先々回に「(独自の)見識(教養)が事実報道の邪魔をする」といったようなことを書いた(再掲した)のですが、やはり言葉足らずだったと思います。
それでまたまた再掲。↓
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「教養が邪魔をする」
2010.07/19 (Mon)
大学の時、ほんの少し、「古事記」を習いました。
怠け者だった(今でもですが)せいか、まともなことはほとんど覚えていません。
ただ、印象に残っている二つ三つはあれから三十年近く経った今でもつい先日のことのように思い出されます。
専門的なことで言えば「~に成りませる神の名は○○、又の名を○○」という慣例的な表現で、「又の名を~」というのは同じ神の別名ではなく全く別の神の可能性がある、等ということでしょうか。
八百万の神々の坐(いま)す我が国。この我が国の神々とギリシャの神々は全く違います。一口に多神教と言っても成立は全く違うのだ、というのがこの「又の名を○○」で説明されている。そう思います。
日本では森羅万象の全てが神ですが、それぞれにまた四魂があったりする。
ギリシャの神々はいくつかの抽象的な概念も、神として人の形(厳密に言えば人の方が神の形をしているのだそうですが)をして存在し、その形を中心として色々な神の側面(多面的に神を捉える)を定義しています。
色々なところで、また、思いも寄らない形で何かに気付いたり教えられたりするということは日常誰しも経験をすることですが、最近どうもこの色々な角度から何かを学び取ることの重要性、又、楽しさを、あまり世間は気にかけなくなってきたのではないかと思っています。
あの「説明責任」という言葉なんかは、その最たるもののように思えます。
「説明」は分かる。「説き明かす」ことです。これはうれしい。
「分かりたい」と思っているところに、丁寧に平易に話してくれる。
「責任」は「任されたことを全て受け止める」。時には一命を賭して、です。
「分かりたいところについて説き明かしてくれる」。これはいいけれど「説明責任」となると「分かりたい」のを「説いてくれる」ことに対する感謝の気持ちが感じられないように思うのですが、どうでしょうか。
「説明責任がある。」
2010.07/19 (Mon)
大学の時、ほんの少し、「古事記」を習いました。
怠け者だった(今でもですが)せいか、まともなことはほとんど覚えていません。
ただ、印象に残っている二つ三つはあれから三十年近く経った今でもつい先日のことのように思い出されます。
専門的なことで言えば「~に成りませる神の名は○○、又の名を○○」という慣例的な表現で、「又の名を~」というのは同じ神の別名ではなく全く別の神の可能性がある、等ということでしょうか。
八百万の神々の坐(いま)す我が国。この我が国の神々とギリシャの神々は全く違います。一口に多神教と言っても成立は全く違うのだ、というのがこの「又の名を○○」で説明されている。そう思います。
日本では森羅万象の全てが神ですが、それぞれにまた四魂があったりする。
ギリシャの神々はいくつかの抽象的な概念も、神として人の形(厳密に言えば人の方が神の形をしているのだそうですが)をして存在し、その形を中心として色々な神の側面(多面的に神を捉える)を定義しています。
色々なところで、また、思いも寄らない形で何かに気付いたり教えられたりするということは日常誰しも経験をすることですが、最近どうもこの色々な角度から何かを学び取ることの重要性、又、楽しさを、あまり世間は気にかけなくなってきたのではないかと思っています。
あの「説明責任」という言葉なんかは、その最たるもののように思えます。
「説明」は分かる。「説き明かす」ことです。これはうれしい。
「分かりたい」と思っているところに、丁寧に平易に話してくれる。
「責任」は「任されたことを全て受け止める」。時には一命を賭して、です。
「分かりたいところについて説き明かしてくれる」。これはいいけれど「説明責任」となると「分かりたい」のを「説いてくれる」ことに対する感謝の気持ちが感じられないように思うのですが、どうでしょうか。
「説明責任がある。」
聞く方は、分かりたいからというよりも「我々はそれを聞く権利があり、あなた方は説明をしなければならない。」
あんまり楽しそうじゃないですね。
「説明責任を果たせ!」(言ってみろ、聞いてやろうじゃないか。でも納得しないぞ!)
