新型コロナウイルス感染拡大が、東京に日本全国から多くの人々が移住する「東京一極集中」に変化を与えていると言われます。去年の7月ごろから東京都からの転出が増えてきています。
とはいえ、大きな流れでは東京が政治・経済・文化の中心として、依然として大きく「君臨」しているのはゆるぎない事実です。
地方から上京した人は、まず言葉の問題に直面します。方言を使うのがはばかられるという気持ちに陥ります。
しばらくしてから、地元に帰ると「標準語をつかっている。方言はどうした」と周りの人から言われます。
それに関しての、「うしろめたさ」はあるのですが、故郷を離れて東京に住む年数が長くなるにつれ、標準語になじんでくるのが普通のようです。故郷への帰属意識が変化していくのでしょう。
ただし、大阪の人だけは、少し違っているというのがわたしの個人的見解です。
こだわってずっと大阪弁で通す人もいます。大阪人であることのアイデンティティをかたくなに維持しようとする人がいるのです。
私は生まれてこのかたずっと大阪に住んでいます。だから、かりに東京に住んでも、大阪弁をつかおうとすると思います。
大阪人の誇りや気概のようなものを保ち続ける人が多いように思います。
なぜこのことを問題にしているのかと言いますと、グローバル化が進むいまのダイバシティ(多様性尊重)という世界的潮流のなかで、人びとが文化や言葉のちがいをどう克服するかにも関係してくるからです。
マイノリティとマジョリティの関係のなかで、マイノリティはマジョリティに社会的同化していくべきなのかという問題にかかわるのです。
方言を封じこめて、標準語を使い東京に同化することで、その人は「東京人」になります。
これは、マイノリティがマジョリティに合わせる「同化」です。
しかし、本来の多様性尊重とは、マジョリティがマイノリティの文化を尊重し、マイノリティの言葉を受け入れるべきだし、マイノリティもマジョリティの文化を認めることでしょう。
言葉の問題一つとってみても大きいので、おたがいの文化を尊重し合うというのは、それほどたやすいことではありません。
私が校長をしていた中学校に、ある時イスラム系の女子生徒が転入してきました。
その生徒は頭にヒジャブをつけて学校生活を送っていました。
豚肉を食べないので、給食に豚肉が出るときは食べませんでした。
またラマダンのときは、ものを食べないので、給食の時間は教室を離れました。
クラスのまわりの子は、その習慣の説明を受け、「今日も、あの子は食べないんやね」という受け止めをしていました。それでも孤立することなく過ごしました。
このような経験をした生徒は、大人になって異なる言語、食習慣、行動様式と出会っても、その人を理解することができるようになるでしょう。
言葉や食習慣、行動様式は、その人そのものなのです。
わが国で多様性を尊重するには、学校教育で異文化理解の学習の充実が求められます。
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