緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

12月の永田町:山王坂上の国会議事堂と12月のイチョウ並木

2012年12月13日 21時47分07秒 | 皇居周辺・城西


山王日枝神社の敷地の東側の谷底から「山王坂」の急坂を上っていきます。この日の山王坂は、坂の全域で道路工事が実施されていました。急斜面で実施される道路工事というのは、素人目に見ても難しそうですね。この坂を上りきった高台の上には国会議事堂の敷地が広がっています。




この山王坂はものすごい急な坂となっていて、坂の脇に建っている「衆議院第二議員会館」の建物の土台を見ていただいても、その傾斜のきつさが理解できると思います。坂を上っていく乗用車などはアクセルをめいっぱい吹かしながら走行していきますし、下ってくる車もエンジンブレーキを掛けながら恐る恐る走行してきます。




坂の説明柱にはこう記されていました。「この坂を山王坂といいます。この坂のあたり明治維新まではほとんどが山王社(日枝神社)の社地であり、社前に下る坂なのでこの名がつけられたのでしょう。また一名鹿島坂と呼ばれていますが、坂の近くに明治時代の豪商鹿島清兵衛の邸宅があったのでそのようによばれたといいます。」




山王坂で行われていた道路工事というのは、車道と歩道の間の側溝を新設する工事のように見えました。これは数年前に完成した衆議院第二議員会館の新しい建物の建設工事とも関係があるのかもしれないですね。




工事用仕切り板やポールが整然と並んでいる山王坂の斜面の上には国会議事堂の頭頂部のピラミッドが見えてきました。大理石の真っ白な頭頂部は遠くからでも目立ちます。




「永田町」の地名の由来は、江戸時代初期に永田姓の屋敷が並んでいたので一帯が「永田馬場」と呼ばれたことに由来します。江戸城に近いことからさらに大名屋敷が建ち並ぶようになり、江戸末期に暗殺された井伊直弼をはじめとする多くの大名屋敷があったのです。2003年の旧首相官邸改築工事の際には村上藩内藤家の屋敷跡が発見されています。




明治時代には陸軍省などが置かれていて、当時「永田町」といえば参謀本部を指す言葉でした。1923年の関東大震災を機に現在の霞ヶ関地区の区画再編が行われ、北大路魯山人が星岡茶寮を借り受け「美食倶楽部」の拠点とし、また都立日比谷高校(当時の府立一中)がこの地の「たばこ王」 村井吉兵衛の邸宅跡に移転してきたのです。




山王坂の坂上に位置する「国会裏交差点」です。国会裏の大通りは丁度イチョウ並木の紅葉がピークを迎えていて、ハラハラと目の前でイチョウの葉っぱが散っていました。交差点を左へ曲がって北へ進み、「参議院通用門前交差点」を目指します。




1936年に国会議事堂が完成すると一挙に政治中枢が集中し、「永田町」は「政界」の代名詞になっていきます。イチョウの葉が舞い散る中を散策を続けていきます。




江戸時代に国会議事堂があった場所には何があったのか調べてみましたが、伊井掃部頭(いいかもんのかみ)屋敷の南、有馬兵部大輔、松平安芸守などの大名屋敷などがこの高台の上に密集して建っていたそうです。明治維新後に大名屋敷は全て取り壊され、明治新政府の施設が造られていったのです。




快晴の青空とイチョウ並木、そして背後には国会議事堂と素晴らしい組み合わせの写真が撮れました。




国会議事堂の北西側にある「参議院通用門前交差点」に到着しました。国会議事堂を見学する人たちを乗せた観光バスなど交通量が非常に多かったです。またこの周辺は政党の本部ビルが密集しているエリアなので制服警察官の人たちの姿が目立ちました。




交差点の北側に建っているのは参議院第二別館の建物です。




国会議事堂の北側を通っている通りは、参議院通用門前交差点から皇居方向へ向かって下り坂となっています。国会議事堂が立っている永田町周辺というのは、武蔵野台地という名前の東京の西部全域を占める地盤の硬い台地の東端部に当たる場所なのです。




ズームで撮影してみました。観光バスやタクシー、ハイヤーなど交通量が結構多かったです。




国立国会図書館の敷地前から北側を撮影してみると・・・。




現在の政権与党である「民主党」の本部ビルが見えました。この後は永田町地区を西へ向かって散策し、赤坂見附・弁慶濠方向へ向かいます。




山王坂の坂下が地図の中心点となっています。「国会裏」と書かれている交差点の場所が坂上です。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12月の永田町:地下鉄溜池山王駅前(首相官邸前)から山王坂下まで

2012年12月13日 19時43分54秒 | 皇居周辺・城西


12月初旬の平日、朝の通勤ラッシュが終わって一段落した時間帯の東京地下鉄銀座線の溜池山王駅にやってきました。これから国会議事堂や国会議員会館、各政党の本部などが立ち並んでいる千代田区の永田町周辺を散策していきたいと思います。溜池山王駅の地上出口を出ると、目の前には山王パークタワーの巨大な高層ビルがそびえ立っています。




