CubとSRと

ただの日記

世界が変だ。

2018年10月11日 | 日々の暮らし
 ~9月11日の日記より~
 昨日は昼寝もしていたのに、夜、風呂に入ろうとする辺り、時々眠くて目が回るような感じがあった。
 ところが、いざ風呂に入ると目がさえてしまって、寝たのは一時半過ぎ。
 3時半過ぎ、またひどく寝汗をかいて、気持ちが悪くて目が覚めた。
 2時間足らずで起きるのはいくら何でも、と、また寝る。
 6時頃、目が覚める。早い。6時半頃まで横になっていたが、眠れないからもう起きることにした。
 天井の蛍光灯が、いや、目に映る部屋の中の全てが、右上から左下に滝のように流れている。
 いつまで見ていてもGIFのように延々と流れ続ける。目を横に向けると、同じく横の景色が流れる。
 洗車機の中で景色が流れているように思う錯覚と同じだ。
 部屋の中が動いているのではなく、自分の目(眼球)が、左下から右上に向けて一秒以下の周期で往復運動をしているに違いない。だから景色が斜め上から滝のように流れて見える。
 
 そんな理由を詮索していてもしょうがない。流れ続ける景色を見ていれば、ベッドの上なのに乗り物酔いをしてしまう。
 目が勝手に動き続けていて、全く主体性が保てない。翻弄されている。
 いろいろ工夫をして、上を見たり下を見たり、起きてみたり、また横になったり、と色々やってみるのだが、やればやるほど追い籠められるようで、ついには胸がむかむかしてくる。乗り物酔いの初期症状だ。何十年も前に忘れてしまっていた感覚だ。
 血圧を測ってみると150を超えていた。下は90近く。
 とにかく、目を開けていたら、酔う。
 目が回るんだから、これでは病院にも行けない。
 なのに、階段の上り下りはできるのが妙なところ。目を開けたら目が回るから、目を閉じている。そうすれば歩けるし、階段の上り下りもできる。けど、当然、目を閉じてバイクや車の運転はできない。
 色々やってみた。坐って頭を少し垂れ気味にすると、おさまる。
 しかし、横になって仰向けになれば、景色が流れる。横向きになれば別の方向に流れる。伏せると気分だけが悪くなる。
 結局、頭を安定させる、動かないようにするのが良いみたいだ、と思いつき、首だけを巡らせるような動作は避けることにする。能楽の舞のようにして、腰を軸にゆったりと方向転換する。頭の中で鼓の音や「いよぉ~っ」という掛け声が聞こえる・・・んな訳ゃあ、ない。
 
 とにかく錯覚が起きぬようできるだけ目を閉じて、精神を集中することにした。
 一日、目を開けず、横になっているしかない。目からの情報さえ防げば、とにかく酔わないで済む。酔わなければ、体力の急激な低下は免れる。
 当然、朝食どころか、もっとひどくなって二階から降りられなくなったら大変、と寝汗をかいたパジャマのままで下に降り、居間で寝ていることにした。
 
 2時近くになって、また気分が悪くなる。これはまずいぞ。あれ以上打開策は考えられない。どうする。
 工夫しているのに、この期に及んでまた気分の悪くなった理由は、と考えて思いついたのは「腹が減りすぎて気分が悪くなった」だけ。
 朝から何も食べてないのだからしょうがない。でも、御飯の用意はできないし、やってる途中で気分が悪くなったら、火の始末が怪しくなるかも。
 空腹を胡麻化すためにドーナッツを一個。現金なもので気分の悪かったのはどこかに消えた。
 一眠りして4時半頃、目が覚める。あんなに酷かったのに随分マシになったのでインスタントラーメンを作り、血圧を下げるためにと、柿の葉茶を入れた。
 用心しているつもりでも、何が起こるか分からない。

 「またcubやSRは?」って?
 だから何が起こるか分からないんだもの。

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2日続けて、「飲まなかった」んだからね!

2018年10月10日 | 日々の暮らし
 ~9月8日の日記より~
 今日は一日、雨。それも結構な強雨。
 明日は今日よりも酷いと予報では言っている。
 だからというわけではないけど、今日は一日パジャマで過ごした。
 無精者みたいだけど、そんなことはない。寝汗をかいたら毎日洗濯する。
 (ということは寝汗をかかなかったら、しない、ということか?)
 Tシャツだって、たとえ数分でも、一度着たら必ず洗濯機に放り込む。
 昨晩カレーを作ったので、今朝はカレー。当然今晩もカレー。
 これで炊いておいた玄米飯は食べ終えた。鍋一杯、6人前という設定だが、2回の夕食と一回の朝食でなくなったので、毎回二人前ずつ食べていたということか。
 いつものことだが、カレーに牛乳はうまい。食べ終わった時に、コップの牛乳一気飲み。  
 このうまさは汗かいた後のビールの一気飲みに劣らない。
 そういうわけで、何ヶ月ぶりかで2日続けて酒を飲んでいないことになる。
 きっと明日、雨が降らなければ買い物に行く。
 「2日飲んでいないから」と踏ん反り返って大威張りで酒を飲んでいる己の姿が容易に想像できる。
 (自慢するほどのことか?)
 何しろ先日「ぴったんこカンカン」で「ししとうの素揚げ」という、何ともおいしそうな超簡単料理を見てしまったから、
 「オリーブオイルで、ひとつ揚げてやるか」、
 「ついでに『イワシのバジル風味焼き』も作ってやろう」
 、なんて思っている。
 (ホントはここら辺では『似ギス』と言われる魚でやるのが一番うまい。島根では『沖イワシ』という)
 そんなものつくって、飲まない方がどうかしている。そういった人の道に外れたことをしちゃならない!(?)
 「また、cubもSRも関係ないじゃないか」って?
 前と同じく。
 独り暮らしだもの。こんなこともある。
 
