私たちは、毎日、たくさんのできごとや情報に接しています。
その接し方とは、見ることであったり、聞いたりすることがほとんどです。
見たり、聞いたりしたことを一つ一つ覚えていることはありません。
第一、それらを全部記憶していたら身がもちません。
それほど私たちは、たくさんのできごとや情報に、毎日接しているのです。
ただ、それらのうち、よほど印象に残ったり、とくに喜怒哀楽を感じたりしたものは、覚えているのです。
私が箕面三中に勤務した4年間でも、覚えているできごとと忘れてしまっているできごとがあります。
たとえば、着任したときのあいさつを全校生徒にしていると、体育館に阪急電車箕面線の電車の走る音が聞こえてきたことは、今でもはっきりと覚えています。
市内8中学校のうち、三中だけが電車の音が聞こえるのです。
こんなに電車に近い学校なのたと、新鮮な驚きでした。
また、生徒たちには、4年間でたくさんの話をしましたが、そのなかでも、とくに印象に残っているのは、「亡き母へのトランペット」です。
これは、東北地震で母を亡くした陸前高田市の女子高校生が、悲しみから立ち上がり、流された自宅あとで、トランペットで「負けないで」を一人で演奏して、亡き母へ捧げたという実話を全校生徒に語ったものです。
私も話しながら、胸がいっぱいになりました。
聴いていた三中の生徒が、「校長先生の話は、心に入りました」と感想を話してくれました。
ただ、このような語りは、その時の全校生徒の様子など、いまでも脳裏にしっかりと焼き付いていますが、多くの場合、人の記憶から消えていくケースが多いのです。
それほど、私たちは毎日たくさんのできごとや多くの情報に出会っていて、日々記憶は更新されているのです。
だから、私たちは、ふつう見たり聞いたりしたことは、いずれ忘れていきます。
でも、忘れないものもあり、それは見たり聞いたりしたことでも、受け手がとくに心を動かされたものは、覚えていきます。
それ以外に覚えているものは、自分が体験したことです。
つまり、見たり聞いたりしたことは忘れても、体験したことは忘れないのです。
そして、体験が人を成長させるのです。
とくに思春期の感受性が豊かで、鋭い時期に、体験したことは一生忘れることがないのです。
生徒たちには、中学時代に、さまざまな体験を重ねてほしいと願うのです。
その体験は、これから大人へと成長していく子どもたちの、人生のいしづとなります。
そして、体験したことが、なにか一つの言葉にまとめられて、凝縮して発せられた場合、言葉が残っていきます。
五木寛之さんは、そのように、後々まで残り、なにかの局面で思い出し、人生を生きる支えになることばを「杖言葉」と呼んでおられます。
三中を巣立っていった子や現2・3年生は「杖言葉」をもっているでしょうか。
(冒頭の写真は、インターネット上の「亡き母へのトランペット」の関連画像から引用しています。)
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