「なまじの教養が邪魔をする。」
教養は「良かれと思って邪魔をする」
これの関連からあの名言「地獄への道は善意という名の敷石で敷き詰められている」が思い出されます。
でも、一番簡潔で分かり易いのはやっぱり《教養は「良かれと思って邪魔をする」》でしょうか。そこに悪意がない分、余計に性質が悪い。
子供の頃能く言われました。
「怒ってるんじゃない。お前のためを思って言ってるんだ!」
親とか先生とか、時には周囲の大人からも。
今は「殴ったり蹴ったりするのはいけない。そこには怒りに任せた暴力があるだけだから」と言われますが、声を荒げて、或いはドスの利いた声で叱る、というのも、大人子供関係なしに精神的に追い籠められてトラウマになることを考えたら、暴力よりももっと大きな後遺症を残すことも。
叱ったり叩いたりといった極端な行動ではなくとも、教育(教える育てる)という行為は、良かれと思って行動様式や思考形態を押し付けてくるわけですから、される側からすれば基本、「いい迷惑」なわけです。
しかし、結果、大方はそのおかげで社会に適合できる人間になっていきます(教わる育つ)。
そしてそれをされて、それに応えていかなければ社会に適合できない。
教養は「良かれと思って邪魔をする」
これの関連からあの名言「地獄への道は善意という名の敷石で敷き詰められている」が思い出されます。
でも、一番簡潔で分かり易いのはやっぱり《教養は「良かれと思って邪魔をする」》でしょうか。そこに悪意がない分、余計に性質が悪い。
子供の頃能く言われました。
「怒ってるんじゃない。お前のためを思って言ってるんだ!」
親とか先生とか、時には周囲の大人からも。
今は「殴ったり蹴ったりするのはいけない。そこには怒りに任せた暴力があるだけだから」と言われますが、声を荒げて、或いはドスの利いた声で叱る、というのも、大人子供関係なしに精神的に追い籠められてトラウマになることを考えたら、暴力よりももっと大きな後遺症を残すことも。
叱ったり叩いたりといった極端な行動ではなくとも、教育(教える育てる)という行為は、良かれと思って行動様式や思考形態を押し付けてくるわけですから、される側からすれば基本、「いい迷惑」なわけです。
しかし、結果、大方はそのおかげで社会に適合できる人間になっていきます(教わる育つ)。
そしてそれをされて、それに応えていかなければ社会に適合できない。
社会に適合できない場合はアウトロー(外道)となるか、もっとひどい「社会(社会体制)の破壊者」になるか、です。
共産主義者は現社会(体制)の否定を主張するわけですから、殴ったり蹴ったりするのは言うまでもなく、強い口調で叱ることもできない、ということになる。結果、社会に適合するよう教育をすることはできない。そんなことをしたら、革命を実行しようとする時、自らの手で自らの首を締めねばならなくなる。
それで「適合するように」と教育することはせず、一部の「理想社会実現のために考える頭脳(指導者)」の指示通りに「行動する手足」となるよう、一方通行の教育(洗脳ともいう)を受けさせるだけ、ということになります。
共産主義者は現社会(体制)の否定を主張するわけですから、殴ったり蹴ったりするのは言うまでもなく、強い口調で叱ることもできない、ということになる。結果、社会に適合するよう教育をすることはできない。そんなことをしたら、革命を実行しようとする時、自らの手で自らの首を締めねばならなくなる。
それで「適合するように」と教育することはせず、一部の「理想社会実現のために考える頭脳(指導者)」の指示通りに「行動する手足」となるよう、一方通行の教育(洗脳ともいう)を受けさせるだけ、ということになります。
(個々の「人間」ではなく、社会を構成する一部分(構成分子)だから、社会での配置も指導者が決める。)
なまじの教養が新聞記者の考えを歪め、記者は良かれと思っていびつな報道をする。テレビのワイドショーも同じ、でしょうね。
そうなると自国を嫌う者が教育に携わるなんてとんでもないこと、ということがよく分かります。
なまじの教養が新聞記者の考えを歪め、記者は良かれと思っていびつな報道をする。テレビのワイドショーも同じ、でしょうね。
そうなると自国を嫌う者が教育に携わるなんてとんでもないこと、ということがよく分かります。
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「道」とは目的に至るための方策(とその実践)を意味する言葉です。
「地獄への道」とは、「我々の先祖・先達が営々として築いてきた、より豊かで幸福である(筈の)現社会」の反対の方向、「(取り敢えず)現社会をすべて破壊し、代わりにゼロから新しく作り上げる社会」へ向かうすべての行動(方策とその実践)と言い換えることができるでしょう。
万人に良かれと思って作ろうとする「理想の社会」。それはまだ現実にはないのだから、その完成にまで至る過程ではどんな困難が待ち受けているか。
それは誰にも分からない。どれだけ予測していても必ず「想定外」なことが起こる。その際、①現社会に未練のある者や②考えを深め団結して事に当たろうとしない者は生存すら許すわけにはいかない。「民主」主義、なんてとんでもない。
だからそうやって作り上げる「理想の社会」までの道は死屍累々といった惨状が展開されるしかないのであり、到達点である「理想の社会」には極々少数の指導者と、主体性を持たない「(人間ではない)社会分子」が存在するだけにならざるを得ない。
まさに「そこに愛はあるんか?」。