CubとSRと

ただの日記

子供の日

2019年05月05日 | 重箱の隅
 「子供」の日を「子どもの日」と書こうが「こどもの日」と書こうが、本質は「子共の日」であることに変わりはない。
 「子」の複数形。
 自分のことや仲間のことを謙譲して「身共」「我々共」と言ったり、「俺共」が訛って「おいどん」。
 それから見れば「子供」は自分で言うんじゃなくて大人が言うわけだから、当然謙譲語ではない。逆に見下した言い方になる。
 だから、「こども」という言い方は良くない、と言う。
 で、学校や教育委員会にねじ込んで、「『子ども』にしろ」とか「いや『こども』、とひらがなの方がいい」とか。
 しかし、そういう考え方は、あまりにも表面だけを捉えた物の見方だと思う。
 生まれながらに「人間」、なのではない。育てられて人間となる。
 いつまでも「子共」ではないのだから、敢えて「子共」と呼び、当の「こども」も大人も一緒になって、大人になるよう育てる(促す)。
 そのためには「こどもは小さな大人」、なんて、初めから完成されているような、成長することに目を向けない下らない捉え方はすべきではない。
 「今は『子共』だけど、これから一人前の大人、人間になる」
 成長途上の存在であることを指す言葉なのだ、と、大人、子供、双方の意識付けのために、この言葉を使わねば。
 立派な大人に成長するように、という意識付けの一つが「子供の日」で、昔、武士の家では虫干しも兼ねて鎧櫃から鎧兜を出し、吹き流しや旗指物(幟)を掲げて子供に見せた。(吹き流しは母衣が初めと思われる)
 子供はそれを見て、家に誇りを持ち、立派な武士にならねば、と幼心に思う。
 町家で、それを真似て、でも流石に鎧兜はないから、と、
 「幟(のぼり)だけでもあげようじゃないか。『のぼり』と言えば鯉の滝登り。いっそのこと吹き流しを鯉の形にしたらどうだ」
 幟(のぼり)と昇り(のぼり)の洒落。それで、鯉の瀧昇りと掛けてみた。
 「喜ぶ」⇒「よろ昆布」、「賞(め)でたい」⇒「鯛」なんかに比べりゃ、なかなかハイレベルに洒落のめしている。
 段々に豪華になり、気がついたら吹き流しを一番上にして五色の鯉がまるでめざしのように並び、泳ぎ、もつれている。
 親の思いと家の現実がないまぜになって、まあ、なんとも賑やかな・・・。あ、悪口大会になってしまった。

 というわけで(?)、独り暮らしの爺さんには立派な大人になることを期待すべき子孫もいないけど、大きく見れば靖國神社参拝と同じ、国の宝である全ての子供が立派に育ちますように、と願って、今日も国旗を掲げます。

 (でも、この辺、鯉のぼり揚げてる家ってないんだよね~。勿論、旗指物なんて掲げる家なんてある筈もなく。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする