「阿字の子が 阿字の都を立ち出でて 泣き泣き帰る 阿字の都に」
、だとばかり思っていたけど、本当は
「阿字の子が 阿字のふるさと 立ち出でて また立ち還る 阿字のふるさと」
なんだそうだ、御詠歌では。
なるほど、御詠歌の方が(当たり前だけど)ちゃんと意味が通っているし、境地が高まって行っているのが能く分かる。
本当の道を求めようと修行の旅に出て、やっと分かってみると初めから全てのものは裡にあった、と。
メーテルリンクの「青い鳥」と一緒。前を向いてひたすら歩いていたら一周していた。ただ、この一周、前と同じようで質は全く違う。
辿り着いた我が家には以前から飼っていた青い鳥がいたけれど、帰ってみて初めて、その青い鳥が一番の、本当の青い鳥だったと分かる。
全てのものは初めから「在る」けれど、見ることはできないし、触れることもできない。(色即是空)
けれど、修行の旅に出る(=毎日を真剣に生きる)ことによって、何も分からなかった、つかめなかったものが分かるようになる(空即是色)。
言い方を変えれば、
「何かに取り組むことで認識能力を高めれば、道理によって成り立つ『世界』を捉えることができる」
と、なるだろうか。
覚えていた方のは、親に反抗して家を飛び出た子供が、世の中の酸いも甘いも十分に味わって、分別が付くようになり、やっと親の有難さが分かって涙ながらに親に詫びを言う、と。
(さらに進めば、その時親はもう鬼籍に入っている、という展開。)
一読しただけなら、そんな印象を持つ。
「阿字の子が 阿字の都を立ち出でて 泣き泣き帰る 阿字の都に」
「泣き泣き帰る」という言葉がそんな印象を持たせるんだろう、より具体的でなんだか「親孝行」の四文字が浮かんできて。
しかし、現世に生まれ、死ぬまでを指す「阿吽」という単語の「阿」、「阿字の子」というのは「生まれた者」という意味だけだから、この歌には本来「人は生まれ、生き、死ぬ」と言う意味しか詠まれてない。
となると、当然、「行間を読む」ということが大切になる。そしてその際、親子の情愛などという感覚は、ひとまず置いといて、ということになる。
読むカギは「立ち出でて」と「立ち還る」。この言葉から「積極的に生きる」「前向きに考え、行動する」という事の大切さを説いているんじゃないかな、と思い当たる。
「生まれたことの意味」というのは「探し出す」ものではなく「作り出す」ものではないか。
そう考えれば「泣き泣き帰る」と言うのだって、「夢破れて逃げ帰る」のではなく、「全てが分かって感激の涙を流しながら」、という事であってもおかしくはない。
何でこんなことを書いているか?
「やりもしないで、やろうともしないで(つまり、初めから否定する気で)、他者についてとやかく言うのは、ちょっと恥ずかしくないか?」
ってこと。
大体「プディングの味は食べれば分かる」とは言うけど、一度食べただけで分かるのは「味」くらいのもの。
製法云々や周辺の全てのことは「修行の旅に出る(=毎日を真剣に生きる)」ことをしなければ分からない。
アイドリングスクリューをいじったSRのキャブレターの調子を知るためには、とにかく乗ってみなきゃ。
・・・と言うわけで、今からちょっと出てみよう。
・
、だとばかり思っていたけど、本当は
「阿字の子が 阿字のふるさと 立ち出でて また立ち還る 阿字のふるさと」
なんだそうだ、御詠歌では。
なるほど、御詠歌の方が(当たり前だけど)ちゃんと意味が通っているし、境地が高まって行っているのが能く分かる。
本当の道を求めようと修行の旅に出て、やっと分かってみると初めから全てのものは裡にあった、と。
メーテルリンクの「青い鳥」と一緒。前を向いてひたすら歩いていたら一周していた。ただ、この一周、前と同じようで質は全く違う。
辿り着いた我が家には以前から飼っていた青い鳥がいたけれど、帰ってみて初めて、その青い鳥が一番の、本当の青い鳥だったと分かる。
全てのものは初めから「在る」けれど、見ることはできないし、触れることもできない。(色即是空)
けれど、修行の旅に出る(=毎日を真剣に生きる)ことによって、何も分からなかった、つかめなかったものが分かるようになる(空即是色)。
言い方を変えれば、
「何かに取り組むことで認識能力を高めれば、道理によって成り立つ『世界』を捉えることができる」
と、なるだろうか。
覚えていた方のは、親に反抗して家を飛び出た子供が、世の中の酸いも甘いも十分に味わって、分別が付くようになり、やっと親の有難さが分かって涙ながらに親に詫びを言う、と。
(さらに進めば、その時親はもう鬼籍に入っている、という展開。)
一読しただけなら、そんな印象を持つ。
「阿字の子が 阿字の都を立ち出でて 泣き泣き帰る 阿字の都に」
「泣き泣き帰る」という言葉がそんな印象を持たせるんだろう、より具体的でなんだか「親孝行」の四文字が浮かんできて。
しかし、現世に生まれ、死ぬまでを指す「阿吽」という単語の「阿」、「阿字の子」というのは「生まれた者」という意味だけだから、この歌には本来「人は生まれ、生き、死ぬ」と言う意味しか詠まれてない。
となると、当然、「行間を読む」ということが大切になる。そしてその際、親子の情愛などという感覚は、ひとまず置いといて、ということになる。
読むカギは「立ち出でて」と「立ち還る」。この言葉から「積極的に生きる」「前向きに考え、行動する」という事の大切さを説いているんじゃないかな、と思い当たる。
「生まれたことの意味」というのは「探し出す」ものではなく「作り出す」ものではないか。
そう考えれば「泣き泣き帰る」と言うのだって、「夢破れて逃げ帰る」のではなく、「全てが分かって感激の涙を流しながら」、という事であってもおかしくはない。
何でこんなことを書いているか?
「やりもしないで、やろうともしないで(つまり、初めから否定する気で)、他者についてとやかく言うのは、ちょっと恥ずかしくないか?」
ってこと。
大体「プディングの味は食べれば分かる」とは言うけど、一度食べただけで分かるのは「味」くらいのもの。
製法云々や周辺の全てのことは「修行の旅に出る(=毎日を真剣に生きる)」ことをしなければ分からない。
アイドリングスクリューをいじったSRのキャブレターの調子を知るためには、とにかく乗ってみなきゃ。
・・・と言うわけで、今からちょっと出てみよう。
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