緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

12月の皇居東御苑:北の丸公園の緑地帯を通り抜けて九段坂へ

2012年12月17日 15時34分38秒 | 皇居周辺・城西


「竹橋」は徳川氏の関東入国以前にすでに存在していた歴史の古い橋です。竹橋の名前の由来は、竹を編んで渡した橋だったからとも、また後北条家の家臣・在竹四郎が近在に居住しており「在竹橋」と呼んだのが変じたものとも言われています。「別本慶長江戸図」には『御内方通行橋』と記してあり、主として大奥への通路に用いられたようです。




竹橋を渡った場所には「竹橋見附門」という名前の枡形地形の御門が存在しました。江戸城の北側の守りという重要な位置にあるため、厳重な警備がなされていたそうです。正面に見えるビルは毎日新聞東京本社等が入居している「パレスサイドビル」です。高度成長時の1966年に竣工したビルです。




代官町通りから北の丸公園の緑地帯の中を進んでいきたいと思います。平川濠に沿った低地から急な上り坂が緑地帯の中へ伸びています。この通りをまっすぐ道なりに進めば日本武道館前に出ることができます。




歩道橋の上から竹橋方向を撮影してみました。竹橋の北側に建っているパレスサイドビル(毎日新聞東京本社)の一帯には、江戸城内で消費する御用米の精米や餅をつく「御春屋」(おつきや)がありました。御春屋とは江戸城内で使われる食材や燃料などを集荷管理する施設のことです。




明治維新後は大手町・竹橋一帯は中央省庁や陸軍の施設が立ち並ぶことになりますが、パレスサイドビルがあった場所には文部省の庁舎が建っていたのです。戦後の昭和41年(1966年)にパレスサイドビルが竣工し、毎日新聞東京本社が有楽町から竹橋に移転してきました。




この歩道橋があるあたりはかなり標高が高くなっていて、竹橋の橋梁が遥か下の方に見える感じですね。




「北の丸公園」の緑地帯を散策していきます。北の丸公園は名前の通り江戸城の北の丸であった場所で、現在は環境省の管理する国民公園の一つです。多くの文化施設を公園内に持ち、旧江戸城の遺構(田安門、清水門はいずれも重要文化財に指定)も多いです。ビルが立ち並ぶ都心部にあって緑が豊かな場所なのです。




もともと太田道灌らが江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(旧田安明神)の旧地であり、後に徳川家康が入府した際に、関東代官であった内藤清成らの屋敷となったため、代官町と呼ばれた場所です。




その後は徳川忠長や徳川綱重らの屋敷を経て、明暦の大火以後は火除け地になっていたのですが、8代将軍である徳川吉宗が就任してからは徳川氏の御三卿であった田安徳川家が1731年に、清水徳川家が1759年に上屋敷を構えるようになりました。敷地内には御蔵地や植溜御用地、馬場などもあったそうです。




「科学技術館」。この日は人影がほとんどなく、ひっそりと静まり返っていました。




明治維新後は明治政府によって近衛師団の兵営地が設置されました(現在の東京国立近代美術館工芸館は、近衛師団司令部の建物を改修して利用している)。戦後は1946年(昭和21年)に東京特別都市計画によって皇居周辺の緑地として整備されることが決定され、旧近衛連隊等の多くの建物が撤去されました。




1964年開催の東京オリンピックの会場のひとつとして建設され、同年10月3日に落成した「日本武道館」です。周囲が無人に近く、ひっそりとしている武道館を眺めるのは初めてです。




日本武道館の脇を通り抜けていきます。1963年(昭和38年)に建設省が森林公園として整備を開始し、1969年(昭和44年)に昭和天皇の還暦を記念して開園、一般公開されます。その後厚生省が管理し、現在は環境省が管理する国民公園となっています。




北の丸公園の北端部、九段坂に面した位置に立っている「田安門」が見えてきました。この田安門や日本武道館周辺、千鳥が淵周辺は桜の名所として有名ですが、今の季節ですと枯れ木となっています。




枯れ木の桜並木の中を抜けていきます。桜が満開となる4月の上旬には桜見物のために多くの人々で賑わう田安門ですが、この日は閑散としていました。




九段坂に到着し、これで12月の皇居東御苑の散策は終わりです。この後、靖国神社へお参りへ行きました。




北の丸公園内は一本道の散策だったので、迷うことはありませんでした。

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12月の皇居東御苑:平川門を通り抜けて竹橋(パレスサイドビル前)まで

2012年12月17日 13時50分22秒 | 皇居周辺・城西


江戸城二の丸跡地・庭園を後にして散策道を道なりに沿って北へ進み、平川橋・平川門へ向かいます。本丸や天守があった広大な丘陵地帯の淵にそびえ立っている巨大な石垣を左側に眺めながら散策を進めていきます。




