CubとSRと

ただの日記

細かいこと。いや、「神は細部に・・・」

2019年05月15日 | 重箱の隅
 「行幸と御親拝」
 「天皇陛下が靖國神社を参拝(親拝)されたことはない」
 文章を読んでいる途中、この文章はこう言っている、と解釈しました。
 「はぁ?」と思いました。
 「何、言ってんの?昭和天皇は参拝されてるし、第一、靖國神社を置くようにと言われたのは明治天皇なんだから、参拝のなかった筈はない」、と。
 で、能々読むと、「皇太子の時は参拝されている」と続くので「??」となり、「天皇は皇室の祖先神や、代々の天皇を祀る神社には参拝をされるが、そうでない神社(靖國神社等)には行幸をされるのだ」と書かれていることで、やっと納得。
 天皇陛下は神官の長、日本国の祭主なのだから、国民の先頭に在って皇祖神を拝するのが仕事。
 国民を拝む、ということは対立する支配者であるという立場を唱えることになる。
 で、「参拝と行幸の違いは、神前での拝礼の角度にある」と展開し、「参拝は90度に身体を倒される(最敬礼)が、行幸の場合は30度だ」、と。
 「何だ、角度の違いか。それだけのことか。細かいことを。天皇陛下が来られるという事が大事なんだから、そんな角度のことなんか、この際、大したことじゃないぞ」
 、と考えますよね?大半の人は。
 でも、そうじゃない。
 一番大事なことは、靖國に祀られている英霊(靖國の大神)の立場で考えてみれば、という事です。
 「靖國の大神」、と言うより、英霊達は、天皇陛下の最敬礼を望むだろうか。
 一見、拝礼の角度なんて小さいことに見える。
 けど、そういう小さいところにしか心は表せない。そういうところにこそ、真心が見える。
 英霊達は国を護るために命を捧げることが、身近の人を守る近道と知っていた。
 だから「お母さん」と叫んだり、妻子の名前を叫んだりした。天皇陛下個人のためにではなく、国のために。
 国の存続がなければ、身近な人々は結局命を失うことになる。
 ・・・・・・・・・・・・・・
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
令和元年(2019)5月15日(水曜日)弐
         通巻第6078号
(読者の声2)最近天皇陛下の御親拝または御参拝に関する議論が多くなされています。
 さらに最近沼山光洋氏が自裁されたことにより議論が沸騰しています。一つ注意を喚起したいことがあります。
 今までに靖国神社に御親拝ないし御参拝された天皇陛下は一人もいらっしゃいません。
 明治天皇も大正天皇も昭和天皇も上皇も靖国神社に行幸されたことはあります。しかし御親拝ないし御参拝されたことは一度もありません。
 大正天皇、昭和天皇は皇太子時代には靖国神社に参拝されました。
 天皇陛下が御親拝ないし御参拝されるとき神殿に向かって90度上体を倒されます。天皇の祖先に当たる神様や亡くなられた天皇が祭られている神社では御親拝ないし御参拝されます。例えば伊勢神宮です。
 神社に行幸されるときは、約30度上体を倒して、深めの会釈をされます。
 天皇陛下が神社にいかれる場合は、天照大御神様の地上における現人神としていかれます。
 天照大御神様が靖国神社で90度上体を屈して拝まれることは、何より英霊の方々が望まれません。
 英霊は天皇陛下が近くにいらして御稜威に触れることをなにより喜ばれます。天皇陛下が靖国神社を御親拝ないし御参拝されるよう要求することは、天皇の御稜威そして存在そのものを否定することです。
 以前GHQの中の天皇陛下を裁判にかけず利用しようとした一派が、そのための文書・資料として木戸幸一に口述させ、寺崎英成に筆記させて作ったものが、昭和天皇独白録として公開されました。あれを第一級の歴史資料といった東京大学の教授がいましたが、それをはるかに超えた暴言、暴挙です。
   (當田晋也)

 (今日の同じメールマガジンに投書された方からの訂正記事があったので、勝手に訂正した文を掲載しました)

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見てみるもんだ

2019年05月15日 | 重箱の隅
 昨日の日記を書いた後で、以前同じ題名の日記を書いたような気がして検索してみた。
 何しろ、しょっちゅう「困った困った。書くことがない」、と言ってる奴だ。
 そいつが無理矢理「これから毎日日記を書こう」なんてことを思いついた。
 それなりに頑張って、でも、よくて二日に一度、大方は三日に一度日記を書くのが限度だったわけだから。
 「困った困った」という題の日記を書いたことがあるかもしれない。いや、あるに違いない。
 ・・・なんてことを思ってのことだったのだが・・・。
 現在の社会状況はあの頃とあまり変わらない。いや?変わってないのは国民の意識レベルだけ、か?
 ・・・・・・・・・・・・・・・
   (2013年8月7日の日記)
  「まず、何をする」
 何もできない時。
 解決のための具体策、乃至特効薬的な対応策がない時。
 一体どうしたら逆境を撥ね退けることができるのか。
 また、先日は「失言」と喧伝される、意図的な誤報道(偽詐報道と言うべきでしょうか)がありました。説明も、弁解も聞く耳持たず、で世界中に広まりました。
 「政治家なんだから、もっと言葉には気を付けてほしい」
 とか
 「中韓だけでなく欧米の心まで逆撫でしてしまった」
 とか
 「取り返しがつかない。総理共々辞任すべき」
 とか。
 バッカじゃなかろうか、なんて思ってしまいます。だってそうでしょう?
 「じゃあ、どうしたらいい?」ってことを一言も言ってないんですから。
 あるのは「困った困った」だけです。
 その次は相も変わらず「責任とって辞めろ」のオンパレード。
 辞めたら情況は良くなるのか?半年かけてつくってきた「シナ包囲網」、誰が受け継げる?
 何も解決策を示さずに、とにかく当人に「責任とれぇ~~」、ばかり。辞めたって何も好転なんかしない。
 なのに殆んど作り話みたいなことを殊更に採り上げて「彼があんなことをするからこんなことになった」。
 そして続けて「困った困った。どうしようもない」。
 恥ずかしいというか情けないというか。
 言うやつも言う奴だが乗せられる方も乗せられる方だ。マスメディアもだが、国民もだ。

