近くを通っても隙間から覗き見るだけの橿原神宮「文華殿」。
今、公開されているので見学した。
「橿原神宮 文華殿」は元、織田家柳本藩邸の表向御殿
『天保7年(1836)~天保15年(1844)にかけて再建された屋形の一部。
明治時代には天理市の柳本小学校の校舎として使用されていた。
改築の計画に伴い、昭和42年(1967)に橿原神宮に移築奉納された。
1万石大名の遺構として珍しい存在で、S42年重要文化財に指定された。』
門を入ると受付があった。
砂が敷かれた庭にはきれいな箒目が立ち、立ち入るのをためらう。
促されて砂を踏んで建物玄関へ。
(内部の写真公開してよいか不明のため、写真掲載はしません)
まだ開場まもなくで、人はごく少ない。
重厚な感じで、いくつかの部屋が並ぶ。
加納周信(ちかのぶ)の春秋図 牡丹に孔雀 菊に鶏 の絵のかかった部屋
衣桁に布のかかった部屋
次は広間が続き、奥は下段・中段・上段と3つの間が続いた大書院といわれる間。
この上中下の3部屋は少しずつ床の高さを変えてある。
もちろん一番高い上段の間はお殿様の座所だ。
ここまでの黒漆塗り?のシンプルな欄間と違って大書院の欄間は極彩色。
唐草?に鳳凰?の図柄
ところで、明治時代には柳本小学校の校舎として使用されていたとのことだが、どういう風に使用されていたのかな?
使いやすいように改築はされていたんだろうが。
釘隠しにはいくつかの紋が使われ装飾になっている。
畳敷きの廊下、板の濡れ縁からは落ち着いた庭が見わたせた。
思っていたよりはお庭も広い。
庭は立ち入ることができず、縁側や玄関前から見るだけだった。
30分ほどで見学を終わる。
橿原神宮は4月7日から9日まで「春の神武祭」開催中。
今は静かだが、今日も午後からパレードなどがあるらしい。
夜もそれぞれイベントが行われる。
門や境内のあちこちに置かれた防水紙製の鳥は「八咫烏(やたがらす)」を表しているらしい。
深田池そばのソメイヨシノやヤマザクラも満開 ヒドリガモがたくさんいた。
境内を出て「若桜友苑」でも式典の準備がされていて、椅子が並んでいた。
桜やユキヤナギや花桃やレンギョウなどここも花盛り。
八木への途中の飛鳥川の桜 お花見満喫。
今、公開されているので見学した。
「橿原神宮 文華殿」は元、織田家柳本藩邸の表向御殿
『天保7年(1836)~天保15年(1844)にかけて再建された屋形の一部。
明治時代には天理市の柳本小学校の校舎として使用されていた。
改築の計画に伴い、昭和42年(1967)に橿原神宮に移築奉納された。
1万石大名の遺構として珍しい存在で、S42年重要文化財に指定された。』
門を入ると受付があった。
砂が敷かれた庭にはきれいな箒目が立ち、立ち入るのをためらう。
促されて砂を踏んで建物玄関へ。
(内部の写真公開してよいか不明のため、写真掲載はしません)
まだ開場まもなくで、人はごく少ない。
重厚な感じで、いくつかの部屋が並ぶ。
加納周信(ちかのぶ)の春秋図 牡丹に孔雀 菊に鶏 の絵のかかった部屋
衣桁に布のかかった部屋
次は広間が続き、奥は下段・中段・上段と3つの間が続いた大書院といわれる間。
この上中下の3部屋は少しずつ床の高さを変えてある。
もちろん一番高い上段の間はお殿様の座所だ。
ここまでの黒漆塗り?のシンプルな欄間と違って大書院の欄間は極彩色。
唐草?に鳳凰?の図柄
ところで、明治時代には柳本小学校の校舎として使用されていたとのことだが、どういう風に使用されていたのかな?
使いやすいように改築はされていたんだろうが。
釘隠しにはいくつかの紋が使われ装飾になっている。
畳敷きの廊下、板の濡れ縁からは落ち着いた庭が見わたせた。
思っていたよりはお庭も広い。
庭は立ち入ることができず、縁側や玄関前から見るだけだった。
30分ほどで見学を終わる。
橿原神宮は4月7日から9日まで「春の神武祭」開催中。
今は静かだが、今日も午後からパレードなどがあるらしい。
夜もそれぞれイベントが行われる。
門や境内のあちこちに置かれた防水紙製の鳥は「八咫烏(やたがらす)」を表しているらしい。
深田池そばのソメイヨシノやヤマザクラも満開 ヒドリガモがたくさんいた。
境内を出て「若桜友苑」でも式典の準備がされていて、椅子が並んでいた。
桜やユキヤナギや花桃やレンギョウなどここも花盛り。
八木への途中の飛鳥川の桜 お花見満喫。