カーブを抜けていくと・・・。また高い石垣に囲まれた江戸城の門の跡地が見えました。




皇居東御苑の入口の一つであり、江戸城の「平川門」に到着しました。この門の枡形の中にある守衛所に、大手門前の守衛所で受け取ったプラスチックカードを手渡して敷地を出ることになります。二の門である渡櫓を通り抜けていきます。




平川門の枡形内から撮影した「清水濠」の様子です。ここ平川門は江戸時代以前の大田道灌の時代から建てられているほど古いもんなのだそうです。




平川門は江戸城の艮(うしとら)の方角(東北)、つまり鬼門(きもん)にあたる位置にあるので「不浄門(ふじょうもん)」とも呼ばれ城内の死者や罪人を出す特殊な用途の門でもありました。また「御局御門(おつぼねごもん)」とも呼ばれ、大奥女中の通用門としても使用されていました。




平川門の一の門である「平川高麗門」を内側から撮影してみました。こちらも大手高麗門と同じく、内側に開き戸用の屋根が取り付けられています。




平川高麗門前から竹橋地区へ架橋されている木橋である「平川橋」を渡っていきます。めは慶長19年(1614年)に架けられましたが、その後しばしば改修が行われました。現在の橋は昭和63年に改架された姿の木橋で、長さ29.7メートル、幅7.82メートルです。平川門は江戸城三丸の正門でもありました。




平川橋の上から大手町方向を撮影してみました。内濠の縁に沿って「内堀通り」の大通りが通っており、交通量は多かったです。




内堀の脇に建っているこの建物は大手商社である「丸紅本社ビル」です。みずほグループ(旧芙蓉グループ)の総合商社であり、長い間大阪市内に本社を置いていたのですが、2003年(平成15年)6月に東京に本社を移転しました。それまで大阪市中央区の本町の旧本社は大阪支社に格下げされています。




同じく橋の上から北の丸方向を撮影してみました。内濠に沿って並んでいる木々も紅葉が大変綺麗です。




ズームで撮影してみると内濠に架橋されている「竹橋」が見えます。この後に参道を歩いて竹橋へ向かいたいと思います。




竹橋脇に到着しました。ここは「千代田区の一ツ橋一丁目」地区と呼ばれていますが、竹橋が架橋されていること、この場所に東京地下鉄東西線の竹橋駅が地下に設置されていることから、一般的に竹橋と呼ばれることが多いそうです。




「竹橋交差点」、この交差点の北側には一ツ橋地区のオフィス街が整然と続いています。




緑が東京へアクセスする時にいつものように利用している東京地下鉄東西線の駅がある場所なので、ここ竹橋は人一倍思い入れが大きい場所です。




竹橋の上から平川門方向を撮影してみました。平川橋のアーチ橋と背後に林立している大手町の高層ビル群が大変美しい景観を作り出していました。




ズームで撮影してみました。次回の記事では竹橋から北の丸公園の緑地帯の中を歩いて科学技術館、日本武道館、田安門へ向かいます。




平川門の北側がパレスサイドビルなどが建っている竹橋と呼ばれているエリアです。地図で見ると、竹橋駅というのは内堀通りの道路の下ではなくて、内濠の水面の真下にホームがあるのですね。

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12月の皇居東御苑:紅葉で美しい江戸城二の丸庭園の散策

2012年12月17日 10時39分23秒 | 皇居周辺・城西


慶応3年(1867年)に二の丸の御殿が消失した後はほとんど顧みられませんでしたが、昭和35年(1960年)の閣議決定において皇居東地区の旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居付属庭園として整備することになり、昭和43年(1968年)に竣工し、一般公開されました。二の丸庭園は9代将軍家重時代の庭絵図面をもとに回遊式庭園として復元されました。




散策日は紅葉が大変綺麗だったためか、意外と散策者の姿が多く目立っていました。普段の時期は閑散としているそうです。散策道の脇に座って絵を描いている人の姿も目立ちました。




二の丸庭園は、庭園の中央部に池を配置し、その周囲に散策道を張り巡らされています。日本庭園として典型的な池泉回遊式庭園として造営されています。




東京都心部のど真ん中にここまで整然と手入れがなされている日本庭園が存在したことに驚きましたが・・・。




元々の二の丸庭園は小堀遠州の作庭による池泉庭園であったのですが、後に家光が本丸御殿に準じた規模の御殿と庭園に作り直させ、世継竹千代(4代将軍家綱)の居所としたのです。その後二の丸御殿は前将軍の側室が晩年を過ごす場所となりました慶応3年(1867年)の江戸城開城の直前に全焼し、以後そのままになっていたのです。




