていたので小さなままである。
これが今の作品に生かされている。
(ヨシタケシンスケさん)
「当たり前すぎで誰も気づかなかったけど
この現象を僕は気づけたという喜びがあったり。
100人のうち1人2人僕みたいな人がいたとして
そういう方が“だよなぁ”と言ってくれればそれでいい。」
今年の春
ヨシタケさんは絵本ではなく育児に関する本を発表した。
『ヨチヨチ父』と名付けられたこの本。
育児に戸惑う父親の様子がユーモアあふれるイラストと文章で描かれている。
(ヨシタケシンスケさん)
「子育てをしていて一番気がつくことってやっぱり
いろんな育児本やウェブサイトがいっぱいある中で
まぁ参考にならないなと。」
2人の男の子の父親であるヨシタケさん。
最初の子育ての苦労で持ち前のネガティブさが爆発してしまった。
(ヨシタケシンスケさん)
「子どもが産まれたあとがとにかくボロボロだったので
子どもをつくって良かったんだろうかと思っちゃうんですよね。
良かったのかと思っちゃった自分にさらに落ち込む。
子育てをおもしろがれない自分ってダメなのかな・・・と。
まわりにはなかなか言えない思いをイラストで表現することで
共感して癒される人がきっといるのではないか。
ヨシタケさんの思いである。
(ヨシタケシンスケさん)
「決してつらいものとして描くんじゃなく
実際はこうだよね
でもそういうつらいことも考えようによってはおもしろくなるよねというような。」
「僕はこう納得したけど
別の人は全然違う場所をおもしろがってくれたり
そういう現象が起きてくれるのが正しい気がするというか。
読み終わった人が全然違う感想を持ってくれれば
ある意味成功なのかな。」
「むしろ自分の出来ないところを人前で言うのが気持ちいいですね。」
ヨシタケさんの絵本は決して説教臭くなく
読んでいてついニヤニヤしてしまう。
ヨシタケさんも
1人でこっそりと自分でペースで読んでほしい。
そんな絵本のあり方が好きでこういった絵本を作りたかったという。
9月12日 おはよう日本
東京六大学野球は球場で応援する人の数が年々少なくなっている。
そんななかユニークな取り組みが行われた。
9月9日に開幕した東京六大学野球。
白熱した試合。
その球場の外
正面入り口前では
東大 冷凍みかん
明治大 小籠包
慶応大 牛串
法政大 特製ちゃんこ鍋
立教大 とんぺい焼き
早稲田大 揚げ大福
各大学の学園祭で大人気のメニューが揃った。
少しでも多くの学生に観戦してほしいと開催されたイベントで
企画したのは六大学の一般の学生である。
大学の垣根を超えてスポーツビジネスを学ぶ21人。
きっかけは講義の一環としてかつての東京六大学野球の様子を見たことだった。
90年以上の歴史を持つ東京六大学野球。
その熱狂を支えてきたのは学生たちだった。
この盛り上がりを取り戻すにはどうすればいいか。
まず六大学野球の存在を身近に感じてもらおうとこの“グルメイベント”を考えた。
(グルメイベントを発案 立教大4年 中田志帆子さん)
「東京六大学野球は一般学生からしたらすごく多い存在で
堅めな感じなのかなって。
行ったら絶対楽しい雰囲気だと思ったので
そういうところをもっと伝えていきたい。」
迎えた開幕戦当日
試合開始の5時間前の午前6時
学生たちが集まってきた。
しかしさっそくトラブルが・・・。
法政大のちゃんこ鍋が
「沸騰しない。
100%間に合わない!」
初めての経験に戸惑いながらもなんとかイベント開始時間に間に合わせた。
(観客)
「グルメイベントはすごくいいイベントだと思いました。
楽しめそう。」
「来るきっかけになって
非常にいい試みだと思います。」
この日の観客数は約1万人。
去年の秋季リーグ戦平均より約2,000人増えた。
(グルメイベントを発案 立教大4年 中田志帆子さん)
「すごく大変だったけれど
やっている方の楽しそうなところを見たり
お客さんが喜んでいるのを見ると
本当にやりがいがあって
六大学野球を知っていただいたのでそこからも広めていってほしい。」
今回のグルメイベントは開幕2日間限定で行われた。
今後もさらに魅力的なイベントを企画していきたいという。
9月11日 キャッチ!
