CubとSRと

ただの日記

「運転の下手な人≠運転に向いてない人」

2019年02月27日 | バイク 車 ツーリング
 昔、有料だった道路に入ると、すぐRX-7らしいのが後ろにぴったりつけて来た。ちょっと前に脇道で流入のチャンスを待ってたやつだろう。「危ない!」と思った。こんな走り方をする車にあったのは久しぶりだ。
 追い越しをさせられるような場所ではないし、よける場所もない。小さな(百度くらいの)カーブを抜けたところで、取り敢えずは加速して引き離し、それからよけるか。
 その小さなカーブの内側、狭いゼブラゾーンにかかりながら姿勢を立て直そうとした時、RX-7は加速し、追い越しを掛けてきた。
 「えっ?」と思った。こんなところで抜くか!?
 思う間もなく今度はすぐ前を走る白い車にぴったりとつけた。前の車も危険を感じたらしく加速したが、ぴったりと食らいついたままだ。
 トンネルを抜けた分岐のところで、前の車は右に進む。左に進んで前方を遮るもののなくなったRX-7は、一気に加速して、すぐ視界から消えてしまった。
 何なんだろう、と思った。何でこの、車間距離も十分にはとれない混んだ道であんなマネをするんだろう。 先日、ネットの相談に
 「車の運転がちっとも上手にならない。家族からも『危なっかしくって同乗したくない』と言われるんだけれど」
 といった内容のものがあった。
 よくある悩みだ、同感だ、と思って回答を見て驚いた。
 「運転に向いていない人というのは、います。あなたはその一人みたいだから、運転はやめた方が良い」
 、みたいな回答がいくつも出ている。というより大半はそれだった。
 自動車学校で教えられた「運転に向いてない人」というのは、それとは違っていた。少なくとも「運転の下手な人=運転に向いていない人」、ではなかった。
 「運転に向いていない人」というのは確かにいる。けど、それは「運転がぎこちない」とか「動作が緩慢だ」とかいうのではなく、「浅慮」「お調子者」「早とちり」等、どちらかと言えば、一般に「運転が上手」なのではなく「上手に見える」「上手だと思っている」人、のことなのだ。
 歩いていて人にぶつかることがある。けど、それは運動神経が鈍いから、ということは滅多にない。
 大方は「不注意」「油断」「考え事をしていた」「他のことに気を取られていた」のであって、
 「お前は歩くのに向いてないから、歩かない方がいい」
 、なんて言ったら、言った方が「人でなし!」と非難の目で見られるのは想像に難くない。
 たかだか10キロほどの速度で移動する人間だって、そんなことが原因でぶつかることがある。
 車はハンドルやブレーキ、アクセルペダルという介在物がある上に、自分の体ではない数百キロから一トン以上の物体が時速数十キロ以上で動くわけだ。当たると間違いなく大きなダメージを受ける。少々のハンドルさばきやペダルの踏み具合の上手下手より、まずは
 「危険な運転をしないこと」
 であり、そのためには
 「適切な車間距離を保つ」
 という理性による慎重さが求められるだけだ。
 「運転がいつまでたっても下手」なのは、それなりにでも「運転できるようになりたい」という気持ちがない、だから、「練習をしない」、という実に簡単な理由からだ。
 それで(つまり、練習もしないで)「上手くなった」としたら誰だって何の問題もないわけだが、現実は全てが約束事で成り立っている社会だ。車社会だって例外ではない。練習をして、社会の約束事を身に着けるしかない。決して「向き不向き」なんぞといういい加減なことで判断するようなものではない。
 
 ということになると、「運転に向いてない人」というのは、「運転できるようになりたい」なんて思わない、「練習をしよう」とも思わない人か、先に書いた「浅慮」「お調子者」「早とちり」の「運転が上手」なのではなく「上手に見える」「上手だと思っている」人、のことなのだ。
 早い話が、あのRX-7、前を走る車にピタリとつけたわけだが、もし、その車が加速しないで、それどころか急ブレーキをかけていたとしたら、どうなっていたろう。間違いなく追突事故を起こしている。
 「煽ったって、急ブレーキなんか掛けるはずがない」
 と思うからこそ、ぴったりとつけることができたわけで、そこには「運動神経」「運転が上手い」だけではどうにもできない危険が内在している。
 他人の善意を全面的に信頼しているからこその我儘だ、と言い換えることもできよう。(「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して~」、かな?)
 バイクにしか乗ったことがなくって、どんな場合でも車にぶつかれば「必ず負ける」ということを、或る種、諦めに似た感じで身に着けているからだろうか、「下手なら乗るな。迷惑だ」という発想が、どうもピンと来ない。
 何とも傲慢で、傍若無人だ、と思う。そのくせ、そんなことを言う人は、バスやダンプを煽るか、というと、それはしない。
 何だか卑しいな、と思う。軍事力の増強に力を注ぎ、領土の拡大に励むどこかの国みたいだ。どんどん尊大になってくる。
 「謙虚」の先にある「思い遣り」というのは、卑屈な「観察」ではない。自らが努力をして力をつけ、相手を認め、余裕をもって受け入れることだ。
コメント
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