良かれと思ってやること。
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「良いことばかりとは限らない」
2010.08/27 (Fri)
テレビで見ただけで行ったことはないんですが、奈良、柳生の里に「柳生正木坂剣禅道場」というのがあって、毎年、修行者が合宿をして鍛錬に励むのだそうです。
その際に坐禅も一緒にやったのか、それとも坐禅(静)に対して剣術修行は立禅(動)であるから「剣禅道場」というのか、は、寡聞にして知りません。
この「正木坂剣禅道場」、床板を張った最初の道場(稽古場)なんだそうです。
本来、剣術というのは野外で遣うものでしたから、当然その稽古も屋外。地面の上でやるものでした。しかしそれは習練のために色々な問題を抱えているということでもあります。
屋外の稽古場というのは考えてみれば問題ばかり。
まず「雨が降る」、「風が吹く」「陽射しがきつい」「暑かったり寒かったり」「夜は暗い」。
テレビで見ただけで行ったことはないんですが、奈良、柳生の里に「柳生正木坂剣禅道場」というのがあって、毎年、修行者が合宿をして鍛錬に励むのだそうです。
その際に坐禅も一緒にやったのか、それとも坐禅(静)に対して剣術修行は立禅(動)であるから「剣禅道場」というのか、は、寡聞にして知りません。
この「正木坂剣禅道場」、床板を張った最初の道場(稽古場)なんだそうです。
本来、剣術というのは野外で遣うものでしたから、当然その稽古も屋外。地面の上でやるものでした。しかしそれは習練のために色々な問題を抱えているということでもあります。
屋外の稽古場というのは考えてみれば問題ばかり。
まず「雨が降る」、「風が吹く」「陽射しがきつい」「暑かったり寒かったり」「夜は暗い」。
何と軟弱なと思われるかもしれませんが、学生時代、「食事の用意も自分達で」、の合宿を経験した人なら、実際の練習時間が思ったほど取れなかったという記憶があるんじゃないでしょうか。
剣術等の習い事(修業・修行)も同じことなんです。睡眠と食事に取られる時間は、一日でほぼ決まっていて動かせません。睡眠は夜だし食事三食分まとめて、なんてできませんし。決まった時間に食を摂る。睡眠と食事の「間」に稽古をするしかないわけです。「稽古の合い間に食事を」と思ってしまいますがそれは、特別な練習の時だけ。普段は「睡眠と食事の合い間に稽古をする」。だから気象条件は大問題。
屋根の下で稽古ができる。随分と効率が上がったでしょうね。
雨が降らないから「地面の心配」がいらない。風が吹かない。壁もありますから。体感温度は風が影響します。それに強風の中では本当に稽古にならないけど、屋内なら陽射しの心配もいらない。風がないので寒暑の心配も減る。
屋根と壁、だけではない。当然、床板も張られる。
かくして柳生正木坂剣禅道場は芽出度く発足した、というわけです。
何よりも、の良いこと。それは「床板が張られている」ということです。
これは大変なことです。何しろ足元のコンディションを気にしなくて良い。
剣術等の習い事(修業・修行)も同じことなんです。睡眠と食事に取られる時間は、一日でほぼ決まっていて動かせません。睡眠は夜だし食事三食分まとめて、なんてできませんし。決まった時間に食を摂る。睡眠と食事の「間」に稽古をするしかないわけです。「稽古の合い間に食事を」と思ってしまいますがそれは、特別な練習の時だけ。普段は「睡眠と食事の合い間に稽古をする」。だから気象条件は大問題。
屋根の下で稽古ができる。随分と効率が上がったでしょうね。
雨が降らないから「地面の心配」がいらない。風が吹かない。壁もありますから。体感温度は風が影響します。それに強風の中では本当に稽古にならないけど、屋内なら陽射しの心配もいらない。風がないので寒暑の心配も減る。
屋根と壁、だけではない。当然、床板も張られる。
