お世話していただいてマイクロバスで西吉野へ。
西吉野町賀名生(あのう)は、後醍醐天皇が京都を追われて吉野へ逃れる途中に立ち寄られ、南朝が認められるまでの間、その後の3代の天皇が滞在されたところ。その皇居跡の堀家住宅がある。
運よくお庭まで入らせていただけた。
重厚な門 重要文化財の表示があった。 庭を隔てて藁葺き屋根。今もお住まいしておられる。
「穴生(あなふ)」と呼ばれていた地名は、南朝実現の願いを叶えたいと後村上天皇が「叶名生(かなふ)」と名付け、夢がかなって、やがて「賀名生」と呼ばれるようになったらしい。
さっそく、梅林へと出発。
梅林へは来たことはあるがいつも近いところしか見ていなかったが、ずいぶん高いところまで梅林は続いている。
今日はずっと上の方まで1周した。けっこうな登り道だった。
高いところからは遠くの山々が展望できた。
ウメはまだ咲き初めだったが、場所によってはたくさん花をつけている木もあった。
見返り千本・東雲千本・奥の千本などと名付けられている遊歩道を巡る。
2万本ぐらいあるらしい。急斜面に植えられていウメの木、手入れや収穫も骨が折れることだろう。
主な品種は白加賀・鶯宿・南高・林州
賀名生には古くから梅林が広がっていたが、明治の初めより果実の収穫を目的とした栽培が盛んになった。
それまでは大半が「林州」という薄いピンクの花が咲く品種だったが、実の大きい「南高」に植え替えられ、「林州」の栽培が激減したが、最近は、昔からの品種を絶やしてはいけない、昔ながらの梅林の景観を取り戻そうとする動きも出てきているとのこと。
ミツバチの巣箱がおいてあった。ハチが受粉してくれないと実が付かない。
じっと見ていると巣箱の下の隙間付近にミツバチが飛び交う姿が見えてほっとした。
右)途中の売店でフキノトウを買った。今夜は天ぷらにでもしよう。
午後からはバスで移動して、フクジュソウの自生地のある津越へ。
自生地へ遊歩道を登る。
カップ型の光る花弁に日を集め、昆虫を呼ぶという。花茎の伸びたものもある。
まだ目立たないつぼみもある。
前に来た時はまだ雪が積もっており、雪の中から覗く花を見たが、今日は上着のいらない暖かい春日だ。
小さい星をちりばめたようなセリバオウレン 丸い胞子を付け、みずみずしいタマゴケ
途中にあったコンクリートの槽は梅干し用かな?どう使われるのかな?
帰りもバスで楽々。ありがたい。
西吉野町賀名生(あのう)は、後醍醐天皇が京都を追われて吉野へ逃れる途中に立ち寄られ、南朝が認められるまでの間、その後の3代の天皇が滞在されたところ。その皇居跡の堀家住宅がある。
運よくお庭まで入らせていただけた。
重厚な門 重要文化財の表示があった。 庭を隔てて藁葺き屋根。今もお住まいしておられる。
「穴生(あなふ)」と呼ばれていた地名は、南朝実現の願いを叶えたいと後村上天皇が「叶名生(かなふ)」と名付け、夢がかなって、やがて「賀名生」と呼ばれるようになったらしい。
さっそく、梅林へと出発。
梅林へは来たことはあるがいつも近いところしか見ていなかったが、ずいぶん高いところまで梅林は続いている。
今日はずっと上の方まで1周した。けっこうな登り道だった。
高いところからは遠くの山々が展望できた。
ウメはまだ咲き初めだったが、場所によってはたくさん花をつけている木もあった。
見返り千本・東雲千本・奥の千本などと名付けられている遊歩道を巡る。
2万本ぐらいあるらしい。急斜面に植えられていウメの木、手入れや収穫も骨が折れることだろう。
主な品種は白加賀・鶯宿・南高・林州
賀名生には古くから梅林が広がっていたが、明治の初めより果実の収穫を目的とした栽培が盛んになった。
それまでは大半が「林州」という薄いピンクの花が咲く品種だったが、実の大きい「南高」に植え替えられ、「林州」の栽培が激減したが、最近は、昔からの品種を絶やしてはいけない、昔ながらの梅林の景観を取り戻そうとする動きも出てきているとのこと。
ミツバチの巣箱がおいてあった。ハチが受粉してくれないと実が付かない。
じっと見ていると巣箱の下の隙間付近にミツバチが飛び交う姿が見えてほっとした。
右)途中の売店でフキノトウを買った。今夜は天ぷらにでもしよう。
午後からはバスで移動して、フクジュソウの自生地のある津越へ。
自生地へ遊歩道を登る。
カップ型の光る花弁に日を集め、昆虫を呼ぶという。花茎の伸びたものもある。
まだ目立たないつぼみもある。
前に来た時はまだ雪が積もっており、雪の中から覗く花を見たが、今日は上着のいらない暖かい春日だ。
小さい星をちりばめたようなセリバオウレン 丸い胞子を付け、みずみずしいタマゴケ
途中にあったコンクリートの槽は梅干し用かな?どう使われるのかな?
帰りもバスで楽々。ありがたい。