難しいことを言うね。昔、考古学は非科学的で「推測で考える学問?」だったが、今日は文系ではなく理系の学問に成っているが、まだ文系の頭で考える人がいる。アルタミラの壁画となれば「芸術」として受け取ることが出来るが壁画が描かれるのに「先に言葉があった」と言い出すと、ちょっと論理的に説明してくれるだろうと思ったが・・・NHKの教養をくすぐる番組で大学教授がそういうことを言うにはもっと論拠を明確にしないと、多くの美術評論が観念論にすり替わっている現代アートの時代に、これもまた同じ類かと欲求不満に陥るではないか。
同じ番組で「言葉」について人類にとっての言葉の始まりが何であったのかを大学の先生が述べるのがあって、これにも面くらった。「学問的」となると研究者個人の興味や意見が優先されても仕方がないが、言語学の先生は今日の科学的考古学の末席にも座れない。
それでは末席にも座らせてもらえない私としての意見を述べて、今日を面白くしよう!!
原始人が言葉を発明したような言い方はしない。最初は「ああ」とか「いいー」とか言ってコミュニケーションをとるために、まずは言葉とは言えないような伝達方法で生活していただろうと思う。サルの世界をみれば「あれだー!!」と思う。しかしこれを言葉とよべるほど「具体的な意味」と持っているというにはもう少し説明が必要だ。東大のある若い研究者が山のシジュウカラの鳴き声を研究し「啼き方で意味を伝達している」と言えることを学会発表している。
ネアンデルタール人が滅んでしまったのは集団が家族中心で、ホモサピエンスのクロマニヨンは対照的に仲間社会を広げ集団で生活したからだと・・・聞いて、つまり集団が家族でコミュニケーションを行うより、集団が大きいほど食料を集める力も大きく強くなって、コミュニケーションの内容も複雑になって行ったと推測する。「ああ」とか「うう」とか言っていたのが、もっと具体的で正確な意味を集団で持つことが不可欠だったであろう。仲間がいなければ言語は成立しない。
言語が成立するには音声がくり返されて、音声が示しているものが何なのかを理解する感性が相手である仲間の間で共有される必要がある。おそらくその最も最初に登場したのは生存欲に関するつまり食物を得ることだろう。そこにある植物の実や動物を得るために働く欲は彼らの脳に強く共有を求めたであろう。そこで発した音声が言葉に代わって行ったのではないか。
仲間同士で共有できる言葉と言えるものを組み立てられなければ複雑な表現は出来ない。そこに思考というものが必要だろう。だからこの組み立ては「弓矢」の作り方に似ているという人がいる。
文系の先生のアプローチでは、原始人が弓を用いて狩りをするようになって、この弓の作られ方が言語の表現のメカニズムと同じだと言う。矢には矢じりが必要で、これを棒の先に固定しなければならない。そして棒の後ろには真っすぐ飛ばすための矢羽根を固定させねばならない。これらの一つ一つが合わさって一つのものが出来上がる複雑な行為の集合だと・・・・。言葉も一つ一つを並べてより正確な表現を完成させるから、弓矢で狩りをしたころに既に言葉による思考が完成していると。
しかしこの弓矢の先に矢じりを固定するという物造りの始まりは人類の「人たる始まり」であって「大発明」である。そこで言葉が先にあったから棒の先に石を括り付ける行為が「思考」として生まれたのか?実に怪しい!!
この石や棒に名前があっただろうか????脳が働いて「先に思考が働いて言葉は後だ」だと私は思うのだが。
しかしアルタミラの壁画の話に戻ると、「最初に言葉あってあの壁画がある」というのはどうも納得がいかない。アルタミラの壁画やラスコーの壁画に描かれ動物や「弓」を持つ人物をよく見て欲しい。動物のデッサン力は半端ではなく高度であり、動物をよく観察しリアルに描かれている。これは視覚的記憶力と想像力の賜物であり、現代人の脳の働きと比較にならないほど優れている。優れた感性の塊であって「思考」で出て来る形や構成ではない。
原始人が「言葉で表現しきれないものを絵として描いた」というと、現代人も同じように言葉では表現できないものを絵に描いていると思われるとちょっと困る。もしそうだとしたらその者は天才的な能力を発揮していると思えてしまう。実を言うとこの在り方は観念アートの手法だと言える。表現したいコンセプトが先にあってそれを具体化しているのが観念アートだと・・・私は信じないが。これは何かを発明でもするような行為だろうかアートをやっている者たちがそれ程頭がいいのだろうか?発想が小中学校の図画工作と変わらないレベルなのに。
私は絵を描くときに理屈は考えない。言葉で表現できるほど国語能力は良くないし、文学者でも哲学者でも自然科学者でもない。ただ感覚的に視覚的な記憶として残っているイメージが複雑に合わさっているものが時間とともに失われる前に具体的にしたいと欲求するから絵を描く。たとえ下手糞でも。つまり紙一枚、鉛筆一本で感性をぶちまける・・・(と言ってパフォーマンスと勘違いしないで)。
アルタミラの壁画を描いた人たちも美味しい食料(牛とか鹿)を描いてみたのではないのか。日頃絵を描かないやつには分からんだろうと思う。
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