「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」を世界遺産に登録を目指す運動を応援するイベントがあった。
飛鳥から藤原宮跡までの史跡を巡るイベント。歴史に詳しいガイド付き。
天気予報は降水確率90%で、やっぱりお客様は少なかったが、曇り空ながら雨は降ってなくて予定どおり行われた。
私は安全管理スタッフで班分けの中に入った。
飛鳥はなじみのあるところではあるが、今日初めて聞いたこともあり、まだまだ知らないことだらけ。
復元 高松塚古墳 極彩色壁画が発見された1972年 浅間山荘事件などがあったことを紹介された。
壁画はカビが生えたり残念なことになり、いまだ修復中だ。
右)そばの小さな祠 高松塚古墳から出土した人骨を祀っているとのこと。これは初めて聞いた。
飛鳥歴史公園館を抜けて、鬼の雪隠 俎 石棺の蓋と台石 この大きい石を割ろうとした跡も残っていた。
この東隣にもう1基同じような古墳があり双墓だった可能性もあるらしいが、もうひとつの古墳は見たことがない。
コシロノセンダングサ(シロノセンダングサ)
「亀石」も飛鳥の謎の石のひとつ。、『奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)のヘビと川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って亀の供養をしたという。亀石は、以前は北を向き、次に東を向いたと言う。そして、今は南西を向いているが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化す』(wikipedia)この伝説は子供のころから聞いていた。
何のために作られたのかわかっていない。川原寺の境界石との説もある。
この石にもノミ跡があり、高取城を作る時に使おうとしたのではないかとのこと。
初めて聞いたのは「石の底に格子模様があるらしい」ということ。?? 底を見た人がいるのだろうか??
斉明天皇の殯(もがりの地 といわれる小さい祠「天王社」を過ぎ橘へ。
右に橘、左に川原寺
橘寺は聖徳太子誕生地との寺伝がある。
川原寺は飛鳥三大寺のひとつであった大寺 焼失したが、中金堂の柱の礎石が残る。
田道間守が垂仁天王の命により10年かけて常世国から持ち帰った不老不死の「非時香菓(ときじくのかくのみ)」それが「タチバナ」 それを景行天皇がこの地に播いたのだとか。黄色く色づいていたが酸っぱそう。
今もこの橘(大字名)周辺はミカン栽培が盛んだ。
石舞台では定点ガイドが説明
周辺の古墳をいくつもつぶして作られた。
封土がないのは? 作り方? 図で説明があった。
石材はもうこんの森あたりからもってこられたらしい。
この古墳を作るのには大勢の労働力を使っても1年はかかっただろうとのこと。
古代のエネルギーはすごい。
午後はいよいよ飛鳥京跡中心部へ。
大極殿のような施設があったのではとの推定もある「エビノコ郭」
伝板蓋宮跡周辺
このあたりは下層から1期舒明天皇岡本宮、2期皇極天皇板蓋宮、3期斉明天皇後飛鳥岡本宮、4期天武天皇・持統天皇飛鳥浄御原宮と何代もの天皇の宮跡が重なっている。
想い出の地で懐かしい場所なのだけど、複雑でなかなか理解しがたい。
板蓋宮は蘇我入鹿が中大兄皇子・中臣鎌足に暗殺されたところ。
大井戸が復元されている。今敷かれている石は今後の発掘の際に混じらないように全く違う石を使ってあると聞いた。当時板葺の屋根は珍しかったらしい。
甘樫丘を遠望
日本書紀に「ならべ建てた」と記述のある蘇我蝦夷 蘇我入鹿 親子の邸宅あとではないかといわれる焼土などが出た東麓遺跡がある。
飛鳥寺は蘇我馬子の発願で建てられたという日本最初の本格寺院
西には、蹴鞠で中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったという「槻の木の広場」があったらしい。
入鹿の首塚といわれる五輪塔も。
飛鳥水落遺跡は漏刻の施設があったところ。礎石の上に立った柱も復元されていた。
甘樫丘の展望台から飛鳥京を展望し、藤原宮跡へ。
初めて通る飛鳥川右岸が珍しかった。
万葉集に歌われた「羽易(はがい)の山」がきれいに見えた。
中央に三輪山左右に巻向山と龍王山
藤原宮跡
飛鳥から藤原京へ。そして平城京へ。遷都の理由は?
