緑の、東京ブログ

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

12月の皇居東御苑:本丸跡地広場の散策と大手町の高層ビル群

2012年12月16日 08時46分06秒 | 皇居周辺・城西


本丸地区は江戸城の中心であり、周囲に石垣と濠をめぐらした高台で約13万平方メートル(約4万坪)と最も広い場所となっています。現在は本丸跡地として大きな芝生の広場になっています。大都会の喧騒とは切り離されているような雰囲気で、ひっそりとしていました。




江戸城(えどじょう)は武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城です。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれていたそうです。江戸城は麹町台地の東端に扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城です。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になりました。




広場の高台からは大手町や丸の内の高層ビル群を見渡すことができます。既にこの隣り合っている二つの地区の高層ビル群のラインそのものは一体化しているようにも見えますね。




行幸通りを挟むように隣り合って建っている丸の内ビルと新丸の内ビルです。




15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が1457年(長禄元年)に江戸城を築城しました。それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされています。




1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城します。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられて、駿府(静岡)から転居した権大納言である徳川家康が、同年8月1日(1590年8月30日)に公式に入城し居城としたのです。




家康が入城した当初は、道灌築城時のままの姿を残した比較的小規模で質素な城であったため、徳川家は開幕までにそれまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築します。また道三掘や平川の江戸前島中央部(外濠川)への移設、それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っています。




1603年(慶長8年)に家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手します。神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行っています。この時に現在の皇居周辺の地形が大体が完成したと言われています。




1606年(慶長11年)には諸大名から石材を運送させ城郭の増築をしました。その工事内容は外郭石壁普請、天守台の築造、石垣普請、本丸の普請、城廻の普請などです。




本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展しました。その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けました。




前方に見えるのは天守台の跡地です。次回の記事で登ってみたいと思います。




本丸御殿を擁する江戸城並びに徳川家、江戸幕府の中心であった「本丸」のこの広大な広場に建物が建てられていましたが、江戸時代後期の大火によって消失して以来、再建されていません。




江戸城本丸といえば、江戸城内の松の廊下にて赤穂藩藩主浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に対して刃傷沙汰を犯した「松之大廊下」があることで有名ですね。




松之大廊下(まつのおおろうか)は、江戸城内にあった大廊下のひとつです。本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長約50メートル、幅4メートルほどの畳敷の廊下であり廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから松之大廊下と称されたのです。




広場を囲っている木々の奥に見える高層ビルは東京地下鉄東西線大手町駅前で建設中の「東京プライムステージ」のビルです。以前は「(仮称)大手町1-6計画」と呼ばれていたのですが、最近ようやく正式名称が決定しました。高さは200メートルと大手町地区では一番高い高層ビルとなります。




江戸城天守台の跡が見えてきました。




天守台の前から撮影した本丸跡地広場の全景です。




現在の江戸城本丸跡地は広大な広場になっています。

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