溜池山王駅前・外堀通りから撮影した「総理大臣官邸」です。緑が散策している外堀通りは江戸城の外濠を埋め立てられて造成された大通りであり標高が付近では一番低いのです。断崖絶壁の上に官邸が建てられているようにも見えますね。12月の初めの時期であっても官邸の敷地内の紅葉は綺麗でした。




溜池山王駅・総理大臣官邸前から外堀通りを赤坂見附方向へ向かって散策していきます。江戸城時代の外濠を埋め立てられた外堀通りは、江戸城の外堀のラインそのもののルートであり、至る所でカーブを描いています。大通りに沿ってオフィスビルが整然と立ち並んでいる中を歩いていきます。




「溜池」という地名は江戸時代にこの地に作られた大規模なため池(貯水用の池)に由来しています。溜池町(後の赤坂溜池町。現在の赤坂一・二丁目の各一部)という町名が住居表示が実施された1967年まで付近に存在していたのです。溜池は江戸城の外堀をふくらませたような、細長い形をしていたそうです。




しばらく歩いていくと進行方向右側(永田町側)の高台に「山王日枝神社」の裏参道・大鳥居が見えてきました。日本の政治の中心地である永田町地区は、鳥居の後ろ側に写っている階段のような急斜面に囲まれた過酷な地形の上に広がっているのです。この階段を上って永田町地区の中へ入っていきます。




大鳥居の前で振り返ると外堀通りの南側には港区の赤坂二・三丁目のオフィスビル街や繁華街が広がっています。快晴の青空の中にそびえ立ってる高層ビルはTBS会館跡地に建設された赤坂サカスの「赤坂Bizタワー」です。赤坂の雑多な雰囲気の繁華街の中に先進的なデザインの高層ビルが建っているのは唐突な印象を受けますね。




大鳥居の上から外堀通りの「山王下交差点」を見下ろして撮影してみました。乃木坂方向へ伸びている道路は一車線しかなく、ここの交差点はいつものように渋滞が起きています。




山王日枝神社の本殿敷地へと続いている大階段を上っていきますが、階段の脇には上り専用エスカレーターが設置されているのでエスカレーターを利用することにします。赤坂から長田町方面へ向けての抜け道になっているからか、意外と人通りが多かったです。




参道の階段の一番上から振り返って外墓地通りを見下ろして撮影しました。江戸時代にはこの絶壁の下は溜池の水面が広がっていたのでしょう。2012年現在はオフィスビル街となっていますが、地形そのものは昔のままです。




外堀通りは千代田区と港区の区堺線にもなっていて、大通りの対岸は「港区の赤坂2丁目地区」のオフィスビル街となっています。




再びエスカレーターに乗って神社の本殿を目指しますが、途中で右側を見るとエスカレーターや階段が設置されている斜面のしたを通っている小さな道路がみえました。その先には・・・。




首相官邸の建物が見えました。その関係からか、溜池山王周辺は制服警察官の人たちの姿が目立っていました。




参道の階段の一番上に到着してから振り返って撮影してみました。ここまで高い位置まで来ると外堀通りが遥か遠くに見えるレベルです。ちなみに国土交通省の標高検索サイトで調べてみたところ、山王下交差点の標高は7.5メートル、階段上は28.5メートルと約20メートルもの高低差があるのです。




28メートルの高さということは、オフィスビルなどの8階前後に相当する高さですね。




山王日枝神社の本殿前にやってきました。ご覧の様に人通りがほとんどなくひっそりとした雰囲気に包まれていました。山王日枝神社は江戸城から見て裏鬼門に相当する場所にあり、万治2年(1659年)に将軍家綱によって遷座されました




敷地内から撮影した赤坂サカスの赤坂Bizタワーです。




山王日枝神社を後にして表参道の階段を下りてしばらく道なりに沿って歩くと前方に「山王坂(さんのうざか)」の斜面が見えてきました。次回の記事では山王坂を登っていよいよ国会議事堂前を散策していきます!!!




地図の中心点は山王下交差点、永田町の丘陵地帯と赤坂の繁華街の境界線となっている場所です。・・・地図で見ると、この辺りは地下鉄の路線が密集している場所なんですね。

※ここ数日ほどブログ記事の更新回数を一気に上げていますが、2012年中の散策記事は全て年内に終わらせてしまいたいためです。12月は年末で忙しい東京の様子や、クリスマスイルミネーションなど取り上げる内容が目白押しなのでご了承ください。今年は東京駅丸の内駅舎のイルミネーションや銀座「ヒカリミチ」の二つを取り上げようと思います。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12月の日本橋:日本橋南詰めから日本銀行本店前へ(2)

2012年12月13日 17時14分35秒 | 中央区全域・銀座


日本橋北詰交差点から中央通りを散策し、三越百貨店日本橋本店、三井本館、三井新館の脇を通り、日本橋本石町にある日本銀行本店前へ向かいます。12月初旬の散策なので人通りがいつもよりも多い中を散策していきます。日本橋周辺の中央通りは以前は道路工事が頻繁に行われていたのですが、どうやら終わったみたいです。