かくして柳生正木坂剣禅道場は芽出度く発足した、というわけです。
何よりも、の良いこと。それは「床板が張られている」ということです。
これは大変なことです。何しろ足元のコンディションを気にしなくて良い。
雨上がり、ぬかるむ地面での稽古では足をとられる。
特に困るのは地面には凹凸があること。当たり前ですね。でも、これまた足をとられる。そして地面には石ころがころがっている。石ころなら踏まぬようにすれば良いけれど、つい見落としてしまう一センチ以下の小石、それも尖ったのがころがっていてそれを踏んだりしたら。とんでもないことになってしまう。
床板のある道場で足元の心配をすることなく剣術の稽古ができる。
もう、完璧。「剣禅道場、万歳!!」なわけです。
でも標題の話です。「良いことばかりとは限らない」
剣術の基本は「相手のところまで行って刀を振り上げ、ただ一打ちと振り下ろす」、それだけです。
歩く時、人は上下に動きます。頭の位置も足が並んだ時が一番高く、踏み込んだ時は一番低い。
踏み込んだ時、低くなった頭(身体)と同時に刀も振り下ろせれば、斬撃力が増す。逆にこれがうまくかみ合わなければ斬撃力は半減します。
また、日本の両手刀法は両手の適度な絞りこみで刃筋を立て、斬撃力を増加させています。ですから歩く時に体軸(正中線)がぶれたらアウト、です。
というわけで、膝を上手く遣って上下動、それから派生する左右のぶれをなくすことを考えたら、膝を曲げやや腰を落として移動する、という形を発明するのに、さほど時間はかからなかったようです。
特に困るのは地面には凹凸があること。当たり前ですね。でも、これまた足をとられる。そして地面には石ころがころがっている。石ころなら踏まぬようにすれば良いけれど、つい見落としてしまう一センチ以下の小石、それも尖ったのがころがっていてそれを踏んだりしたら。とんでもないことになってしまう。
床板のある道場で足元の心配をすることなく剣術の稽古ができる。
もう、完璧。「剣禅道場、万歳!!」なわけです。
でも標題の話です。「良いことばかりとは限らない」
剣術の基本は「相手のところまで行って刀を振り上げ、ただ一打ちと振り下ろす」、それだけです。
歩く時、人は上下に動きます。頭の位置も足が並んだ時が一番高く、踏み込んだ時は一番低い。
踏み込んだ時、低くなった頭(身体)と同時に刀も振り下ろせれば、斬撃力が増す。逆にこれがうまくかみ合わなければ斬撃力は半減します。
また、日本の両手刀法は両手の適度な絞りこみで刃筋を立て、斬撃力を増加させています。ですから歩く時に体軸(正中線)がぶれたらアウト、です。
というわけで、膝を上手く遣って上下動、それから派生する左右のぶれをなくすことを考えたら、膝を曲げやや腰を落として移動する、という形を発明するのに、さほど時間はかからなかったようです。
「能力の範囲内でしか把握できない」、ではありませんが、屋根があり、壁があり、床板があり、道着を着て、袋竹刀を持って、となると、その「規制枠」の中で、技は変化、発展していきます。
野外では慌てて小石を踏まぬよう「歩み足の摺り足」が当たり前でしたが、床板があるのに、わざわざ左右に揺れ上下に揺れる歩み足をする必要はありません。
で、あまり考えることもなく足元への注意はされなくなりました。
技はこのようにして変化して行きます。修正主義、ですね。
「それではいかん!」と、頑なに型だけを守り、道場での稽古に適合しなければ、見るも無残な形に見えて来て化石扱いされる。それが教条主義。
こちらは剣術そのものが形骸化していきます。
こうなると、「良いことばかり」と思っていたのにどうも雲行きが怪しくなる。
江戸時代、剣道場に床板が張ってあるのが一般的になった頃、稽古の前に大豆を床に撒いておくことが流行ったんだそうです。
そして小説家による怪しい解説が登場する。
