‥‥と書きましたが、例によって以前の日記の再掲文です。
この連休に関しては色々ありますからね、毎年、同じようなことを書き続ける(再掲し続ける)つもりです。
憲法記念日もそうですが、みどりの日に関しても考えようによっては色々なものが見えてきて、ちょっと複雑な思いにもなります。4年前の日記を大部分、再掲します。
・・・・・・・・・・・・・・・
~~昨年までは「みどりの日」なんか、国旗、揚げないぞと思ってたんですが、今年は考え方が違います。
と言うより、今年の方が一歩進んだというか、ほんのちょっと考えが深まったというか、そんな感じです。
勿論、名前からはっきりとさせて、変更点も明示するに越したことはないですよね、何事も。みんなが名実ともに納得し、協力して事に当たる。それが一番です。全会一致が一番。
でも、現実にはそううまくはいかない。必ず誰かが反対する。いやいや、頑なに話すら聞こうともしない。
聞こうともしないで
「聞こえなかった(ホントは耳、塞いでたんだけど)。でも、大きな声だったら聞こえてた!だから大きな声で伝えようとしなかったお前にも、ちょっと以上の責任がある。そうじゃないか!?」
なんてことを言われると、こっちとしては呆れ返るけれど、呆れながらも
「そりゃ、100%お前が悪いとは言い切れない。こっちだって100%正しいとは言えないかも。もうちょっと努力すれば良かったという気も、少しはある」
なんて反省したりする。本当に気が好いですよ、日本人は。
こんなことがないように屁理屈かとも思えるような演説をしてましたね、安倍総理。「痛切な反省」、だなんて。
「反省」ですからね、「省み」てるだけなんだから、お詫びなんかしてない。悔いたり、悔やんだり、の「後悔」なんかしてない。
「痛切」とは「くっそ~、しまったな!」ということ。相手の痛みを思い遣って、ではなく、痛みを感じるのは専ら自分。それが痛切。
「反省」は「省みる」。
だから、「痛切な反省」は、「しまった、もっとうまくやるんだった」という気持ちで以て過去を点検してみるということ。
繰り返すけど、そこに「悔いる」なんて私情は禁物です。そんなもの挟んでいたら冷静な点検などできない。
ましてや本当にあったかどうかも分からない、もっと言えば捏造の可能性大であるようなことに関してなんかは、「謝罪」「賠償」なんて「カモが葱背負って~」、ですからね。
そうやって少しずつ物事を進めていかなければ「1000年恨みを忘れない」「百回謝ったってそれで良いということにはならない」なんて言う相手は当然の事、自身だって自縄自縛になってしまって身動きは全く取れなくなる。
なのにそれでも前進しようとして、実際に焼け野原から復興するだけでなく、高度成長を遂げたわけだから、日本ってのはつくづく「恐るべき国」なのかもしれません。
あれ?また絶好調で脱線してしまいました。
「みどりの日」は緊急措置として、そんな命名をしたんでしたね、「昭和の日」では反対されるから。
勿論、民主、社民、共産の各党が反対するからでした。
これ、気をつけなきゃならないのは、それらの党が反対できるのは、それらの党を支持する国民が相当数いるから、ということです。「同じ日本人」っていう括り方は安易過ぎる。
じゃあ、天皇の諡号を出さなければ良いんだな?と言うことで、もっと「軽く」、「みどりの日」として、とにもかくにも昭和天皇の誕生日を祝日として残した。
そこにはきっと水面下での相当な政治活動があったんでしょう。
「『昭和の日』が嫌なら『みどりの日』はどうだぃ?ゴールデンウィーク、一日減るとさびしいぜ~?どうするぅ~?」
なんてことを言って、搦め手から行ったんでしょうね、自民党のことだから。
そして遂に四月二十九日は「昭和の日」となった。
先人は、大変な苦労をして、一旦は消された「紀元節」を名前を変えてでも、とにかく復活させた。
「昭和の日」だって同じです。本当なら平日になるわけです。それをとにかく休日として置き、遂に「昭和の日」に、した。
だから「みどりの日」はお役御免、です。
でも、昭和天皇が国の復興のために、と積極的に植樹祭に行幸されたという事実は、我々はそれこそ1000年だって覚えておかなければ、と思うようになりました。
「昭和天皇の御遺徳を思う日が二日もある」
今はそんな風に思っています。
「11月3日は明治節」なのに。
憲法発布の日を被せ、だから「文化の日」だと。
5月3日は東京裁判開廷の日だから。
憲法施行の日を被せ、「憲法記念日」だと。
「新嘗祭」を「勤労感謝の日」としたことも併せ、旧に復することも思い続けるべきでしょう。
・
この連休に関しては色々ありますからね、毎年、同じようなことを書き続ける(再掲し続ける)つもりです。
