大手高麗門・大手門渡櫓を通り抜けて「百人番所」がある広場へ向かいます。江戸時代の大手高麗門が江戸城の正門であり、現在緑は江戸城内の目抜き通りを散策していることになります。
宮内庁病院の敷地に隣接するようにひっそりと建っている建物は「宮内庁・三の丸尚蔵館」です。昭和天皇の崩御後の1989年6月に皇室から寄贈されて国庫に帰属した美術品を保存、研究、公開するための施設として1993年に開館しました。
収蔵品には、明治以前から皇室に伝来した品のほか、帝室技芸員に任命された美術家の制作した作品、焼失した皇居の明治宮殿で使用されていた調度、装飾品類、明治以降に旧大名家、旧摂関家や財界人等から皇室に献上された美術品などが含まれています。
三の丸尚蔵館前から振り返って大手町の高層ビル群を撮影しました。屋上でタワークレーンを解体工事中の「(仮称)読売新聞東京本社ビル」の高さ200メートルの高層ビルの存在感が目立ちます。
しばらく道なりに沿って歩くと、前方に「同心番所」とその手前側に設置されていた「大手三の門」跡地が見えてきました。この日は幾分涼しくなっているとはいえ30度前後の気温であり、散策する人の姿は少なかったです。
「大手三の門」跡地にやってきました。この門も本来は枡形門で両側は水堀でした。ここを駕籠に乗ったまま通ることができたのは尾張家尾張家・紀伊家紀伊家・水戸家の徳川御三家だけで、それ以外の大名はここで降ろされ検問を受けました。
大手三の門の内側には「同心番所」の建物が保存されています。「番所」とは江戸城には警備要員の詰所のことです。
同心番所の脇を通り抜けて、「百人番所」の建物が建っている広場へ向かいます。広場全体を見回してみると、伊豆半島から船で運んできて積み上げた巨大な石垣に囲まれているのが解りますね。
大手町・丸の内の高層ビル群方向を向くと、手前側には寺社の庫裏に酷似している建物が建っています。この建物は「皇宮警察本部」の庁舎です。
江戸城最後の固めのため、検問所として睨みを利かせていた「百人番所」です。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎馬の四組が交代で詰め、昼夜を問わず警固に当たっていました。
少し離れた位置から皇宮警察本部庁舎や百人番所の建物を撮影してみると、背後に広がっている大手町の高層ビル群が「壁」のように迫ってくるようですね。
一組に同心が100人ずつ配属されたため百人番所と名づけらたのだそうです。散策している外国人観光客の人たちも物珍しそうに眺めていました。
東京駅を中心として日本最大のオフィス街が広がっている丸の内地区ですが、江戸時代は江戸城の敷地の一部であり「本丸の内」と呼ばれていました。江戸時代初期の土木工事で大量の土砂を湿地帯に堆積させることで人口の土地を造り上げたのです。
江戸時代の丸の内は比較的石高の大きい大名の屋敷が建ち並ぶ「大名小路」と呼ばれた屋敷町でした。現在の東京駅や丸の内ビル等が建っている場所には大名屋敷が密集していたのです。
明治維新後はすべての大名屋敷が撤去されて荒れ地として放置されていた丸の内ですが、大正時代に官営東海道本線の中央停車場(=東京駅)が新橋駅から延伸開業し、その後はオフィス街として発展しました。
日本を代表する大企業やマスコミの本社ビルが集中し、地区内における東証1部上場企業は76社を誇ります。これら企業の連結売上高は約121兆円(日本全体のGDPの約23パーセント)とまさに日本経済の中枢として発展しています。