先週全国共通テストが行われた。文科省は何を考えているのか、また再来年には新しい共通テストを始めるそうだ。振り回されるのは受験生だ。受験はそもそも何のためにあるのか?ヨーロッパの国々では大学入学資格試験というのが全国共通テストとして行われるが、それに似せた制度として、この国でも導入したのだろう。しかしヨーロッパの国々との事情の違いは、個別の大学で更なる入学試験が行われることはなて、空きがあって、希望すれば大学で何歳であっても入学できるということだ。年を取って、もう一度勉強したい人には自由に学問ができる体制は民主的だろう。しかしヨーロッパではこの国ほど大学が多くなくて、この国ように7割近くが大学進学するようなことはない。いつの間にか私学が乱立し、いや県立、市立まで新しく創立されている。政治家が関与しているのは、例の「もりかけ問題」で文科省が裏で動いていることは明らかになった。だから受験は政治家が操作する内容になっている。そしてそれを要求しているのは経済産業界である。
つまり、この国で教育は企業の労働者を育てるために、その要求にこたえるため若者は「自分の人生」を深く考えることなく、学校教育で個人性を大事にする、いや考えることもなく、送り出されるシステムになっている。高校から大学へ行くまでに選択は自由だったろうか?掛け持ちで有名校を選ぶのは当たり前で、滑り止めでランク下の大学を選ぶのも当たり前で、高校教師がそうするものだと教え込む。高校も「我が校から何名大学進学した」かを誇らしげに自慢する。だが次のステップでも単に労働者を生産するだけの教育になっていることに反省はない。
かつて「ゆとり教育」という制度が採用されて、「受験一辺倒」の教育方針を考え直す取り組みがされたが、「円周率3.14を3で計算してもよろしい」というような弊害を生みそうな考え方が批判を浴びた。しかし良い点は全く評価されずに終わった。ゆとり教育の方針では、大学受験までに取得する項目を減らして、「体験学習」という、これまで考えられなかった実践的な教科を取り入れて、「自分」を意識させるきっかけを与えたことは、とても重要だった。教師もそれを学習すべきであった。しかしその大事な意義を感じる間もなく、ゆとり教育は終わりにされたのである。特に産業界からの批判が大きく、政治家が又動いたのである。彼らはいつも国民に共通認識や集団の価値観を強要する。多くの者がそのまま当然だと思い込んでいる。これを訂正して個人主義と個人責任をみんなが持つべきだ。そして感情的にものを解釈せず、論理的、合理的に理解できる頭脳を持つべきだ。
私は、もし教育の中で、各々の「個人性」について考え、大事にする教育が行われていれば、学級崩壊などの事件は無いように思う。西洋の国では授業中に大騒ぎしたり、暴力をふるう生徒は厳しく処罰されるが、だから学級崩壊がないというのではなく、問題は教育に関することより、個人的なことだからである。
教育は自由平等の権利として保障されなくてはならない。その権利としての意識が大学受験までの間に学べるように、またしっかりとした「選択決定」が自分で出来るような状況を作り出さねば「人としての幸福」は得られないと思う。そして大学を卒業したらすぐに就職しなければならないという「社会通念」を排除して大学院や博士課程が自由に選べて、また海外留学も大事な経験として考える社会でなければならないと思う。
今の企業が高学歴やとなる才能のある「労働資本」となる若者より、黙って言うことを聞く「労働力」を求めているから、給料が少ない300万円世帯が多くなってしまった。これは小泉の時代から、企業の都合の良い方向に、そして若い世代が「拝金主義と物質主義」に凝り固まる原因を維持させている。GDPの伸びは嘘である。厚労省がまた自民党安倍政権の後押しをして、所得統計をごまかした。
とにかく若い人たちは「自分」を大事にすべきだ。「貴方は何をしたいのか?何が好きか?」と問いたい。だから受験には自分の意志を、志を持ってほしい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます