みどりの野原

野原の便り

3月12日 竜田古道 亀の瀬へ

2018年03月12日 | Weblog
下見で歩く。初めての所。


案内板に従って歩く。

 
竜田古道らしい道しるべや神社や地蔵にその昔歩いて通った旅人を思う。

 
通りかかった山裾の畑で、おじさんがつぼみ付きの枝を切ってくださった。


「大阪府と奈良県の県境」を示す看板 道を1歩跨げばそこは大阪符柏原市 不思議な気持ち。


周辺は殺風景な広い斜面が広がる。「亀の瀬」聞いたことのある地すべり地帯だ。

地すべりも山崩れも一緒くたに思っていたが、山崩れは「山地や丘陵など急斜面で、斜面の上部の地肌や岩石が崩れ落ちる現象」
地すべりは「緩い斜面において、比較的ゆっくりと長時間にわたり土砂が移動する現象」だそうだ。

 
階段の横の地蔵堂を登ると、峠八幡神社 覆屋の中には檜皮葺き?の立派な社があった。
前の道が亀の瀬越奈良街道で、その一部を竜田古道というらしい。

八幡神社の横を登って行く。

「亀の瀬」は奈良の水を集めた大和川が大阪平野へ抜ける県境の狭隘部。

飛鳥川が大和川へ。葛木川・高田川の水を集めた曽我川も大和川へ。
その下流では富雄川も合流して、大阪平野へと流れ出る。(2月16日のブログ)

亀の瀬のあたりには奈良と大阪を結ぶ道のひとつとして古代から盛んに利用された古道があったらしい。
今も国道25号線やJR大和路線が通るかなめには違いない。
しかしまた亀の瀬辺りは有名な地すべり地帯でもあり何度も災害を引き起こしているのだった。
今はいろいろ対策が講じられているという。
本番では「地すべり資料室」を見学することになっている。

地すべり対策のひとつ「集水井」が斜面に見えた。
車道ではあるが上りは急。どんどん登ってお昼前に「竜田古道の里山公園」に到着。
テントサイトや多目的広場などがあった。

 
ウメは満開。近くのサクラも早咲きのものは咲いていたが、本番には満開だと思う。

昼食後、一気に下る。


   民家のしだれ梅


ゆったりと流れる大和川 岸辺の木にゴミが引っ掛かっていた。
少し前の大雨の時にはかなり水嵩が増したらしい。 
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3月9日 マイブームは「ミカン蔵」 なくなった「みのり橋」・「衝破除」

2018年03月09日 | Weblog

午後から、息子に乗せてもらって、気になっていたヤドリギを見て、先日咲き始めだった河津桜を見て、その後、立部・平田あたりを歩いた。

ヤドリギ


ヤドリギ 咲いていたのは雄花のよう。      

河津桜

 
先日、連れて行ってもらった河津桜はほぼ満開 曇り空なのが惜しい。

ミカン蔵
先日、初めて見た(気が付いた)ミカン蔵  (2月11日ブログ ミカン小屋)
今日は見るつもりで来たわけではないが、偶然見つけてついつい立部~平田あたりを歩き回ってしまった。


ふと向こうを見ると煙突が2本立った小屋 先日見た小屋根ではないが、あれは「ミカン蔵」に違いない・・?
これをきっかけに歩き出す。煙突形は他にもあった。

そしてどこともなく歩いてつい屋根を見てしまう。あの奥! 振り返ればあれも!

 
    3つの小屋根


そばに置かれた ミカン箱?(小屋内で使用?) ハシゴの架かったところもあった。


低い2重屋根 これも小屋根の変形か? いくつか見られた。

 
4つの小屋根 今日は見ていないが5つ並んだものもあるらしい。

今日歩いたところでは、煙突型・小屋根型(これが多い)・低い2重屋根型 などがあった。

居住する家のつくりではないこと。2階の高さがあることが共通していて、ミカン蔵ではないかと思った。
新しい建物もあった。

何と、今日で10数軒のミカン蔵を発見! 

