歩道橋を降りて表参道ヒルズへ向かって散策を続けていきます。・・・それにしても年末の表参道は人通りが激しかったです。この混雑が1キロ先にあるJR原宿駅周辺まで続いていました。この日の天気は雲一つない快晴だったのですが、気温は5度を切るくらいに寒かったです。
表参道は明治神宮創建前年の1919年(大正8年)に同神社の正面側参道として整備されました。現在ケヤキ並木で知られる表参道ではありますが、明治神宮鎮座時には街路樹はなく、その翌年になってケヤキの若木200本が植樹されたのです。
前方に表参道ヒルズ同潤館の建物が見えてきましたが、表参道ヒルズ周辺も人通りが非常に多かったです。表参道の歩道部分に植えられているケヤキ並木は枯れ木となっているので、建物全体を見渡すことができました。
1927年(昭和2年)には同潤会渋谷アパート(後に青山アパートと改称)が、沿道北側の穏田地区に建設されます。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)の5月にはアメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)によって表参道付近も甚大な被害を受け、周囲の建物とともに表参道のケヤキの大部分も焼失しました。
日本の敗戦後、占領軍であるアメリカ軍が明治神宮に隣接する代々木公園に軍施設やワシントンハイツを建設し、これを機に沿道にはアメリカ人向けの店が出来始めます。1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発すると日本はアメリカ軍の中継地となり、これらの店は益々繁盛するようになったのです。
1964年(昭和39年)には近隣の代々木第一体育館などを会場として東京オリンピックが開催され、翌年にはコープオリンピアが竣工しました。1970年代以降には「原宿・表参道」として、もしくは「青山・表参道」として、若者文化・流行の発信地として活気を得、さらには高級ブランド店の集積地となっています。
2006年2月11日(建国記念の日)に開業した表参道ヒルズです。完成してから約6年近く経ち、すっかり表参道のケヤキ並木道の風景の中に溶け込んでいます。
この場所にはかつて同潤会青山アパートという名前の共同住宅が建てられていました。大正から昭和初期にかけて16ヶ所余りで建設された同潤会アパートのひとつであったのですが2003年(平成15年)に解体され、跡地には複合施設「表参道ヒルズ」が建設されたのです。
この界隈は江戸時代、西隣にある渋谷区立神宮前小学校から現在の神宮前5丁目付近までに及ぶ敷地を有する広島藩・浅野家の下屋敷でした。財団法人同潤会によって建設され、1926年(大正15年)に第一期、翌1927年(昭和2年)に第二期が竣工しました。
終戦後、同潤会アパートはそれまでの所有・管理者であった同潤会から東京都に引き継がれ、さらに1950年(昭和25年)になると各住民に払い下げられました。個人の所有となったアパートの部屋は、1960年代以降に原宿・表参道地区がファッションの中心として発展するとともにブティックやギャラリーとしても使用されるようになったのです。
一方で建物や設備の老朽化が進み、次第に住民の多くが建て替えを希望するようになります。それに対して各界からは建物の保存が強く求められたものの、同潤会青山アパートは2003年(平成15年)に解体され、跡地には2006年(平成18年)に複合施設「表参道ヒルズ」が竣工したのです。
表参道の大通り周辺は高級ブランドショップが立ち並び、人通りもすごく多いのですが、この界隈(渋谷区の神宮前地区)というのは山の手の閑静な住宅街なのです。なので同潤会青山アパートの再開発工事は「住宅街における複合再開発」というコンセプトで設計や立案が進められていきます。
再開発工事はアークヒルズや六本木ヒルズなど、住宅密集地における再開発工事を数多く手がけてきた森ビルによって計画が推進されました。設計責任者は世界的にも有名な安藤忠雄氏です。元々道路に挟まれた細長い敷地であったため、斜線制限により高層建築を造るのは難しい敷地でした。
ケヤキ並木の景観と調和させることもあって地上部分を3階と低く抑え、地下3階とあわせて6層分のフロアとしています。表参道ヒルズ本館と西館の間に設置されているメインエントランスが見えてきました。
表参道ヒルズ本館のメインエントランスに到着しました。エントランス前は広場になっていて、クリスマスツリーが設置されていました。
表参道ヒルズ周辺も閑静な住宅地となっています。