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チェーンオイルを注してみた

2018年10月09日 | バイク 車 ツーリング
 ~9月6日の日記より~
 夕食を摂り、日記を書いて、風呂に入り、一日を終わる筈だった。
 が、何か忘れているような気がする。
 風呂から上がってやっと思い出した。今日、初めてカブのチェーンにオイルを注したんだった。
 数か月前にオイル交換をしてもらった。以前に書いたように、その前はいつだったのか全く記憶にないくらい前のこと。
 バイク店の主人に、何かの話の途中で「オイル交換しましょうか」、と言われたのか、それとも「スーパーカブ」を読んで急に「そう言えば、オイル交換、いつしてもらったんだっけ」と気になり始めて、そのことを言ったら「オイル交換しましょうか」、と言われたんだったか。
 いずれにせよ、換えてもらったら嘘のように滑らかなエンジン音になった。
 うれしがって乗っていたら、カブ好きの集まる喫茶テントで「ガチャガチャ言ってる」、とオイル切れを指摘され、その場で小さな親切を有難く受ける。勿論、更に静かな優しい音になった。
 そうなると、今まで気にならなかった音が耳につくようになる。何だかシリンダーヘッドの辺りから出る音がちょっとトゲトゲしい。タペット調整をしてもらう。
 またまた静かで素敵な音になった。
 先日来、「そろそろチェーンオイルくらい自分で注そう、今度はせめてカバーを外して」と思い始めていた。
 誤解のないように言っておくけど、SRをはじめとしてこれまで乗っていたバイクは、ちゃんと自分でオイル、注してるんだよ。(シャフトドライブの何台かは当然除くけど)
 でも、覗き穴から見るしかないフルカバーチェーンケースのカブは、のぞき穴のふたを取る、という一手間が面倒で、見ないようにしていたんだった。
 「今日は涼しいから、一丁、やってみるか!」
 驚いた。カブのチェーンカバーは、丈の短いボルト2つだけで留められている。これを外せばチェーンカバーの下半分が簡単に外れ、オイル注しは実に容易にできる。
 これだけでも面倒くさいというのなら、のぞき穴の蓋を外せば、そこからでもできる。
 とにかく申しわけないくらい簡単にできるようになっている。加えてフルカバーだからオイルが切れるのをあまり心配せず走ることができる。
 全体を見ると、駒のいくつかに錆があったものの、スプロケットもまだまだ大丈夫。まあ、二十年ったって、1万4千キロ足らずしか走ってないんだから、こんなものか。
 チェーンオイル注し、完了。チェーンカバー、装着OK。
 この次はカバーの中の洗浄ということだが、さほど汚れていない。2万キロを超えてからでも良いのかもしれない。
 一つ良くなれば、別な不良部が見つかるのは世間の常。キリがない。
 でも、これまた逆に見れば、良くなったからこそ見えるわけで。
 「まあ、いいか」で過ごしてきたならそんなことは起こらない。
 「無限に続く不良部発見」は無限ループではなく、いずれ終わりが来る。
 終わりは来るけど、自分で無理矢理終わらせちゃいけないんだ、と思う今日この頃。

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これが始まり

2018年10月07日 | 日々の暮らし
 ~8月21日の日記より~
 夏休みに入ったと思ったら、もうあと十日ほどになった。
 夏休みというのは、小学生の頃も中学生の時も高校生になっても、待ちわびて突入した初めの二、三日間はまだ始まったばかり、ということで安穏としている。
 それが四、五日目になると、もう何もしないうちにこんなに日が過ぎてしまったと思い出す。
 それでもまだ、十分の一しか経ってないんだし。まだ色んな事やれる時間は十分残ってるんだし、と。
 退職して毎日が長期休暇となっても、妙なもので夏休みが近づくとワクワクする。
 大学を卒業してからだって、もう四十数年が過ぎているのに。
 でも、そのワクワクが、絶望的な暑さを乗り越えるエネルギーになっている。
 夏休みが終わったらブログを再開するつもりだった。が、今のところ書く内容の目途は全く立っていない。
 いっそブログ名も替えてしまえばもっと書きやすくなるかもしれないけど、と思ったりもする。「心機一転」という奴だ。
 これまでと違って随筆っぽいものや私小説風なものにすれば、と思ったりもしたが、そうなるとこれまで書いてきたものは全くと言っていいほど参考にならない。
 何よりもこれまで生きてきて「お話をつくって」とか「深い味のある文」なんてのを書くのが最も苦手なんだと実感、それも痛感しているから、結局は日々の感想文を書ければいいところだ。 
 バイクのことを書ければ良いようなものだが、30年余り乗っていても整備のことは何一つできないし、峠を攻めたりレースに出てみたりなんて、怖くて一度もしたことはないし。
 じゃあ、ジムカーナとか安全運転講習会なんてのを積極的に受けたりして優良ライダーを目指したか。それも全くない。
 だから、運転技術は決して自慢できるようなものじゃない。Uターンなんかだって怪しいもんだ。
 更にはキャンプツーリングだって、ただの一度もしたことはない。連休があれば行ける範囲内の宿を探し、旨いものを食べて帰ってくる。それだけだった。
 ただ、これを裏返せばそんな「何の変哲もない通勤ライダーの日記」、ってのは、ありそうで、なかなかない、ということ。その辺り、かな、書けるのは。

