大真面目に取り組む。他人が笑っていようと、そんなの関係ない。
オープンカーだって、好きで乗ってるんだ、他人が
「似合わない」「ダサい」「いい歳してみっともない」「二人乗りに一人で乗っている定期」「ホント、バッカじゃねえの」
なんてからかってきたって、そんなの知ったこっちゃない。
だってホントに「好きだから乗ってる」だけのバカなんだもの。自分で金出して乗ってるんだ、一銭の援助もしてない奴からとやかく言われるこたぁねえや。好きでやってんだ。
その点から言えばバイクもオープンカーと同じだ。バカだから乗ってる。
「楽」を絶対基準にするならば、バイクもオープンカーも乗りゃあしない。
見られていることを十分に意識しているからこそ、おもねらない。自分の美意識と安全に対する考えから、服装や荷物等、自分なりの大真面目を通そうとする。
・・・・・・・・・・・・・・
芝居を見に行く。貧乏人の役の人は、それが主役であっても、当然のことながらみんな粗末な、或いはボロボロの、いかにもそれらしい衣装を身にまとい、演じている。
でも、その大方はちっとも貧乏には見えない。
言うまでもない。それらの衣装は舞台衣装で、手垢ひとつついてないからだ。見た目だけ継ぎはぎにしていたり、とんでもなく違う色合いのあて布をしたりしている「それらしいだけのもの」でしかないからだ。
と言うわけで、「民芸」だったか、の衣装はわざわざ農家に古着を買いに行って揃えていたのだそうだ。洗うと意味がないから、垢と汗の染み付いた野良着をそのまま使った、のだとか。リアルさを追求したのだろうか。
まあ、舞台というもの自体が虚構(何かの断面だけを見せるという)なわけだが、リアルさというのも何だかなあ、と思いはする。
しかし、「見て来たような嘘をつき」じゃない、「まことしやかに嘘をつく」のは芝居の一つの形。
面白おかしい、又はサービス精神一杯の娯楽演劇は人の心を和ませ、活力を湧かせるきっかけになるが、同じように「まことしやかに嘘をつく」演劇はその嘘の世界に、いつしか心地よく騙され、すっかり入り込んでしまい、気がついた時(演劇が終わった時)、大きな感動の波に呑みこまれてしまっている。
「心を和ませ、活力を湧かせる」のは、感情の発動、つまり感動なわけだが、この、「まことしやかに嘘を」つかれた時も感動しているわけだ。
だから、それもやはり(生きる)活力を生んでいることになる。
「リアルさを追求して、か、垢と汗の染み付いた野良着を~」と書いたけれど、実はそこまでして貧乏人の体裁をつくっても、舞台は虚構の世界なんだからそれは貧乏人ではない。
というより、いくら名演技であってもそれは貧乏人には見えない。そこに貧乏人特有の惨めったらしさがないからだ。
「ぼろは着てても心の錦」なわけだ。みんな役者だもの。
貧乏人の役だからと言って貧乏人のみじめったらしさまで醸し出したら、(そんな名演技)客は感情移入しても、そこから感動することを拒否する。
何がしかの、まあ、普通は数千円以上の入場料、指定席料などを払って、感動しようと思って見に来るわけだ。感情移入して感動することがあっても、活力が湧いて来ない、みじめったらしい、後味の悪さしか残らないような演劇、もう一度、足を運ぼうとはならない。
ツーリングの話なのに、貧乏人が主人公の演劇の話なんて我ながら無茶振りが過ぎると思わないでもないが、あえて書いてみた。
ツーリングと言えば、荷物で雰囲気が全く変わる。
夜逃げをしたのかと思うくらいの大荷物を括り付けて走っている者もいれば、雨具と僅かな荷物で、通勤時とほとんど変わらない格好の者もいる。
でも、これは通勤じゃないんだろうな、ということくらいはすぐ分かる。そんな人(ツーリングライダー)に限って服装が物々しい。
大概はツーリングともなれば夏場でも長袖のジャケット(!)を着ているし、足元も、スニーカーなんてことはまずない。
ボロボロの衣装を着ていても、役者が惨めに見えないのは、演劇に夢中だ、という純粋さが伝わって来るからだろう。
ツーリングは役者がどうこうじゃないけれど、この不便なバイクという乗り物が好きで乗っているという純粋さは、ある。
だから、ツーリングの時「そこまでしなくても」と乗らない人が思うような格好を、敢えてする。
夏の、ただでさえ汗が流れるような暑さの中で、わざわざ風通しの悪いブーツを履き、日焼けをして疲れるよりは、と、これまた暑苦しい長袖ジャケットを着る。
「世間は大袈裟だというだろうなあ」
なんて、これっぽっちも思わないで、この格好。
本人の思いには全く関係なく、見た目はほぼ「コスプレ」。
そして、大荷物を大工夫して括り付ける。
「バッカじゃなかろか」
でも本人は真剣そのもの。大真面目にそれをやっている。そしてそれがうれしくて仕方がない。
荷物もそうだ。使い込んで薄汚れてしまったリアバッグだっていい加減には括らない。左右一センチの狂いもないように均等に括ろうとしたりする。
そんな、周囲の人から見れば、ほとんど思い込みでしかないような服装、荷物。
それが少しも芝居がかっては、見えない。
薄汚れているだろうに、疲れて背中が丸くなっているだろうに、倦怠の風はない。逆に何だか余裕のような、充足感みたいなものさえ見える。
あてのないツーリングというものもあるけれど、ほとんどのバイク乗りは目的地を設定して、準備をし、出発する。目標を決めて前進する。
その時の顔つき。
心を如実にあらわす荷物の積み方。
車では、こうは行かないでしょ?
