「竹橋」は徳川氏の関東入国以前にすでに存在していた歴史の古い橋です。竹橋の名前の由来は、竹を編んで渡した橋だったからとも、また後北条家の家臣・在竹四郎が近在に居住しており「在竹橋」と呼んだのが変じたものとも言われています。「別本慶長江戸図」には『御内方通行橋』と記してあり、主として大奥への通路に用いられたようです。
竹橋を渡った場所には「竹橋見附門」という名前の枡形地形の御門が存在しました。江戸城の北側の守りという重要な位置にあるため、厳重な警備がなされていたそうです。正面に見えるビルは毎日新聞東京本社等が入居している「パレスサイドビル」です。高度成長時の1966年に竣工したビルです。
代官町通りから北の丸公園の緑地帯の中を進んでいきたいと思います。平川濠に沿った低地から急な上り坂が緑地帯の中へ伸びています。この通りをまっすぐ道なりに進めば日本武道館前に出ることができます。
歩道橋の上から竹橋方向を撮影してみました。竹橋の北側に建っているパレスサイドビル(毎日新聞東京本社)の一帯には、江戸城内で消費する御用米の精米や餅をつく「御春屋」(おつきや)がありました。御春屋とは江戸城内で使われる食材や燃料などを集荷管理する施設のことです。
明治維新後は大手町・竹橋一帯は中央省庁や陸軍の施設が立ち並ぶことになりますが、パレスサイドビルがあった場所には文部省の庁舎が建っていたのです。戦後の昭和41年(1966年)にパレスサイドビルが竣工し、毎日新聞東京本社が有楽町から竹橋に移転してきました。
この歩道橋があるあたりはかなり標高が高くなっていて、竹橋の橋梁が遥か下の方に見える感じですね。
「北の丸公園」の緑地帯を散策していきます。北の丸公園は名前の通り江戸城の北の丸であった場所で、現在は環境省の管理する国民公園の一つです。多くの文化施設を公園内に持ち、旧江戸城の遺構(田安門、清水門はいずれも重要文化財に指定)も多いです。ビルが立ち並ぶ都心部にあって緑が豊かな場所なのです。
もともと太田道灌らが江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(旧田安明神)の旧地であり、後に徳川家康が入府した際に、関東代官であった内藤清成らの屋敷となったため、代官町と呼ばれた場所です。
その後は徳川忠長や徳川綱重らの屋敷を経て、明暦の大火以後は火除け地になっていたのですが、8代将軍である徳川吉宗が就任してからは徳川氏の御三卿であった田安徳川家が1731年に、清水徳川家が1759年に上屋敷を構えるようになりました。敷地内には御蔵地や植溜御用地、馬場などもあったそうです。
「科学技術館」。この日は人影がほとんどなく、ひっそりと静まり返っていました。
明治維新後は明治政府によって近衛師団の兵営地が設置されました(現在の東京国立近代美術館工芸館は、近衛師団司令部の建物を改修して利用している)。戦後は1946年(昭和21年)に東京特別都市計画によって皇居周辺の緑地として整備されることが決定され、旧近衛連隊等の多くの建物が撤去されました。
1964年開催の東京オリンピックの会場のひとつとして建設され、同年10月3日に落成した「日本武道館」です。周囲が無人に近く、ひっそりとしている武道館を眺めるのは初めてです。
日本武道館の脇を通り抜けていきます。1963年(昭和38年)に建設省が森林公園として整備を開始し、1969年(昭和44年)に昭和天皇の還暦を記念して開園、一般公開されます。その後厚生省が管理し、現在は環境省が管理する国民公園となっています。
北の丸公園の北端部、九段坂に面した位置に立っている「田安門」が見えてきました。この田安門や日本武道館周辺、千鳥が淵周辺は桜の名所として有名ですが、今の季節ですと枯れ木となっています。
枯れ木の桜並木の中を抜けていきます。桜が満開となる4月の上旬には桜見物のために多くの人々で賑わう田安門ですが、この日は閑散としていました。
九段坂に到着し、これで12月の皇居東御苑の散策は終わりです。この後、靖国神社へお参りへ行きました。
北の丸公園内は一本道の散策だったので、迷うことはありませんでした。