憲法記念日もそうですが、みどりの日に関しても考えようによっては色々なものが見えてきて、ちょっと複雑な思いにもなります。4年前の日記を大部分、再掲します。
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~~昨年までは「みどりの日」なんか、国旗、揚げないぞと思ってたんですが、今年は考え方が違います。
と言うより、今年の方が一歩進んだというか、ほんのちょっと考えが深まったというか、そんな感じです。
勿論、名前からはっきりとさせて、変更点も明示するに越したことはないですよね、何事も。みんなが名実ともに納得し、協力して事に当たる。それが一番です。全会一致が一番。
でも、現実にはそううまくはいかない。必ず誰かが反対する。いやいや、頑なに話すら聞こうともしない。
聞こうともしないで
「聞こえなかった(ホントは耳、塞いでたんだけど)。でも、大きな声だったら聞こえてた!だから大きな声で伝えようとしなかったお前にも、ちょっと以上の責任がある。そうじゃないか!?」
なんてことを言われると、こっちとしては呆れ返るけれど、呆れながらも
「そりゃ、100%お前が悪いとは言い切れない。こっちだって100%正しいとは言えないかも。もうちょっと努力すれば良かったという気も、少しはある」
なんて反省したりする。本当に気が好いですよ、日本人は。
こんなことがないように屁理屈かとも思えるような演説をしてましたね、安倍総理。「痛切な反省」、だなんて。
「反省」ですからね、「省み」てるだけなんだから、お詫びなんかしてない。悔いたり、悔やんだり、の「後悔」なんかしてない。
「痛切」とは「くっそ~、しまったな!」ということ。相手の痛みを思い遣って、ではなく、痛みを感じるのは専ら自分。それが痛切。
「反省」は「省みる」。
だから、「痛切な反省」は、「しまった、もっとうまくやるんだった」という気持ちで以て過去を点検してみるということ。
繰り返すけど、そこに「悔いる」なんて私情は禁物です。そんなもの挟んでいたら冷静な点検などできない。
ましてや本当にあったかどうかも分からない、もっと言えば捏造の可能性大であるようなことに関してなんかは、「謝罪」「賠償」なんて「カモが葱背負って~」、ですからね。
そうやって少しずつ物事を進めていかなければ「1000年恨みを忘れない」「百回謝ったってそれで良いということにはならない」なんて言う相手は当然の事、自身だって自縄自縛になってしまって身動きは全く取れなくなる。
なのにそれでも前進しようとして、実際に焼け野原から復興するだけでなく、高度成長を遂げたわけだから、日本ってのはつくづく「恐るべき国」なのかもしれません。
あれ?また絶好調で脱線してしまいました。
「みどりの日」は緊急措置として、そんな命名をしたんでしたね、「昭和の日」では反対されるから。
勿論、民主、社民、共産の各党が反対するからでした。
これ、気をつけなきゃならないのは、それらの党が反対できるのは、それらの党を支持する国民が相当数いるから、ということです。「同じ日本人」っていう括り方は安易過ぎる。
じゃあ、天皇の諡号を出さなければ良いんだな?と言うことで、もっと「軽く」、「みどりの日」として、とにもかくにも昭和天皇の誕生日を祝日として残した。
そこにはきっと水面下での相当な政治活動があったんでしょう。
「『昭和の日』が嫌なら『みどりの日』はどうだぃ?ゴールデンウィーク、一日減るとさびしいぜ~?どうするぅ~?」
なんてことを言って、搦め手から行ったんでしょうね、自民党のことだから。
そして遂に四月二十九日は「昭和の日」となった。
先人は、大変な苦労をして、一旦は消された「紀元節」を名前を変えてでも、とにかく復活させた。
「昭和の日」だって同じです。本当なら平日になるわけです。それをとにかく休日として置き、遂に「昭和の日」に、した。
だから「みどりの日」はお役御免、です。
でも、昭和天皇が国の復興のために、と積極的に植樹祭に行幸されたという事実は、我々はそれこそ1000年だって覚えておかなければ、と思うようになりました。
「昭和天皇の御遺徳を思う日が二日もある」
今はそんな風に思っています。
「11月3日は明治節」なのに。
憲法発布の日を被せ、だから「文化の日」だと。
5月3日は東京裁判開廷の日だから。
憲法施行の日を被せ、「憲法記念日」だと。
「新嘗祭」を「勤労感謝の日」としたことも併せ、旧に復することも思い続けるべきでしょう。
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