もう少しで終点という元薬師寺から大雨が降りだしたが、無事ゴールに到着。
京都から参加のお客様も一日歩きとおされた。
スタッフ参加だったが、いい勉強になった。
飛鳥から藤原宮跡までの史跡を巡るイベント。歴史に詳しいガイド付き。
天気予報は降水確率90%で、やっぱりお客様は少なかったが、曇り空ながら雨は降ってなくて予定どおり行われた。
私は安全管理スタッフで班分けの中に入った。
飛鳥はなじみのあるところではあるが、今日初めて聞いたこともあり、まだまだ知らないことだらけ。
復元 高松塚古墳 極彩色壁画が発見された1972年 浅間山荘事件などがあったことを紹介された。
壁画はカビが生えたり残念なことになり、いまだ修復中だ。
右)そばの小さな祠 高松塚古墳から出土した人骨を祀っているとのこと。これは初めて聞いた。
飛鳥歴史公園館を抜けて、鬼の雪隠 俎 石棺の蓋と台石 この大きい石を割ろうとした跡も残っていた。
この東隣にもう1基同じような古墳があり双墓だった可能性もあるらしいが、もうひとつの古墳は見たことがない。
コシロノセンダングサ(シロノセンダングサ)
「亀石」も飛鳥の謎の石のひとつ。、『奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)のヘビと川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って亀の供養をしたという。亀石は、以前は北を向き、次に東を向いたと言う。そして、今は南西を向いているが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化す』(wikipedia)この伝説は子供のころから聞いていた。
何のために作られたのかわかっていない。川原寺の境界石との説もある。
この石にもノミ跡があり、高取城を作る時に使おうとしたのではないかとのこと。
初めて聞いたのは「石の底に格子模様があるらしい」ということ。?? 底を見た人がいるのだろうか??
斉明天皇の殯(もがりの地 といわれる小さい祠「天王社」を過ぎ橘へ。
右に橘、左に川原寺
橘寺は聖徳太子誕生地との寺伝がある。
川原寺は飛鳥三大寺のひとつであった大寺 焼失したが、中金堂の柱の礎石が残る。
田道間守が垂仁天王の命により10年かけて常世国から持ち帰った不老不死の「非時香菓(ときじくのかくのみ)」それが「タチバナ」 それを景行天皇がこの地に播いたのだとか。黄色く色づいていたが酸っぱそう。
今もこの橘(大字名)周辺はミカン栽培が盛んだ。
石舞台では定点ガイドが説明
周辺の古墳をいくつもつぶして作られた。
封土がないのは? 作り方? 図で説明があった。
石材はもうこんの森あたりからもってこられたらしい。
この古墳を作るのには大勢の労働力を使っても1年はかかっただろうとのこと。
古代のエネルギーはすごい。
午後はいよいよ飛鳥京跡中心部へ。
大極殿のような施設があったのではとの推定もある「エビノコ郭」
伝板蓋宮跡周辺
このあたりは下層から1期舒明天皇岡本宮、2期皇極天皇板蓋宮、3期斉明天皇後飛鳥岡本宮、4期天武天皇・持統天皇飛鳥浄御原宮と何代もの天皇の宮跡が重なっている。
想い出の地で懐かしい場所なのだけど、複雑でなかなか理解しがたい。
板蓋宮は蘇我入鹿が中大兄皇子・中臣鎌足に暗殺されたところ。
大井戸が復元されている。今敷かれている石は今後の発掘の際に混じらないように全く違う石を使ってあると聞いた。当時板葺の屋根は珍しかったらしい。
甘樫丘を遠望
日本書紀に「ならべ建てた」と記述のある蘇我蝦夷 蘇我入鹿 親子の邸宅あとではないかといわれる焼土などが出た東麓遺跡がある。
飛鳥寺は蘇我馬子の発願で建てられたという日本最初の本格寺院
西には、蹴鞠で中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったという「槻の木の広場」があったらしい。
入鹿の首塚といわれる五輪塔も。
飛鳥水落遺跡は漏刻の施設があったところ。礎石の上に立った柱も復元されていた。
甘樫丘の展望台から飛鳥京を展望し、藤原宮跡へ。
初めて通る飛鳥川右岸が珍しかった。
万葉集に歌われた「羽易(はがい)の山」がきれいに見えた。
中央に三輪山左右に巻向山と龍王山
藤原宮跡
飛鳥から藤原京へ。そして平城京へ。遷都の理由は?
もう少しで終点という元薬師寺から大雨が降りだしたが、無事ゴールに到着。
京都から参加のお客様も一日歩きとおされた。
スタッフ参加だったが、いい勉強になった。