ダイアナさんは20歳で将来の国王と結婚。
20世紀最大と言われた式は生中継。
世界の実に6人に1人が見守った。
皇太子妃になり世界を魅了したダイアナさん。
際立ったのは人間味あふれる親しみやすさである。
(ダイアナ元妃を知る事前活動家)
「本来王室の子どもは乳母が面倒を見ていましたが
ダイアナ妃はそのしきたりに従うことを望みませんでした。」
ダイアナさんの元警護官は彼女が王室のしきたりを破るのを目の当たりにしてきた。
(元ダイアナ妃警護官 ケン・ウォーフさん)
「おもしろいかたでした。
子育てに関してしきたりを破ることに熱心でした。」
しかし彼女の生活には常にカメラがつきまとっていた。
記録映像では休暇を家族で過ごすダイアナ妃が
こどもたちのプライバシーを守るよう訴えている。
(ダイアナ妃)
「1人の親としてお願いします。
子どもたちの空間を尊重していただけますか。」
また舞台裏では別のドラマも展開していた。
チャールズ皇太子をめぐるカミラさんとの争いである。
元警護官は傷つくダイアナ妃を近くで見てきた。
(元ダイアナ妃警護官 ケン・ウォーフさん)
「皇太子を愛していたダイアナ妃の苦しみはよくわかっていました。」
(当時のニュース)
「女王はチャールズ皇太子とダイアナ妃が早急に離婚するよう
催促する手紙を2人に送りました。」
しかし王室の期待に反してダイアナさんは注目を浴び続けた。
その人気を生かして多くの問題に光を当て続けた。
ユニセフ
ホームレス
地雷・・・。
(当時のニュース)
「ダイアナ元皇太子妃が亡くなりました。」
パリでパパラッチに追われ交通事故で亡くなった。
早すぎる死だった。
あれから20年
ダイアナさんはイギリスに消えることのない足跡を残している。
(ABC 英国王室担当 ロバート・ジョブソン記者)
「彼女は王室を変えたんです。
息子のウィリアム王子が後を継いで国王となったとき
エリザベスではなく母の影響が大きい王室の時代が到来することでしょう。」
ダイアナさんの人となりやその意思が受け継がれている。
これ以上素晴らしいことはない。
ダイアナさんはスペンサー伯爵家の出身だが
両親の離婚など家庭は複雑だった。
より庶民的な感覚の持ち主で
子育てなども庶民の感覚を王室に取り入れていった。
ファッションにも注目が集まり
毎週のように雑誌の表紙を飾るなど非常に華やかだった。
伝統的な王室とは違い異端児だったという側面が強く
反感をかうこともあった。
ダイアナさんはメディアを使うのが上手だったので
王室にいたときには約100の団体の長をやっていたが
どんどんマスコミを引き寄せ
またそれにより注目を集めた。
それまでは王室のチャリティーなどはつつましくやるべきだという考えがあったため
王室では反発があったと考えられる。
晩年はエイズ患者に寄り添ったり社会的弱者に注目をしていき
世界中から注目を集めさせ
どんどん国民に近づいていき国民の多くから信頼と人気を得た。
1997年8月31日から9月7日の葬式までは
バッキンガム宮殿の周りにはたくさんのカードや花が寄せられ追悼された。
その年の5月に就任したばかりのブレア首相はすぐに
「彼女は民衆のプリンセスだった。」というコメントを出したが
ロンドンの北へ800キロ離れて静養中の女王陛下は何も言わず
バッキンガム宮殿に反旗も飾らない
国民の間には不満が高まった。
この20年前に女王陛下は在位20年を国民と一緒に祝ったことで
自分は人気があると思っていたのが
この20年でサッチャー改革により貧富の差が広がるなど大きく国内は変わっていた。
改革から取り残された人々が
ダイアナさんに自分を自己投影し
ともに社会や王室からなおざりにされたと
追悼の念が強くなり
それに気づいた王室は
女王陛下はロンドンに戻り葬式に出席し
ようやく国民の怒りを静めるという状況になったのである。
これにより王室は教訓を得た。
ダイアナさんが1人でチャリティ-をやっているかのような印象があったが
実は王室は膨大な数の公務をこなしている。
ダイアナさんのようにもっとマスコミを使ってアピールをしなければならない。
その結果
ホームページを作り充実させ
SNSを活用し
これにより国民の理解を得るようになった。
2012年のロンドンオリンピックでは
女王陛下のダイヤモンドジュビリー在位60周年を祝い
女王陛下はジェームズ・ボンドともに映像で参加しスカイフォールをおこなって驚かせた。
