戦前に埋め立てが完了した月島には石川島造船所の工場などが多く完成しており多数の交通需要があったことで、1929年(昭和4年)の「東京港修築計画」に伴う4度目の計画で勝鬨橋の架橋が実現しました。勝鬨橋の工事は1933年に着工し、1940年6月14日に完成しました。
橋の下流側の歩道を散策していきますが、意外と自転車の通行量が多かったのが驚きました。バスに乗らなくても東銀座まで自転車だと5分ほどで行ける距離だからでしょうか。さらにその先へ足を伸ばせば銀座四丁目交差点まで行くことができます。
月島側のアーチ橋は石川島造船所(石川島播磨工業)によって建造されました。ちなみに築地側のアーチ橋は横河橋梁製作所(現・横川ブリッジ)によって建造されています。当時としてはかなり大規模な橋梁だったそうです。
月島側のアーチ橋を渡り、いよいよ橋の可動部の部分を散策していきます。可動部の両脇には4箇所の作業・信号所が設置されています。
二つのアーチ橋に挟まれた中央部が上方に開く構造となっています。開く角度は最大70度、約70秒で全開になり、片側だけ開く操作も可能です。開閉機構を駆動する電動機は速度制御の容易な直流式を採用したのですが、当時は大電力の整流手段が未発達であったため、電力網から供給される3300Vの交流で電動機を回転させて直流発電機を駆動し、任意の電圧の直流を得るワード・レオナード方式が用いられました。
橋の開閉部は電動式のロックピン機構によって固定されているのですが、車の往来によって歩道部分がものすごく揺れます。特に大型トラックなどが時速50キロくらいで通過した時などには恐怖を感じるくらいです。
開閉部分から下流側を撮影してみました。隅田川の水面と、東京港周辺の高層ビル群を見渡すことができます。流石に橋の上は風が非常に強かったです。
モーターは出力が125馬力で2台あり、使用状況は通常は1台ずつ、強風や降雪など天候・環境の悪化した時は2台ずつで行っいました。開閉機構の機械は中央部の橋梁内部に収められており、前述の交流電動機と直流発電機は専用の変電設備(現:かちどき橋の資料館)に設置されていました。
築地側のアーチ橋を散策していきます。
勝鬨橋の右岸側(築地側)に到着しました。ここから800メートルほど晴海通りを歩けば銀座四丁目交差点に到達することができます。この辺りは中層マンションなどが数多く建っていました。
ここで引き返して再び勝どき橋を渡って勝どき駅前交差点まで戻ろうと思います。この位置から見上げるとやはり勝どき地区の高層マンション増加による景色の変貌を実感することができます。
帰るルートでは上流側の歩道を散策していきたいと思います。上流側には川岸に沿って高層ビルやタワーマンションなどが林立しています。
快晴の青空の中で引き立つような色鮮やかな赤オレンジ色の高層ビルは「住友生命築地ビル/興和住生築地ビル」です。その奥には「聖路加ガーデン」がそびえ立っています。
橋上から月島の埋立地を撮影してみました。中低層マンションが密集していますが、今でも新しい高層タワーマンションの建設計画があります。以前の江戸前の古き良き下町の雰囲気はあまり残っていないのが少し残念ですが、これも時代の流れなのかもしれません。
川に沿って高層ビルが立ち並んでいる風景を見ていると、ニューヨークのマンハッタン島を見ている感じになってきました。
築地地区では古巣の部類に当たる高層ビルの「聖路加ガーデン」。中央区の築地地区にある総合病院「聖路加国際病院」の敷地に隣接して建っている高層ビルで、1994年(平成6年)に竣工し、バブル時代を偲ぶような堂々とした造りのビルとなっています。
中央区の佃地区に広がっているタワーマンション群「大川端リバーシティ」をズームで撮影してみました。1980年代の後半、つまりバブルの時代前後から開発が始まり、高層住宅が集中的に建設されています。当時は「タワーマンション」という概念そのものが珍しかったので、話題になっていたと記憶しています。
江戸前の下町の風景や高層ビルが林立する首都東京の先端的な景色が同居している月島地区と、銀座の繁華街に程近い中央区の築地を勝どき橋は結んでいます。