山王日枝神社の敷地の東側の谷底から「山王坂」の急坂を上っていきます。この日の山王坂は、坂の全域で道路工事が実施されていました。急斜面で実施される道路工事というのは、素人目に見ても難しそうですね。この坂を上りきった高台の上には国会議事堂の敷地が広がっています。
この山王坂はものすごい急な坂となっていて、坂の脇に建っている「衆議院第二議員会館」の建物の土台を見ていただいても、その傾斜のきつさが理解できると思います。坂を上っていく乗用車などはアクセルをめいっぱい吹かしながら走行していきますし、下ってくる車もエンジンブレーキを掛けながら恐る恐る走行してきます。
坂の説明柱にはこう記されていました。「この坂を山王坂といいます。この坂のあたり明治維新まではほとんどが山王社(日枝神社)の社地であり、社前に下る坂なのでこの名がつけられたのでしょう。また一名鹿島坂と呼ばれていますが、坂の近くに明治時代の豪商鹿島清兵衛の邸宅があったのでそのようによばれたといいます。」
山王坂で行われていた道路工事というのは、車道と歩道の間の側溝を新設する工事のように見えました。これは数年前に完成した衆議院第二議員会館の新しい建物の建設工事とも関係があるのかもしれないですね。
工事用仕切り板やポールが整然と並んでいる山王坂の斜面の上には国会議事堂の頭頂部のピラミッドが見えてきました。大理石の真っ白な頭頂部は遠くからでも目立ちます。
「永田町」の地名の由来は、江戸時代初期に永田姓の屋敷が並んでいたので一帯が「永田馬場」と呼ばれたことに由来します。江戸城に近いことからさらに大名屋敷が建ち並ぶようになり、江戸末期に暗殺された井伊直弼をはじめとする多くの大名屋敷があったのです。2003年の旧首相官邸改築工事の際には村上藩内藤家の屋敷跡が発見されています。
明治時代には陸軍省などが置かれていて、当時「永田町」といえば参謀本部を指す言葉でした。1923年の関東大震災を機に現在の霞ヶ関地区の区画再編が行われ、北大路魯山人が星岡茶寮を借り受け「美食倶楽部」の拠点とし、また都立日比谷高校(当時の府立一中)がこの地の「たばこ王」 村井吉兵衛の邸宅跡に移転してきたのです。
山王坂の坂上に位置する「国会裏交差点」です。国会裏の大通りは丁度イチョウ並木の紅葉がピークを迎えていて、ハラハラと目の前でイチョウの葉っぱが散っていました。交差点を左へ曲がって北へ進み、「参議院通用門前交差点」を目指します。
1936年に国会議事堂が完成すると一挙に政治中枢が集中し、「永田町」は「政界」の代名詞になっていきます。イチョウの葉が舞い散る中を散策を続けていきます。
江戸時代に国会議事堂があった場所には何があったのか調べてみましたが、伊井掃部頭(いいかもんのかみ)屋敷の南、有馬兵部大輔、松平安芸守などの大名屋敷などがこの高台の上に密集して建っていたそうです。明治維新後に大名屋敷は全て取り壊され、明治新政府の施設が造られていったのです。
快晴の青空とイチョウ並木、そして背後には国会議事堂と素晴らしい組み合わせの写真が撮れました。
国会議事堂の北西側にある「参議院通用門前交差点」に到着しました。国会議事堂を見学する人たちを乗せた観光バスなど交通量が非常に多かったです。またこの周辺は政党の本部ビルが密集しているエリアなので制服警察官の人たちの姿が目立ちました。
交差点の北側に建っているのは参議院第二別館の建物です。
国会議事堂の北側を通っている通りは、参議院通用門前交差点から皇居方向へ向かって下り坂となっています。国会議事堂が立っている永田町周辺というのは、武蔵野台地という名前の東京の西部全域を占める地盤の硬い台地の東端部に当たる場所なのです。
ズームで撮影してみました。観光バスやタクシー、ハイヤーなど交通量が結構多かったです。
国立国会図書館の敷地前から北側を撮影してみると・・・。
現在の政権与党である「民主党」の本部ビルが見えました。この後は永田町地区を西へ向かって散策し、赤坂見附・弁慶濠方向へ向かいます。
山王坂の坂下が地図の中心点となっています。「国会裏」と書かれている交差点の場所が坂上です。