ダイアナさんの残した教訓を女王陛下を始め王室は守られている。
現在イギリス王室は約3000の公務をこなし
3000以上の団体の名誉職を務めている。
6月にエジンバラ公が96歳を迎えられ
単独の公務からは引退をしたいということになった。
女王は即位されてから65年間で
22,019回の単独公務と
5,495回のスピーチ
“世界で一番多く除幕式に立ち会った”と自身の言葉である。
現在一番忙しいチャールズ皇太子は述べ400カ国を回り
女王陛下は350か国をまわる王室外交で親善を深め
女王陛下はコモンウェルス首脳会議し長年の友人たちをつくった。
チャールズ皇太子は中東に知己がある。
イギリス王室外交が1990年のネルソン・マンデラさんの釈放にもつながったとも言われている。
ソフトな外交が積み重なりハードになる。
国民の支持なくして王室は成り立たない。
より国民に近づいた活躍に期待したい。
9月9日 おはよう日本
イスラム教の聖地メッカの近くの空港。
世界各地から巡礼用の装束に身を包んだ人たちが続々と到着した。
(マレーシアからの巡礼者)
「マレーシアから来ました。
感激しています。
何百人もの人たちがやって来るので緊張しています。」
(インドからの巡礼者)
「5年もの間ハッジの実現を待ち続けていました。
とても楽しみです。」
巡礼者たちが真っ先に目指すのはハーバ神殿である。
世界中のイスラム教徒は
毎日この方向の向かい祈りをささげている。
この神殿の周りをまわることからハッジは始まる。
ハッジは1400年前イスラム教の預言者ムハンマドが行った巡礼の道をたどる。
数日かけて20キロ以上の道のりを主に徒歩で訪れ
予言者が説教を行ったとされる場所で祈りをささげたり
予言者が悪魔にうち勝ったという故事にちなんだ儀式を行ったりする。
一切の欲望を断ち切って
神にすべてをささげ
自己の再生を目指す。
巡礼の途中には出身国ごとに滞在するテントが設けられている。
内戦が続くシリアからの巡礼者のテントには
戦闘や空爆に巻き込まれて住む場所をなくした人や家族を失った人たちも
周囲から援助を受けて参加している。
(シリアからの巡礼者)
「大変な状況ですが
資金を工面してここに来られたことを神に感謝します。
シリアを助けてほしいと神に祈ります。」
シリアからの巡礼者のワセル・ナボさん(41)。
今も政府軍と反政府勢力の対立が続くシリア北西部のイドリブからやってきた。
今年4月ワセルさんの村が爆撃を受けた。
この日の早朝
ワセルさんの自宅を爆弾が直撃。
夫婦と7人の子どもが暮らす家は一瞬にして崩れ落ちた。
(ワセル・ナボさん)
「家族と一緒に寝ていたら
突然 爆発音がして家が崩れてきました。
はじめはがれきの下から子どもの泣き声が聞こえていたのですが
時間が経つにつれて静かになっていきました。」
ワセルさんと妻 2人の子どもは助かったが
生後8か月から13歳までの5人の子どもが亡くなった。
内戦が続くなかでも家の中を笑顔で満たしてくれた子どもたち。
ハイハイを始めたばかりの末っ子の面倒をよく見てくれる兄弟思いの子どもたちだった。
(ワセル・ナボさん)
「空爆の中で私に何ができたというのでしょうか。
子どもたちが死んでいくのをただ見ているしかできませんでした。」
生きる希望を失っていたワセルさん。
周囲の人たちからの後押しを受けて一族の代表として巡礼に参加した。
(ワセル・ナボさん)
「“シリアに平和が来ますように”
そう神に祈ります。
シリア人の巡礼者はみな同じことを祈っていると思います。」
予言者ムハンマドが最後の説教を行ったとされる場所で
人々は日が暮れるまで祈りをささげる。
ハッジのクライマックスである。
亡くなった子どもたちへの強い思いを持つワセルさん。
一心に祈りをささげた。
翌日生まれ変わりを意味する儀式を経て髪を切ったワセルさん。
予言者が悪魔と対峙した故事にちなんだ“石投げ”の儀式に臨んだ。
この4か月
家族を守り切れなかった悲しみと将来への不安のさいなまれたワセルさん。
石を手に取った。
儀式を終えたワセルさんは
今はただ平穏が訪れることを願っている。
(ワセル・ナボさん)
「巡礼によって救われたような気がします。
故郷を追われた人たちが帰ってこられるよう
平和な生活に戻れるよう
心から祈ります。」
ハッジに参加した200万人のイスラム教徒。
1人1人がさまざまな思いを抱えながら日常へと戻っていく。