衝破除

「衝破除」とは魔除けの一種で、昔から街道の辻には霊が宿るといわれ、突き進んできた霊(魔物)が突き当りに溜まると言われ、それを防ぐために石碑を建てる。
沖縄の「石敢當」と同じような意味らしい。

以前に息子にここに「衝破除」の石碑があることを聞いていた。
先日、久しぶりに2回通りかかって探したが見当たらなかった。場所が違ったかな? 自信がなくなってきた。
それで今日、確認に行くことにした。

確かになくなっていることが分かった。奈良県ではあまり見かけないので残念。

 
h29年6月 見にくい場所だが確かにあった。 近くが整地されていてなくなってしまった。

みのり橋
帰りに通った四条町 綏靖天皇陵近くでは医大移設に向けて大規模な造成工事が始まっていた。
その工事の陰で・・大好きな「みのり橋」がなくなってしまった。

 
       2014.03.08        2011.01.04  優美な形状の橋だった。 桜川に架かっていた。


こんなことになってしまった・・

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3月8日 埴取り神事 参加にドキドキ。

2018年03月08日 | Weblog
降水確率70~80%で予定していた観察会は流れてしまった。

たまたま今日行われると情報を得ていた埴採り神事を見学に行くことにした。
今にも雨が降りそうでカッパを着ていく。
時間がわからないのでずいぶん早くから待っていた。

 
        畝傍山口神社             右)拝殿

畝火山口神社で行われる「埴取り神事」はず~っと気になっていて、河俣神社と共に何回もブログに書いている。
そして、遠くから見るつもりだったのに、思いもかけず、神事に参加させていただくことになったのだ。

畝山口神社
創始は不明。806年の文献に初見。初めは大山祇命を祀る神社だったらしい。
1446年当時は畝傍山の西麓にあったが、豪族越智氏が貝吹山に築城した際、神社を見下ろすことを恐れ山頂に遷座したらしい。
昭和15年、皇紀2600年、橿原神宮神域拡張整備の時、橿原神宮や神武天皇を見下ろし神域を穢すということで、国から命じられて山頂から今の場所に遷座したという。

祭神は大山祇命から現在は気長足姫命(おきながたらしひめのみこと 神功皇后のこと)・豊受姫命・表筒男命(うわつつのおのみこと)に変わる。
社名もいろいろ変遷し、明治に「畝傍山口神社」と定められた。「畝傍大明神」の名が彫られた灯篭があった。
また俗に「お峯山」と呼ばれるのは山の頂上にあったからかな?
神功皇后が(応神天皇を)ご安産された伝承により、「安産の守り神」として信仰されている。

埴取り神事
大阪住吉大社が毎年祈年祭と新嘗祭に先立って、祭祀に用いる土器を作るための埴土を畝火山頂で採取するというもの。
その時、雲梯の河俣神社で装束を整えて来られるという。 (ここから見たかった)

大阪住吉大社の神官さんが車でご到着。神殿の準備をされるのを離れて見ていた。
途中で「どうぞ中でお待ちください」と社務所のお部屋へ通された。
黒のスーツの男性お2人とお茶をいただいて待っていると「準備ができましたのでどうぞ」と言われ外へ。

 
神官さん(埴遣いといわれる使者)の木靴   社務所の前で、順番に桶から水をかけてもらい手を清める。


そして、住吉大社の神官さんお2人とお付きの方? その後に山口神社の宮司さん。
その後に男性お2人に続いて私も神殿の方へ。

先ず、祓戸神社前で祭祀、続いて拝殿へ。

拝殿には椅子が向かい合って並べてあり、一方に住吉大社の神官さんお2人とお付きの方?
向かいあって、山口神社の宮司さんと男性二人。その横に私が座る。

そして、祭祀が始まる。
神殿での祝詞 (順番はどうだったか・・)お祓いを受け、玉串奉奠 
私にも順番が回ってきた。作法は知らないがサカキを回して置き、2礼2拍手1礼 