オープンカーだって、好きで乗ってるんだ、他人が
「似合わない」「ダサい」「いい歳してみっともない」「二人乗りに一人で乗っている定期」「ホント、バッカじゃねえの」
なんてからかってきたって、そんなの知ったこっちゃない。
だってホントに「好きだから乗ってる」だけのバカなんだもの。自分で金出して乗ってるんだ、一銭の援助もしてない奴からとやかく言われるこたぁねえや。好きでやってんだ。
その点から言えばバイクもオープンカーと同じだ。バカだから乗ってる。
「楽」を絶対基準にするならば、バイクもオープンカーも乗りゃあしない。
見られていることを十分に意識しているからこそ、おもねらない。自分の美意識と安全に対する考えから、服装や荷物等、自分なりの大真面目を通そうとする。
・・・・・・・・・・・・・・
芝居を見に行く。貧乏人の役の人は、それが主役であっても、当然のことながらみんな粗末な、或いはボロボロの、いかにもそれらしい衣装を身にまとい、演じている。
でも、その大方はちっとも貧乏には見えない。
言うまでもない。それらの衣装は舞台衣装で、手垢ひとつついてないからだ。見た目だけ継ぎはぎにしていたり、とんでもなく違う色合いのあて布をしたりしている「それらしいだけのもの」でしかないからだ。
と言うわけで、「民芸」だったか、の衣装はわざわざ農家に古着を買いに行って揃えていたのだそうだ。洗うと意味がないから、垢と汗の染み付いた野良着をそのまま使った、のだとか。リアルさを追求したのだろうか。
まあ、舞台というもの自体が虚構(何かの断面だけを見せるという)なわけだが、リアルさというのも何だかなあ、と思いはする。
しかし、「見て来たような嘘をつき」じゃない、「まことしやかに嘘をつく」のは芝居の一つの形。
面白おかしい、又はサービス精神一杯の娯楽演劇は人の心を和ませ、活力を湧かせるきっかけになるが、同じように「まことしやかに嘘をつく」演劇はその嘘の世界に、いつしか心地よく騙され、すっかり入り込んでしまい、気がついた時(演劇が終わった時)、大きな感動の波に呑みこまれてしまっている。
「心を和ませ、活力を湧かせる」のは、感情の発動、つまり感動なわけだが、この、「まことしやかに嘘を」つかれた時も感動しているわけだ。
だから、それもやはり(生きる)活力を生んでいることになる。
「リアルさを追求して、か、垢と汗の染み付いた野良着を~」と書いたけれど、実はそこまでして貧乏人の体裁をつくっても、舞台は虚構の世界なんだからそれは貧乏人ではない。
というより、いくら名演技であってもそれは貧乏人には見えない。そこに貧乏人特有の惨めったらしさがないからだ。
「ぼろは着てても心の錦」なわけだ。みんな役者だもの。
貧乏人の役だからと言って貧乏人のみじめったらしさまで醸し出したら、(そんな名演技)客は感情移入しても、そこから感動することを拒否する。
何がしかの、まあ、普通は数千円以上の入場料、指定席料などを払って、感動しようと思って見に来るわけだ。感情移入して感動することがあっても、活力が湧いて来ない、みじめったらしい、後味の悪さしか残らないような演劇、もう一度、足を運ぼうとはならない。
ツーリングの話なのに、貧乏人が主人公の演劇の話なんて我ながら無茶振りが過ぎると思わないでもないが、あえて書いてみた。
ツーリングと言えば、荷物で雰囲気が全く変わる。
夜逃げをしたのかと思うくらいの大荷物を括り付けて走っている者もいれば、雨具と僅かな荷物で、通勤時とほとんど変わらない格好の者もいる。
でも、これは通勤じゃないんだろうな、ということくらいはすぐ分かる。そんな人(ツーリングライダー)に限って服装が物々しい。
大概はツーリングともなれば夏場でも長袖のジャケット(!)を着ているし、足元も、スニーカーなんてことはまずない。
ボロボロの衣装を着ていても、役者が惨めに見えないのは、演劇に夢中だ、という純粋さが伝わって来るからだろう。
ツーリングは役者がどうこうじゃないけれど、この不便なバイクという乗り物が好きで乗っているという純粋さは、ある。
だから、ツーリングの時「そこまでしなくても」と乗らない人が思うような格好を、敢えてする。
夏の、ただでさえ汗が流れるような暑さの中で、わざわざ風通しの悪いブーツを履き、日焼けをして疲れるよりは、と、これまた暑苦しい長袖ジャケットを着る。
「世間は大袈裟だというだろうなあ」
なんて、これっぽっちも思わないで、この格好。
本人の思いには全く関係なく、見た目はほぼ「コスプレ」。
そして、大荷物を大工夫して括り付ける。
「バッカじゃなかろか」
でも本人は真剣そのもの。大真面目にそれをやっている。そしてそれがうれしくて仕方がない。
荷物もそうだ。使い込んで薄汚れてしまったリアバッグだっていい加減には括らない。左右一センチの狂いもないように均等に括ろうとしたりする。
そんな、周囲の人から見れば、ほとんど思い込みでしかないような服装、荷物。
それが少しも芝居がかっては、見えない。
薄汚れているだろうに、疲れて背中が丸くなっているだろうに、倦怠の風はない。逆に何だか余裕のような、充足感みたいなものさえ見える。
あてのないツーリングというものもあるけれど、ほとんどのバイク乗りは目的地を設定して、準備をし、出発する。目標を決めて前進する。
その時の顔つき。
心を如実にあらわす荷物の積み方。
車では、こうは行かないでしょ?