箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

悲しみを抱えて生きる

2020年12月29日 09時28分00秒 | エッセイ


今年は、新型コロナウイルスの感染拡大で終わる1年になります。

このウイルスに感染して亡くなった人もいました。

葬儀は生きる事実と死ぬ事実が交わる「交差点」のようなものです。残された人が亡き人を思い、悲しみを分かちあう場であるのです。

しかし、最近では葬式が簡略化されて、家族葬がここ数年間で当たり前のようになりました。故人と縁のあったお客さんの参列をお断りする葬式が増えました。

葬式の簡略化で痛みを多くの人で分かち合うことなく、残された人が個々に痛みを抱え込むようになったのです。

生活が個人化して、大切な人間関係をつなぐ糸は細くなり、死別で細くなった一本の糸が切れてしまうことになります。
そして、一人で胸いっぱいの悲しみを抱えることになってしまいます。

オンライン葬式にしても、画面越しに葬式の中継が映され、手を合わすことができたにしても、何かが足りないと感じてしいます。

それは、故人を偲ぶことができず、残された人が集まり、悲しみや寂しさを多くの人たちと共有できないからでしょう。

今年2020年に感染が広がり、いまだ終息のめどが立たない新型コロナウイルス。

感染して亡くなった人の場合、「密」や感染を避けるため、葬式そのものを行うことができなかったこともあるでしょう。

そうなると、肉親にとっては、亡くなった人と自分がどういうかかわりで、どう付き合ってきたかを回顧することもできなかった。

人生の最期の段階で別れの言葉を継げることもできなかった。

そのことを思うに、残された人の悔しさと苦しみは余りあります。

人の最期に大切で必要なのは、「共にいる」ことです。

悲しみを分ちあうという習慣が社会全体で感じられなくなり、近い人の間でもできなくなった。

いま孤立するとそのまま見放されてしまうのでないかという不安が社会を包んでいます。

悲しみから目を背けようとする社会は、生きることを大切にしていないのでないかと、わたしは思います。

よく「悲しみを乗り越えて」と言いますが、悲しみは乗り越えられるものではないと思います。
残った人が一生胸に抱えて生きていくものなのでしょう。

そのような悲しみを抱えた人は、他者の悲しみにも共感できるのです。


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