初めから反論する気みたいです。
あ、脱線していました。
「色々な形から何かを学ぶ」、ということでした。
「古事記の話。印象に残っていること」に戻ります。
印象に残っていることで最も大きなこと。
それはその時の先生が古事記の定本をつくられたのですが、底本として採用されたのが「真福寺本」だった、ということです。
古事記は御存知の通りとても古い本で、当時はまだ印刷術もなかったわけですから、本来は手書きの一冊だけです。当然、それが原本として残ることはありません。
だから今の世に知られる「古事記」は、全てそれ以降の写本(勿論手書き)ということになります。
書き写すにつれて誤字誤文ができてしまうのはやむを得ないことなのですが、同じく、誤字誤文でなく写本をした者が同じ字だからと簡略に書いたり、同じ意味だからと文章を書き直したりすることもあります。
今の世の中でそれをやったら、著作権法上、色々とあるのかもしれませんが当時はそんな法律もなく、第一、自分の家に置いておくだけだから書き方や写し方を変えたって問題はありません。
そんな風だから「古事記はどの写本が原本に一番近いのか」なんて研究が必要になってくるわけです。
わかるわけないですよね、原本がないんだから。
私は、講義でこの先生に真福寺本を底本とした理由の説明を聞いた時、感動しましたよ。
「この先生、すごい先生なんだな!」
見た目とのギャップもあって・・・ちょっと雰囲気で言えば刑事コロンボ、いや、アルテュール・ポワロみたいな推理、ブラウン神父?(そんなことはどうだっていいんだけど)、何だか人間心理の観察というか、人間性にまで分け入ることの大切さを気付かされたというか、とにかく衝撃でした。
真福寺本というのはいくつかある古い写本の中で最低最悪の本なのだそうです。何故か。
有名な写本の中では、一番誤字誤写が多く、またその間違い方も半端じゃない。
何でここにこんな言葉が出て来るんだ?と思うような間違いかたをしているし、文章の意味が通らないような写し方をしている。
まあ「クイズ ヘキサゴン」の、問題を誤読するのを正しく推理する、みたいなものですか。
早い話、他の写本は間違え方もきっとこの字を書くつもりだったのだろうとか、誤写というよりもわざと意味が通るように「書き改めた」のであろう、という何らかの法則のようなものが見えるのだけれど、真福寺本は無茶苦茶だ。つまり、とんでもない間違いをしている。原因は筆写した者の学問レベルが低いからにほぼ間違いない。
というわけで、他の相当に学問(それによる教養)のある者が写した写本に比べ、真福寺本と言われるそれは、ランクの低い、研究対象としては二~三級の写本だった。
それをその先生は敢えて「撰んで」底本とした。
「教養が邪魔してないんです。きっとこうだろう、とかこういう意味だろう、などの推理をしながら写したのと違って、訳も分からずそのまま写しているからとんでもない間違いをする。しかし、だからあまりに唐突(な間違い方をしているの)で、逆に本来のものを推理しやすい。見方を変えれば一番信用のできる写本ということになる。」
「目からウロコ」とは、このこと。筋が通っているでしょう?
「なまじの教養が邪魔をする。」
本当に、こうやって教養は「良かれと思って邪魔をする」
「そういえば・・・・」ってこと、ありませんか?
あんまり楽しそうじゃないですね。
「説明責任を果たせ!」(言ってみろ、聞いてやろうじゃないか。でも納得しないぞ!)
初めから反論する気みたいです。
あ、脱線していました。
「色々な形から何かを学ぶ」、ということでした。
「古事記の話。印象に残っていること」に戻ります。
印象に残っていることで最も大きなこと。
それはその時の先生が古事記の定本をつくられたのですが、底本として採用されたのが「真福寺本」だった、ということです。
古事記は御存知の通りとても古い本で、当時はまだ印刷術もなかったわけですから、本来は手書きの一冊だけです。当然、それが原本として残ることはありません。
だから今の世に知られる「古事記」は、全てそれ以降の写本(勿論手書き)ということになります。
書き写すにつれて誤字誤文ができてしまうのはやむを得ないことなのですが、同じく、誤字誤文でなく写本をした者が同じ字だからと簡略に書いたり、同じ意味だからと文章を書き直したりすることもあります。
今の世の中でそれをやったら、著作権法上、色々とあるのかもしれませんが当時はそんな法律もなく、第一、自分の家に置いておくだけだから書き方や写し方を変えたって問題はありません。
そんな風だから「古事記はどの写本が原本に一番近いのか」なんて研究が必要になってくるわけです。
わかるわけないですよね、原本がないんだから。
私は、講義でこの先生に真福寺本を底本とした理由の説明を聞いた時、感動しましたよ。
「この先生、すごい先生なんだな!」
見た目とのギャップもあって・・・ちょっと雰囲気で言えば刑事コロンボ、いや、アルテュール・ポワロみたいな推理、ブラウン神父?(そんなことはどうだっていいんだけど)、何だか人間心理の観察というか、人間性にまで分け入ることの大切さを気付かされたというか、とにかく衝撃でした。
真福寺本というのはいくつかある古い写本の中で最低最悪の本なのだそうです。何故か。
有名な写本の中では、一番誤字誤写が多く、またその間違い方も半端じゃない。
何でここにこんな言葉が出て来るんだ?と思うような間違いかたをしているし、文章の意味が通らないような写し方をしている。
まあ「クイズ ヘキサゴン」の、問題を誤読するのを正しく推理する、みたいなものですか。
早い話、他の写本は間違え方もきっとこの字を書くつもりだったのだろうとか、誤写というよりもわざと意味が通るように「書き改めた」のであろう、という何らかの法則のようなものが見えるのだけれど、真福寺本は無茶苦茶だ。つまり、とんでもない間違いをしている。原因は筆写した者の学問レベルが低いからにほぼ間違いない。
というわけで、他の相当に学問(それによる教養)のある者が写した写本に比べ、真福寺本と言われるそれは、ランクの低い、研究対象としては二~三級の写本だった。
それをその先生は敢えて「撰んで」底本とした。
「教養が邪魔してないんです。きっとこうだろう、とかこういう意味だろう、などの推理をしながら写したのと違って、訳も分からずそのまま写しているからとんでもない間違いをする。しかし、だからあまりに唐突(な間違い方をしているの)で、逆に本来のものを推理しやすい。見方を変えれば一番信用のできる写本ということになる。」
「目からウロコ」とは、このこと。筋が通っているでしょう?
「なまじの教養が邪魔をする。」
本当に、こうやって教養は「良かれと思って邪魔をする」
「そういえば・・・・」ってこと、ありませんか?