 「脱亜論」を読んだって、「そうだその通りだ!」と言う人はいますよ。
 で、どうするんです?絶交する?それも良いでしょう。
 その分、投資したものは返ってきませんよ?大変な損失ですよ。日韓併合(植民地ではない)時の投資を思い出してください。返ってきました?それどころか最近だって、盗んで行った物だって「返さなくていい」なんて裁判所が判決出してる。全く「さっぱりわからない」。
 日本の製品がなければ、技術がなければ、成り立たないけど、彼らは「成り立たないから降参!」って言いますか?
 それどころか粗悪品つくって、売り捌き、文句が出たって知らん顔してるでしょう?新幹線のこと、忘れた人はないでしょう?彼の国は今でも「国産だ」、って言い張ってますよね。
 つまり「そうだ、その通り。絶交しよう」、じゃどうにもならない。詰将棋のように、詰めていくしか手がない。
 「脱亜」とは具体的にどうすることなのか。
 それは国民すべてが中韓を相手にしない、という事です。
 「中には良い人もいるから、決めつけるのは~」なんて言ってたら、「脱亜」にならない。「良い人は別枠」、と国民が同じ価値観を持てばいいだけのことです。

 以下は三年前の正月に書いた日記(2010年1月10日)です。
 隣国の虚仮威しはいずれ見破られ、冷笑されるだけになる。
 しかしこちらだって、勇ましいこと言ってるだけじゃ何も変わらない。
 何かを変えるには、たとえ笑われても、貶されても、これと決めた考えを、一途に突き進むしか方法はないんじゃないでしょうか。
 示威行動より、共感を持たれる行動を日々淡々と行うこと。それで、共感する人を一人でも二人でも増やすこと。
 これなら私のような臆病者にもできます。
 
 「脱亜論」「痩せ我慢の説」。今こそ必要な時です。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   「まずは生兵法(なまびょうほう)」  2010年1月10日

 昔、福沢諭吉が、知人の軍学者を訪ねた時のことです。
 まあ、幕末当時の軍学者、といえば、今の軍事評論家、とはちょっと違って、国の在り方から、外交、政治、軍事等、色々なことに詳しくて、よく言えば啓蒙家、悪く言えば煽動家。その分、熱心な信者もいれば、論敵もいて、命を狙われるおそれもあったのだそうです。
 さて、諭吉が部屋に入ると、床の間に、刃渡り三尺を優に超えるであろう大刀があった。
 普通の刀は刃渡り二尺二寸から二尺四寸(66センチから72センチ)です。三尺(90センチ)を超える大刀、というのは、腰にした状態から抜く、ということになると、相当な修練が必要です。
 驚いた諭吉が、
「これを遣えるのか」
と聞くと、軍学者は
「何、用心のためだ。これを置いておけば、そう簡単には誰も手を出すまい」
と笑って答えた。
 それを聞いた諭吉は「そうか」と頷いて、その刀を手にし、続けざまに二、三度、抜刀、納刀をやって見せた。
 その刀捌きに、軍学者が驚いて何も言えずにいると、
「この程度(自分の腕前)では、とても、実際の時には遣えない。却って、危険だから、貴殿は片付けられた方が良かろう」
と、忠告した。
 実は、福沢諭吉は立身(たつみ)流という居合い(抜刀術)を、豊前中津藩藩士時代から修練しており、記録から見る限り、かなりの腕前だったようです。
 立身流自体は定寸の刀(二尺四寸前後)を使いますから、三尺の刀を抜き差しするということは、おそらく初めてのことだったでしょう。
 その刀を少なくとも雑作なく(自然に)扱って見せた。相当な技量です。
 当然、諭吉はこう言いたかったのです。
 「普通の刀でさえ、満足に、遣えない者が、これ見よがしのことをすれば大怪我をする。」
 身の丈に合わぬ大法螺を吹くのはやめろ、と言いたかったのかもしれません。
 「まずは、確実に、こつこつと正しい取り組みをしよう。そうすれば、分からないことも少しずつ分かるようになり、できなかったことも、少しずつ、できるようになる。」
 「できないことがあっても、焦っていることを外に見せず、こつこつと、ひたすら努力し続ける。」
 「痩せ我慢の説」で勝海舟、榎本武揚を批判した諭吉の考えがここに見えます。
 
 この軍学者は、確かに、この幕末を余りにも大拍子(大雑把)に生きている。自分の命はもっと大事に考えなければ。
 いや、現代も同じだ。この軍学者と同じく啓蒙の姿勢は必要だ。同時に、そこには煽動家の側面もある。
 そして、諭吉が武術修業で身に着けた「焦っていても外には見せず、ひたすら精進を続ける」姿勢。
 初めは「生兵法」でしかありません。格好だけです。でも、それは仕方がないことです。格好だけで中身がないのを、気にして焦る。焦りながら、外には見せず、こつこつと努力をする。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 国政に於いては、パチンコ屋じゃあるまいし「一発逆転」を狙うなんて危険過ぎます。外交に於いては特にそうです。
 長い時間かけて、じりじりと詰めていく。
 そして、すっかり脚本が出来てから、「私は神輿」と、思い切り芝居がかった演技をする。



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