祭礼が終わり拝殿を出る。

休憩されてから山に登られるのかお尋ねすると「すぐに登ります」
ついて行ってもいいですかと聞くと、いいですよとのお返事。


男性お2人は帰られ、草履に履き替えられた神官さん・お付きの方・山口神社の宮司さんに続いて畝傍山へ。

そして、山頂での埴土採り神事も見せていただくという貴重な経験ができた。

お礼を言ってここでお別れする。


埴土を入れた「埴筥 (はにばこ) 」を持ってお山を下りられる。

 
久しぶりに会う「ツガ」の大木。何か懐かしい木。球果を付けていた。 畝火山口神社社殿跡の碑


三角点にもご挨拶をして山を下りる。

写真のお許しも得ていたので、目立たないように?撮った。
差支えなさそうなものだけ載せた。

秋の神事の日はまだ未定だそうだ。
思いがけない神事参加にドキドキしたひと時だった。

 
畝傍山登山道にもカシナガ被害木らしい伐採された木があった。
穴がたくさんあけてあり、薬剤注入も効果がなかったのか?
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3月6日 賀名生梅林 津越のフクジュソウ

2018年03月06日 | Weblog
お世話していただいてマイクロバスで西吉野へ。

西吉野町賀名生(あのう)は、後醍醐天皇が京都を追われて吉野へ逃れる途中に立ち寄られ、南朝が認められるまでの間、その後の3代の天皇が滞在されたところ。その皇居跡の堀家住宅がある。

運よくお庭まで入らせていただけた。

 
重厚な門 重要文化財の表示があった。  庭を隔てて藁葺き屋根。今もお住まいしておられる。

「穴生(あなふ)」と呼ばれていた地名は、南朝実現の願いを叶えたいと後村上天皇が「叶名生(かなふ)」と名付け、夢がかなって、やがて「賀名生」と呼ばれるようになったらしい。

さっそく、梅林へと出発。
梅林へは来たことはあるがいつも近いところしか見ていなかったが、ずいぶん高いところまで梅林は続いている。
今日はずっと上の方まで1周した。けっこうな登り道だった。
高いところからは遠くの山々が展望できた。

 
 
ウメはまだ咲き初めだったが、場所によってはたくさん花をつけている木もあった。
見返り千本・東雲千本・奥の千本などと名付けられている遊歩道を巡る。
2万本ぐらいあるらしい。急斜面に植えられていウメの木、手入れや収穫も骨が折れることだろう。

主な品種は白加賀・鶯宿・南高・林州 
賀名生には古くから梅林が広がっていたが、明治の初めより果実の収穫を目的とした栽培が盛んになった。
それまでは大半が「林州」という薄いピンクの花が咲く品種だったが、実の大きい「南高」に植え替えられ、「林州」の栽培が激減したが、最近は、昔からの品種を絶やしてはいけない、昔ながらの梅林の景観を取り戻そうとする動きも出てきているとのこと。

 
ミツバチの巣箱がおいてあった。ハチが受粉してくれないと実が付かない。
じっと見ていると巣箱の下の隙間付近にミツバチが飛び交う姿が見えてほっとした。 
        右)途中の売店でフキノトウを買った。今夜は天ぷらにでもしよう。

午後からはバスで移動して、フクジュソウの自生地のある津越へ。


自生地へ遊歩道を登る。

 
カップ型の光る花弁に日を集め、昆虫を呼ぶという。花茎の伸びたものもある。


まだ目立たないつぼみもある。
前に来た時はまだ雪が積もっており、雪の中から覗く花を見たが、今日は上着のいらない暖かい春日だ。

 
小さい星をちりばめたようなセリバオウレン   丸い胞子を付け、みずみずしいタマゴケ


途中にあったコンクリートの槽は梅干し用かな?どう使われるのかな?