三越百貨店日本橋本店の本館です。三井財閥(現三井グループ)のルーツとなった「越後屋」の呉服店事業を引継いだ為、「三井財閥(現三井グループ)の礎を築いた企業である」とされることも多いのですが、企業としての三越としてみるならば、三井の事業から呉服店部門のみを「合名会社三井呉服店」として分離したのが始まりです。




江戸時代の1673年(延宝元年)に「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせた呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業しました。




現在の商号「三越」は、三井家の「三井」と創業時の「越後屋」からとったもので、1904年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称した際からのものです。この改称の案内の際に「デパートメントストア宣言」を行い、そのことを以て日本での百貨店の歴史が始まりすることが多いのだとか。




ショッピングゾーンの「COREDO室町」が低層階に入居している室町東三井ビルディングを撮影してみました。こちらも正面エントランスにクリスマスリースが掲げられているなど年末の雰囲気に包まれていました。




三井財閥の創業家である三井家の歴史は太政大臣・藤原道長に発し、その後藤原右馬之助信生が近江に移って武士となり、初めて三井の姓を名乗ったといいます。三井高俊は質屋を主業に酒、味噌の類を商った。店は「越後殿の酒屋」と呼ばれ、これがのちの「越後屋」の起こりとなるのです。




高俊の四男・三井高利は伊勢から江戸に出て1673年(延宝元年)越後屋三井呉服店(三越)を創業します。京都の室町通薬師町に京呉服店(仕入れ部)を創業します。都や大阪でも両替店を開業し、当時の商法をくつがえす「店前売り」と「現金安売掛け値なし」などで庶民の心をとらえ繁盛しました。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となったのです。




三井家は明治維新新政府の資金要請に応え、政商の基盤を確固たるものにしました。三井は幕府御用を全面的に歓迎した訳では無かったのですが、幕府との関係は初期の経営に重要な役割を果たし、公金為替による幕藩体制との密着度は深くなり、幕末・維新期では日本政府は三井との関係無しでは存立がいかない状況となっていたのです。




日本橋本石町二丁目地区にある「日本銀行本店」前にやってきました。本館の建物の設計は辰野金吾で、ベルギー国立銀行を参考に1896年(明治29年)2月に竣工しました。1891年(明治24年)に発生した濃尾地震の教訓から、高橋是清の指示で建物上部を軽量化し耐震性を高めることを決定し、2階3階は煉瓦造石貼りに変更されました。




日本銀行は日本銀行法に基づく認可法人であり、日本国の中央銀行です。略称は日銀(にちぎん)。幕府御用を務め、王政復古の発令を経て維新政府の為替方となった三井組は、最初に大蔵省の前身となる金穀出納所御用達を受諾します。そして御為替方三井組を称するようになったのです。




三井は政府の殖産資金創出策にタイアップして活躍し、銀行業者としての貴重な体験を得ます。為替会社の設立がそれであり、通商・為替会社はまず東京で設立され、ついで大阪・横浜・西京(京都)・大津・神戸・新潟・敦賀に設けられ、重要な地位に就いたのです。




大蔵省で国立銀行の準備に当たっていた渋沢栄一は、三井・小野両組共同で銀行設立を提案し、両組は政府主導による設立を望んでいなかったのですが、公金取り扱いの特権剥奪を条件に出され、やむなく「三井小野組合バンク」の創設に協力することとなります。明治6年に三井・小野両組合作の「第一国立銀行」が発足し、両当主が頭取、三野村が支配人、渋沢はこの銀行を主宰する総監役に就任しました。




明治政府は日本銀行の設立と官金取引業務の縮小を決定します。国庫金取引は日銀の重要業務の一つと定められ、これまで三井が行ってきた為替方は全廃されることになったのです。また日銀創立に際し、三井銀行の総長代理副長三野村利助が同行理事に任命されました。日本銀行の本店が三井本館の隣に建っているのはそれが大きな理由なのですね。




外堀通りの「常盤橋交差点」に到着しました。明治時代に竣工した日本銀行本店の建物がいい雰囲気を出していました。




常盤橋交差点前の大手町寄りに建っている「東洋経済新報社」のビルです。書店などの経済誌コーナーに並んでいる「週刊東洋経済」の専門誌が有名ですね。創刊されたのは1895年(明治28年)と日本最古の週刊誌なのだそうです。経済誌の販売面ではインターネットなどとのクロスメディアや宣伝活動を活発に行っている1位の『日経ビジネス』、2位の『週刊ダイヤモンド』に続く3位となっています。




常盤橋交差点から撮影した日本銀行本店の全景です。外堀通りの車列が途切れた瞬間を狙って撮影してみました。これで12月の日本橋の散策は終わりです。




外堀通りの常盤橋交差点で散策は終わりです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする