子育ては迷いと悩みの連続であると言えるでしょう。
社会が変わり、親は自分がしてもらった子育てを思い出しても、いまの子育てには役に立たないことも多いです。
わたし自身も、わが子のことで、こんなことがありました。
高校生で、一人で東京までライブへ行きたい。
許していいのか、よくないのか。
上の子は言わなかったようなことを、下の子が言います。
最初聞いたときは、あかんと感じましたが、はたしてそうだろうかと思い始め、最終的には認めました。
最初からダメと言っていれば、ダメなものはダメ、そんなことを考える相手の問題にできます。
それとも、認めないのが固すぎるのか。
こういうことを考えるのは、けっこうエネルギーがいります。
この例だけでなく、子どもの成長過程で、何か課題や心配事を感じたとき、親の育て方に問題があったのか、それともその子をとりまく生活環境に問題があるのか。
とくに中学生のような思春期の子どもの場合、親の悩みや迷いは尽きません。
ただし、悩みや迷いのあることが問題ではなく、その課題に目をそむけ、ちゃんと悩まない、ちゃんと迷わないことが問題なのです。
考えてみれば、家庭には、母親が育てられてきた歴史があり、父親にも育てられてきたという別のヒストリーがあります。
その両方を織りなして、わが子の子育て術を編みだすのが家庭です。
そもそもが、自分に刻みこまれているヒストリーが違うのだから、意見や考えが一致せず、悩みや迷いが生まれるのは当然です。
親が自分が受けてきた子育てを思い出しても、役立たないことが多いので、一つひとつ父親と母親が話し合って決めていかなければならないのです。
こう考えると、子育てはけっこうたいへんなのです。
でも、考えてみれば、人が生きていくのは悩みと迷いの連続です。
それをもちながら、我慢して、耐えて、いろいろやって生きていくのが「おとな」であるのかなと思います。
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