百人番所が設置されている広大な広場を南側から撮影してみました。広場を取り囲むように巨大な石垣が壁のように構築されていて、まさに砦のような雰囲気が広がっていました。
百人番所の建物を少し離れた場所から撮影しました。背後には再開発工事中の大手町の高層ビル群が綺麗に写っていました。日本経済新聞本社ビル、経団連ビルなど2000年代後半に相次いで竣工した高層ビル群です。
百人番所に配置されていた「百人組」は江戸幕府の組織の一つであり、備(そなえ)に配される通常の鉄砲組とは異なり、高い火力を有した独立部隊として編成されたと考えられていました。
平時は主に江戸城大手三之門に詰め(番所は現存)、将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際は山門前を警備しました。また徳川家康は、江戸城が万一落ちた場合、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていました。鉄砲百人組とはその非常時に動員される鉄砲隊のことであり、四谷に配されたといいます。
現在JR四ツ谷駅や上智大学がある「四谷見附」周辺は江戸城の西側の守りを固める最後の砦であり、尾張徳川藩の上屋敷(現陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・防衛省本庁舎)と共に江戸幕府の要衝であったのです。
百人番所前から江戸城・本丸御殿の敷地が広がっている高台へ向かいます。高台へ続いている坂の途中から振り返って百人番所や大手町の高層ビル群を撮影しました。
坂下に設置されているのが「大番所」の建物で、本丸へと通じる中之門警備のための詰所です。江戸幕府の組織の一つであり、常備兵力として旗本を編制した部隊である「大番」と呼ばれる人達が詰めていました。
そしてこの巨大な石垣の間に「中之門」の門が設置されていました。現在は跡地となっています。
大番所周辺は高台へ続いている坂の途中になっているので、百人番所や皇宮警察本部の建っている敷地を見下ろすことが出来ます。
皇居前広場などでよく見られる黒松の木々が坂の周辺には多く植えられています。
江戸城・本丸御殿の跡地広場が広がっている高台へ続いている坂道を上っていきます。坂道の両側にも巨大な石垣が構築されていて、背丈の高い木々で覆われていました。
深い緑に覆われている坂道を歩いていると、本当に東京都心部の中心の、更に中枢である丸の内・大手町周辺を歩いているのかと錯覚したりします。
百人番所のある広場から本丸御殿跡地の広場まで、標高差は約20メートルくらいあります。実際に歩いてみるとかなりの旧坂であることが解ります。
2つ目の坂のカーブを曲がると、前方に江戸城・本丸御殿の跡地広場が見えてきました。この坂の道路は非常に道幅が広く、大型トラックも余裕ですれ違えるほどです。
真夏の濃い緑の木々に覆われている広場が見えてきました。普段と違って散策している観光客の姿もほとんど見られませんでした。