松の木と紅葉の真っ赤なコントラストが堪りません・・・。




散策道には橋が架けられているみたいです。




木橋の上から「洲浜」と呼ばれている池の端を撮影してみました。




池の北側は小高い高台の斜面となっていて、中には滝らしきものも見えました。




池の中には「ヒレナガニシキゴイ」という珍しい種類の鯉が何匹も泳いでいました。人間慣れしているようで、緑がそばにいてもまったく動じることはなかったです。




洲浜の脇から撮影してみました。




散策道に沿って歩いていきます。




松の木と紅葉が並んで立っている場所です。




二の丸庭園は菖蒲園が一年を通した中で有名だそうですが、紅葉の時期も素晴らしいと思います。




庭園の東側の端から撮影してみました。




実際に歩いてみると、池の水源となっている斜面や周囲の高台、滝の存在などかなり立体的な景色を楽しめる庭園だったと思います。




庭園の周囲を囲っている緑地帯の木々の上からは大手町の高層ビル群を見上げることができます。次回の記事では平川門から皇居東御苑の敷地を出て、竹橋経由で北の丸公園へ向かいます!!!




大手町の高層ビル群から程近い場所にきれいに整備されている日本庭園です。

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12月の皇居東御苑:本丸の天守台前から二の丸庭園まで

2012年12月17日 09時48分52秒 | 皇居周辺・城西


江戸城本丸跡地広場の北側にあるのが「本丸の天守台」跡地です。江戸城の天守閣は五層51メートルと日本最大の規模で1607年(慶長12年)に完成しました。しかし1657年(明暦3年)1月の江戸の6割を焼く尽くした振袖(ふりそで)の火事で本丸・二の丸・三の丸などとともに焼失し、再建される事はなかったのです。




天守台に登ることができる階段の上から本丸御殿が立っていた広場を見渡してみました。広大な面積を誇る広場と、その奥の大手町の高層ビル群が素晴らしい景観を作り出していました。




天守台の上は展望台となっていて、標高25メートルの高台の天守の上から周囲を見渡すことができます。この天守台の上に5重5階(地階を含めれば6階)の独立式層塔型の天守が建てられていたのです。




天守台の上から北方向を撮影してみると、本丸の北側にあった北の丸、現在の「北の丸公園」の広大な緑地帯が広がっているのが見えました。緑地帯の手前に写っているのは皇居東御苑の入口の一つである「北桔橋門」です。




鬱蒼とした雰囲気の北の丸公園の緑地帯、ちょうど紅葉が見頃になっているみたいです。後ほど北の丸公園を散策していきます。




展望台の上にはベンチが設置されているなど、休憩をすることができます。かなり標高が高い場所なので周囲を見渡すことができました。




天守台の展望台を降りて、二の丸庭園へ向かいたいと思います。




本丸跡地広場から二の丸方向へ伸びている散策道を歩いていきます。




本丸跡地広場のある丘陵地帯の高台から二の丸へ伸びている「汐見坂」です。坂の脇に建てられていた標識板にはこのように説明がなされていました。「本丸と二の丸をつなぐ坂道でした。その昔、今の新橋から皇居前広場の近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができました。坂の上には、汐見坂門が設けられていました。」




汐見坂の坂上から「二の丸庭園」や「二の丸雑木林」の広大な緑地帯を見下ろして撮影してみました。12月の初旬の散策だったので枯れ木になっているかと思いきや、紅葉のピークを迎えている最中でした。




本丸跡地の高台と、丸の内に程近い低地に造営されている二の丸の間には「白鳥濠」という名前の内濠があります。




紅葉のピークを迎えている二の丸の雑木林の中の散策道を歩いていきます。




雑木林の中を抜けると視界が開けて広大な「二の丸庭園」、日本庭園に出ることができます。「江戸城二の丸」は将軍の別邸やお世継ぎの御殿が建てられていた場所であり、本丸と大手濠に囲まれた低地の中に造営されています。御茶屋や泉水も造られていましたが、基本的には本丸御殿を簡略化して造られていました。




先程まで散策していた二の丸の雑木林のあった場所に二の丸御殿が建てられていました。寛永13年(1636年)に建設された初代御殿は5年後には早くも取り壊され、1643年(寛永20年)には本丸御殿を簡略化した御殿が完成します。この御殿も明暦の大火で焼失し、越谷別殿を移築しているのです。




この後も1704年(宝永元年)、1760年(宝暦10年)に工事や再建が行なわれたのですが、1867年(慶応3年)に焼失してその歴史を終えることになります。




次回の記事では二の丸庭園の中を散策していきます。




江戸城の天守(寛永時代の天守)は広大な本丸跡地の北側に建設されていたのです。

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