CubとSRと

ただの日記

「見識」で物事を見るのは当たり前。(つまり教養が邪魔をする) 後

2023年11月02日 | 心の持ち様
 「アサヒ新聞は考え方がしっかりしている。その結果、教養も高い。ただ、それは全てを否定するというやり方に基いたものだ」
というようなことで前回を終えました。
 「建国から敗戦までの日本の全てを、否定する。それがアサヒ新聞だ」
 という結論になります。

 さて、この「全てを否定する」といったやり方、思い出されましたか?
 以前に書いた、弁証法の三大法則で出てきた「否定の否定」に似ているでしょう?
 「違うだろう。ただの否定だろう?」
 そうです。「否定の否定」ではない。ただの「過去の全否定」です。
 つまり「革命」です。

 「アサヒ新聞は、GHQの威光を借りて、社会主義革命を社内で起こした。」
 打倒すべき前体制は消滅した。(みんなそれと知らず、辞職しましたからね。)
 革命は成し遂げられた!!!
 ってなわけです。
 こういう仕組みで「朝日新聞」は「アカヒ新聞」になりました。

 さて、元に戻ります。
 「考え方は社毎に違う」と書きましたが、そんなわけでアサヒ新聞ほど考え方の明確な新聞社は、ない。
 その「明確な考え方」、つまり「まず、過去を全否定せよ」という考え方は、入社したばかりの者にとっては「カルチャーショック」どころではありません。
 何しろ何から何まで全て否定される(勿論、これは、当人の主観からした、感覚ですよ)。
 
 (ここからは、他のメディアも同じです)
 新聞社に入ろうかと言うくらいの人は、大なり小なり文章を読むのが好きで文章を書くことも嫌いではない。
 逆に、好きだったり得意だったりする場合が多いかもしれません。

 そんな新人が運よく採用されたとします。
 入社一日目。記事を書かせてもらえる・・・・わけはない。
 二日目、三日目。同じこと・・・・。

 挨拶回りに連れて行かれるようになり、何週間か何ヶ月か経った頃、小さな記事を書くよう指示される。
 
 もう想像がつきますよね。
 「何、これ。こんな小さい記事か」と思いながらも「初めての原稿」、それなりに喜んで書いて持って行く。

 上司に恵まれた場合は「何だ!これは。学校で何習ってきたんだ!書き直せ!」くらいは言われるでしょうか。
 冷たいところなら「はい、ごくろうさん」で、担当の机の上。二、三日経つと「あ、ボツになったから」で終わり。
 前の方は「たったこれだけの枠で、書けるわけねえじゃん」とかなんとかボヤキながらも、やり直す。
 後の方は不信感ばかりが募る。
 共通するのは「やせ我慢で、やっと現状に耐えている」ということ。

 それでも、OKと言ってもらえるまで書き直すしかない。
 ①まず自己の全否定をさせられる。次に②上司の思っていることを(理解、でなく)「受け入れる」。

 簡単に書きましたが、これは大変なことです。
 自己を全否定するというのは、過去の全てをということです。
 勿論、文章を書くことに対して持っていた自信を徹底的にぶち壊される、ということです。
 そこに上司の言う考え方を「受け入れる」。

 二つの言葉をまとめると浮かんで来る言葉。それは「洗脳」です。
 過去を否定してもちゃんと記憶している。否定するというのは消去することではない。
 「教えられた考え方」を、「否定した過去の記憶を用いて」自分から整理をしていく。頭脳の、再構築とでも言いましょうか。

 そうやって今までとは違った表現、或いは論理の展開をするようになる。世間はこれを称して「一人前になった」という。

 或る人が持った疑問↓
~~~~~~~~~~~~~~~
 「ここで思った!
  このインタビュー、聞き手の記者は、取材した人が話したこと、
  本当にその通り、書いているのか?」

 学生の頃に原稿を頼まれた。
 が、掲載されたのを見て
 「これ、俺が書いた内容とほとんど違うじゃん?」
 この時、思った。新聞は記者たちが、思ったように書いているんだ!って。

~~~~~~~~~~~~~~~~ 

 子ども手当より雇用

 上記の人の疑問に対し、自身で出された答えは正しい。
 問題は、彼の記者が、悪意の有無は別にして、
「意図的にやった(歪曲・捏造)のか、はたまた無意識にやったのか」ということです。
 
 今回書いたのはこれは「無意識にやっている」のだ、ということをはっきりさせたかったからです。「悪意を持ってやっている」わけでも、ない。

 だから許す、ではない。全くの反対。
 「悪意なく、意図的でもない」。こんな恐ろしいことはない、と言いたいのです。
 そうでしょう?無意識に全く悪意もなく日本を破壊しようとしているわけじゃないですか。

 記者は全て大なり小なり「自身の教養」で以って、取材対象を見、まとめ上げようとする。
 いくらそこに事実が書かれていても事実だけ読み取ることは出来ません。
 事実による文の構築は、その人の「教養」に委ねられている。


 ここから先は蛇足ですが。
 そういうわけで、新聞はネットより間違いなく論理的な文章が多い。
 そして、それぞれの「教養」のレベルも高い。
 「だから、騙される。」じゃ、読まないでおくか?
 
 ネットを使わない人が今も過半数以上を占めているのは、テレビ、新聞の調査を見れば明らかでしょう?
 「騙されるから読まない」じゃ勝てませんよ。

 
    秘策があります。麻生元総理の言葉です。


    「新聞は眺めるくらいがいいんだよ。」
     (読むとダマされる)
コメント (2)
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