帰りもバスで楽々。ありがたい。
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3月5日 ツクシ 動く胞子 my発見 

2018年03月05日 | Weblog
先日から何回かツクシを見た。 


 ツクシ まだ胞子を出していない緑色の胞子のう 白いところは胞子が出てしまったもの。

 
紙の上に胞子を落として実体顕微鏡で見てみた。 
 右)うわっ! わらわらわら・・胞子が動いている。しばらくわらわらした後、鎮静した。
残念ながら倍率が低くて動いているのは見えたが、どうなっているのやらわからない。

調べてみると、胞子には弾糸と言われる糸が付いており(2本が中央で交差しており、4本に見える)、弾糸は湿度に反応するらしい。
湿度が上がると弾糸は胞子に絡みつき、湿度が下がると弾糸が伸びて風に飛ばされて拡散するらしい。

ただ胞子を出しているだけでなくこんな細かい芸当をしているなんて驚き。
私の大発見だった。

気になる方はネットで動く映像を見てくださいね。
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3月4日 初めての 丹生川上神社上社 白屋集落跡など

2018年03月04日 | Weblog
今日行った「丹生川上神社上社」「白屋集落」ニュースでは知っていたが来たことはなかった。

大滝ダム

川上村、紀の川本流上流域にある大滝ダム(2013年竣工)
伊勢湾台風(S34)の紀の川流域大被害を機に、洪水防止・大和平野への水道水供給・発電などを目的に作られた「特定多目的ダム」だそうだ。
反対運動や完成直前の斜面の地すべりがあったりで、完成までに50年の歳月がかかったそうだ。

 
大滝ダムのダム湖。「おおたき龍神湖」という愛称がある。水中から「龍」が首をもたげていた。

丹生川上神社上社

大滝ダム建設に伴って、川沿いの民家が移転された。
歴史のある「丹生川上神社 上社」も川沿いから高所の現在地へ遷座された。

 
坂道を登って神社が見えてきた。 立派な鳥居をくぐり奥には立派な社殿が建っていた。広い境内。

祭神は高龗大神(たかおかみおおかみ 雨を司る神)
絵馬の由来となった黒馬(祈雨の祈願の時)・白馬(止雨祈願の時)の奉納のことも説明版に架かれていた。
拝殿前左右に馬像が置かれている。

 
拝殿に掲げられた額「神雨霑灑」神社の方が「シンウテンサイ」と読むと教えてくださった。
「神の雨が潤しそそぎ恩恵をほどこす」との意味だとか。ほんとうに良いも悪いも雨は神の思し召しのままだなあ。
 右)境内に植樹されているトガサワラ シカの食害を防ぐ金網に守られていた。

下る。

 
神社そばにも植栽されたタブノキがあったが、これは自生だという。後で行ったところにも大木があった。
海岸近くに多いタブノキがこんな山奥にあるのは、川沿いに分布が広がったということらしい。

白屋集落跡へ

 
アーチ橋 高原道俊橋を渡る。続いて人知橋   左に白屋橋(左の写真の向こうに見える斜張橋)


向こうに山崩れ跡のように見えるのが白屋集落跡

展望台とかかれた方へ坂を登る。

 
展望所とトイレが作られた広場の上には、ゴーストタウンが広がっていた。

ここにはかつて集落があった。高所でダムに沈む心配もなく生活しておられた。
ところが、ダムに水が貯められはじめると、地すべりが発生し、亀裂が入り始めたらしい。
住むのには危険になり全戸移転を余儀なくされた。家も全部取り壊され、石垣だけが残っている。

水害予防や水道水確保など必要なことがある反面、ダム湖に沈んだ家、ここのように後で転居をせざるを得ない人たちのように、犠牲も多いことを忘れてはいけないなあと思う。

 
人っ子一人いない枯草に覆われた宅地 物悲しい。
今、企業や団体との共働で、空き地となった所の草刈りや植樹が取り組まれている。
 右)近くの八幡神社 義経が八幡神社に矢を奉納したことにより白谷と称していた地域が白屋になったとの記述もある歴史のある神社だが、荒れていた。カゴノキやタブノキの大木があった。