「剣道の基本は摺り足である。道場の床に大豆を撒き、勢いよくとび込むと大豆を踏んで『滑って』転ぶ。だから、摺り足の稽古のためにそうしたのである」
随分長い間、これは見逃されて来ましたが、或る時、剣豪小説の津本陽氏が
「大豆を床にばら撒き、摺り足を忘れて足を挙げると、大豆を踏みつけることになる。その疼痛に、思わず床を転がり回る羽目になるため、自然に摺り足を遣うようになった。」と書かれて以来、「滑って転ぶから摺り足になる」という怪しい説は見られなくなりました。
「滑って転ぶ」のではなく、「間違って踏むとえらい目にあう」。
野外では慌てて小石を踏まぬよう「歩み足の摺り足」が当たり前でしたが、床板があるのに、わざわざ左右に揺れ上下に揺れる歩み足をする必要はありません。
で、あまり考えることもなく足元への注意はされなくなりました。
技はこのようにして変化して行きます。修正主義、ですね。
「それではいかん!」と、頑なに型だけを守り、道場での稽古に適合しなければ、見るも無残な形に見えて来て化石扱いされる。それが教条主義。
こちらは剣術そのものが形骸化していきます。
こうなると、「良いことばかり」と思っていたのにどうも雲行きが怪しくなる。
江戸時代、剣道場に床板が張ってあるのが一般的になった頃、稽古の前に大豆を床に撒いておくことが流行ったんだそうです。
そして小説家による怪しい解説が登場する。
「剣道の基本は摺り足である。道場の床に大豆を撒き、勢いよくとび込むと大豆を踏んで『滑って』転ぶ。だから、摺り足の稽古のためにそうしたのである」
随分長い間、これは見逃されて来ましたが、或る時、剣豪小説の津本陽氏が
「大豆を床にばら撒き、摺り足を忘れて足を挙げると、大豆を踏みつけることになる。その疼痛に、思わず床を転がり回る羽目になるため、自然に摺り足を遣うようになった。」と書かれて以来、「滑って転ぶから摺り足になる」という怪しい説は見られなくなりました。
「滑って転ぶ」のではなく、「間違って踏むとえらい目にあう」。
野外の稽古で、石を踏んでしまうことを避けるための足への意識付け。床板がなかったときには考える必要もないことでした。
摺り足を大事と思うが故の工夫ですから、これは本質まで見返しての、新しい教育テクニック。修正主義ではありませんね。
ところが、今これ(豆をまく)をやる道場はあるでしょうか。おそらく「食べ物を粗末にする」という理由で廃れたと思います。ここ「能力の範囲内でしか把握できない」の典型です。代用品を考えれば良いだけのことだったのに。
至れり尽くせり、「良いことばかり」と思われた剣道場での稽古は、この一番大事な「摺り足の意味」さえ忘れさせてしまったのです。
「肝腎なことを見逃してしまう」のも問題ですが、今回のように「良いことばかり」と思ったら、肝腎要のところをつい忘れてしまう、というのも大問題。
「地獄への道は善意という名の敷石で敷きつめられている」
この言葉を真っ正面から捉えられるよう、心しなければ、と思います。
摺り足を大事と思うが故の工夫ですから、これは本質まで見返しての、新しい教育テクニック。修正主義ではありませんね。
ところが、今これ(豆をまく)をやる道場はあるでしょうか。おそらく「食べ物を粗末にする」という理由で廃れたと思います。ここ「能力の範囲内でしか把握できない」の典型です。代用品を考えれば良いだけのことだったのに。
至れり尽くせり、「良いことばかり」と思われた剣道場での稽古は、この一番大事な「摺り足の意味」さえ忘れさせてしまったのです。
「肝腎なことを見逃してしまう」のも問題ですが、今回のように「良いことばかり」と思ったら、肝腎要のところをつい忘れてしまう、というのも大問題。
「地獄への道は善意という名の敷石で敷きつめられている」
この言葉を真っ正面から捉えられるよう、心しなければ、と思います。