 そうなると、結局はこれまで通り「何も知らないただのおっさん(十年経って、今は爺さん)」路線のまま、か。
 それもいいな。

 
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色眼鏡

2018年10月06日 | 日々の暮らし
 ~8月13日の日記より~
 正午をだいぶ回ってSRで出る。
 用事を済ませて、ダム湖の駐車場の方に足を延ばす。
 朝は気鬱になりそうな、とまではいかないけれど、夏特有の不安定そうな空模様だったが、昼頃には嘘のように晴れた。
 ジャケットのせいもあるけれど、走っている分には風が心地よい。
 自販機の近くにSRを停め、落葉松を囲む形で作られているいつものベンチで「スーパーカブ」の一巻目を、初めから読み始める。通算4回目。
 「ないないの女の子」というキーワードを、これまで相当な色眼鏡、最近の言葉で言えばバイアスを掛けて見ていたんだなと思い始めている。
 「両親なし、友人なし、趣味なし。ないないの女の子」。
 「両親なし」に目を奪われ、あとの二つがその上で展開される話、として読んでいたように思う。
 これじゃ、「家なき子」「小公女」「赤毛のアン」、ちょっとずれるけど「ハイジ」と同じになる。
 「両親なし、友人なし、趣味なし」。これ、対等だった。
 そして、これに「カブあり」と、くるのは、カブは趣味ではなく、自身を育てるツールと認識し始めるからだ。
 「両親がいない」ということで、気の毒に思ってしまう。それどころか母親には逃げられた(捨てられた)となると、ただただ可哀想、不憫だと思ってしまっていた。
 そうなれば、もう「ひたすら頑張って生きる健気な少女」にしか見えなくなってしまう。
 けど、そんな設定に更なる逆境。決して可愛げのある容姿ではない。おそらくはずんぐりむっくりで、感情の読み取りにくい小さな目の、いかにも田舎の目立たない女子高生。極め付きは名前が「小熊」。苗字ならしょうがないけど名前だから。
 ここまでやられて、小説の挿絵やコミック版の小熊の容姿を見るとあまりのギャップに戸惑いさえ覚える。
 何度か読んでいるうちに、このいい加減極まりない母親は相当な教養と高い芸術的センスを持っているように見えて来るし、その教育を受けた小熊自身、決して鈍重な煤けたような子ではない。同じ失敗は繰り返さない、見ていて呆れるくらい確実に進歩する。現実に周囲の大人は全てその様子に感嘆している。気づいていないのは本人だけ。
 「友人がない」のは要らないから。「趣味がない」のも、生きていく上で不要だから。その「生きる」ことだって、単に生きることを維持しているだけで、「生きたい」という欲求からではない。執着心が全くない。
 「~のために生きる」という目的が見い出せてないんだから当たり前のことなんだけど。「生きる」ということに欲求の必要性を感じない、「生」は当たり前にあるものと思っている年代だ。
 それがカブを手に入れてから、具体的に必要な物(心身両面で)を手に入れることで、段々に執着心を持つようになっただけなんだ、と分かって来た。
 
 そうなると「両親なし」ということの、別な重要性が見えてくる。
 両親がいたら、とてもじゃないけどカブを買うことなんてなかったろうし、それが自身を結果として育てていく道具になるなんてことは、あり得ない。まず、カブを買おうという発想すらなかったろう。
 もしも、ということで考えても、手に入れたカブでこういう形で大きく成長する、なんてないだろう。
 パンク修理だって別世界の出来事のまま。
 現実、椎はいつまでたってもパンク修理なんかはできないだろうし、できるようになろうとも思わない。そんな時間は自分の理想のバールづくりに費やすんじゃなかろうか。
 
 おそらくは大学生だろう、数人、新しいバイクでやって来て、大声で話している。
 そばに行く気もないし、例によって仲間同士で喋っている中に、爺さんが入っても、そんなに話が続くわけもない。
 何より、今まで以上に話そうという気が起きない。
 
 

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