展望所からダム湖を見る。あの赤っぽいのは何かな? 「淡水赤潮」なのだそうだ。
流れが悪いためにプランクトンが異常増殖して引き起こしたものらしい。びっくりした。

下った高原川で「オシドリ」と誰かの声。

双眼鏡を取り出せないまま写真を撮った。帰ってから見てみたら鮮明ではないがそれとわかる色。14羽数えられた。


高原トンネルの中を歩いて市役所前に到着。
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3月3日 ひな祭り 布びな仲間入り 

2018年03月03日 | Weblog
今年は節分を過ぎてすぐにお雛様を飾った。

 
 

いただいたもの、買ったもの、小さいお雛様 大事なお雛様たち 
小物は紙粘土などで・・昔はマメでした。
 

これは1万ぐらいしたが気に入って買った有田焼のお雛様 


今年仲間入りした手作り布びな 体形が作者に似てる?
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3月2日 明日香 橘寺周辺 河津桜 仏頭山 御池 ツクシ

2018年03月02日 | Weblog
河津桜の花見のつもりで行ったが、まだ少し早かった。

 
まだほとんどつぼみ 1本だけちらほら花をつけた枝があった。


今年初めてのツクシを見た。春だなあ。

 
ミカン畑が多い。  鳥か獣か? 穴の開いたデコポン
デコポンはポンカンと清美を掛け合わせたものだとか。
お隣さんが生協の「不知火」おいしかったからいつも買ってるって言ってた。
そしてデコポンと同じような形なので、デコポンの品種なのか?と思っていたが・・
今日、調べて謎が解けた。デコポン=不知火 不知火は品種名でデコポンはその愛称だと判明。

御池

消えかけた説明版にはこの池が古来から灌漑用ため池であったこと、横に石鎚突唄(伊予の瓢箪)の歌詞が書いてあった。
ここは前に来た記憶がある。その時この土手の説明を聞いたことを思い出した。(2011.01.12に来ている)
不確かなことを確かめるべくネットで探したが、なかなか記述がない。
説明版にあった「刃金」という言葉、前に聞いたことを思い出した。

刃金土(はがねど)とは水を通しにくい粘土質の土
ため池の堰堤を改修する際、刃金土を使い、その上に保護の盛り土をする。刃金土を挟み込むということかな。

そして、土を固める時の作業唄が「石鎚突唄」のようだ。
想像するに・・堰堤を突き固める職人は伊予から来たベテラン達ではなかったのか。
よいとまけのように懐かしい故郷のざれ唄を歌いながら重労働をしたのだろうか・・
それにしても・・ため池の名が「御池」とは・・それほど貴重な池だったのかな?

仏頭山を案内していただいた。登ったことがなかったのでうれしい。
仏頭山は橘寺の南にある山で橘寺の寺域。
寺の山号も仏頭山という。橘寺は正式には「仏頭山上宮皇院橘寺」という。

 
裏のから登ったのでちょっときつかったが、途中に何体も石仏があった。

 
頂上は少し広くなっていて石の壇があった。何をするものなのか?
 
 
右)ヒノキ林の中の整備された道を下る。  こちらにも石仏があった。

橘寺の南に降りた。

もう1か所立部の春日神社をまわって橘寺の西門に着く。

 
橘寺は聖徳太子の誕生寺といわれ、幼いことから仏教の信仰篤く、推古天皇に勝曼経を講義した時、庭には蓮の花が降り積もり、冠から光輝いたとか・・推古天皇が仏堂を建立するようにいわれたのが橘寺の起りだとか、説明を聞く。  
右)左近の桜、右近の橘(写真)が植えられている。

田道間守が持ち帰ったトキジクノカグノコノミの種をここに蒔いたのが橘で、それが地名になり、橘寺の寺紋にもなっている。
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