もう一つ再掲。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2013.11/25 (Mon)
昨日「野分祭」と題して日記を書いたんですが、今朝、「憂国忌」の記事が宮崎正弘氏のメールマガジンに出ていました。
氏のメールマガジンを拝見するようになって数年になります。
ジャーナリストにもこういう憂国の士がある、青山(繁晴)氏とは違った形ではあるけれども、国を思う気持ちの強さは同じだな、なんて思ってました。
全く以て、恥ずかしいことなのですが、氏が学生時代、日学同の新聞の編集長をしていたことを、最近まで全く知らなかったのです。
日学同は御存じの通り、森田必勝氏らが中心となってつくられた、民族派学生運動組織です。70年安保の時、民族派全学連ともいえる全国学協と日学同は、一般に言われる学生運動に対し、真っ向から論争を挑み続けました。当然、時には武力衝突も起こしています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
宮崎正弘の国際ニュース・早読み
(中国の「防空識別圏」設定は戦争をやらかす準備だ)
2013/11/25 (月) 7:48
随筆 宮崎正弘 「三島由紀夫自決から43年の歳月」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
♪
随筆 「三島由紀夫自決から43年の歳月」
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
文豪、三島由紀夫の割腹自決事件はきょうからちょうど四十三年前の昭和四十五年十一月二十五日だった。
直後、江藤淳は冷たく「ごっこの時代」と言い放った。小林秀雄と福田恒存はとりたてて発言をせず川端康成は後を追うように自裁した。
アメリカ人の良き三島文学理解者の一人はアイバン・モリスだった。彼は『金閣寺』の名訳でも知られるが、『高貴の敗北』を書いてヤマトタケル、和気清麻呂、楠木正成、大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛の列に三島由紀夫を位置づけた。日本歴史の「悲劇の英雄」として。
ロシアは軍人の名誉から『憂国』を礼賛したほか西欧諸国でも翻訳が広く読まれた。
中国では当初「軍国主義の復活」とか「悪い男」、「陽明学を曲解した作家」と誤解されたが、『豊饒の海』の全訳がでるに及んで急速に評価替えが起きた。イタリアは一番よく三島を理解したが、古代ローマの武士は切腹の伝統があったからだ。
学生時代、筆者の親友の一人が森田必勝だった。かれは楯の会学生長として三島と一緒に自決した。
森田必勝は三島と一緒だった体験入隊から帰るとすぐ筆者の目の前で「僕は先生の為に命をかけます」と書いて速達で送った。かれは日頃から勉強会でも「ぼくは国のために死にたいと思います」と胸を張って発言した。当時、私たちは「いかに生きるか」と懊悩していた時期に森田必勝は「いかに死ぬか」と考えていた。
昭和四十五年夏に三島は雑誌『諸君!』で「革命の哲学としての陽明学」を発表した。これをすぐに読んで、「三島さん、随分と遠いところへ行ってしまったなぁ」と衝撃をうけた。直後、私学会館で森田必勝と出会ったが、蒼白の顔色、いつもの快活な笑顔がないので「どうしたの」と愚問を発した。この頃、森田は三島との自衛隊乱入の決意を秘めていたのだ。
三島事件以後、日本の思想界に大きな変化があった。
昭和40年代は思想史的にみれば左翼全盛から保守派の台頭という思想的変質の時期と重なる。左翼や全学連の革命ごっこは失敗し、「ベ平連」や全共闘が壊滅し、ノンセクト・ラジカルといわれた組織を嫌う世代は雲散霧消し、そして保守思想が地下水脈から水面(みなも)に顔を出した。
価値紊乱のカオスに三島の諌死は日本人の精神のありかたを問う、精神のクーデターとなった。
三島の事件前夜までの変遷を見ると『鹿鳴館』『憂国』『喜びの琴』などを通じて、テロリストと文明開化の非対称、二二六将校らの怨念、裏切られた日本精神を描き「あの暗い根から生い立った日本の熱血」と比喩した。
三島は未来を「ロボット天皇制」の、無機質でニュートラルな経済大国が来ると予測し、そのとき高質な日本文化が喪われて、やがて「天皇共産主義制」の危機があると、『文化防衛論』で展開した。
国際情勢は変貌し日本に危機意識が芽生え国学の復興が見られるようになった。
(宮崎正弘、北国新聞「北風抄」から再録)
◎◎◎
(以下は付録です)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
平成25年(2013)11月24日(日曜日)
通巻第766号
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
♪
森田必勝烈士の故郷、四日市で追悼シンポジウム開催
全国から200名が参加し、墓参、顕彰碑に献花。43年前の出来事を語る
***********************************
11月24日、四日市は快晴だった。
四日市文化ホールには全国からおよそ200名の熱心な三島ファンならびに関係者など参加者が駆けつけ、遠くは北海道、関東からは団体で、そして関西方面からも列車やバスを乗り継いで、それぞれの熱い愛国心を秘めて、四日市へ馳せ参じた。
「あの1970年代を駆け抜けた森田必勝の青春」と題するシンポジウムに参加するためである。
会は冒頭に森田必勝実兄の森田治氏(元三重県議会副議長)が挨拶。実弟の森田必勝の青春時代、中学、高校時代の人生への取り組みや、二年に亘った浪人時代の思い出を淡々と語った。その並々ならぬ決断力において初心を貫徹した人生を兄としてどうみるか、などを語り継いだ。故郷の四日市でこのような追悼の式典を実行することが長年の責務と感じてきたとも言われた。
また父親が「必勝と、もうひとつ和平という名前を用意していたが、終戦間際のタイミングで生まれたので必勝にしたのだろう」とも語られた。
引き続き宮崎正弘氏が講演し、遺稿集作成までの秘話を中心に森田必勝と三島由紀夫との出会い、学生運動時代の森田は「我が事において悔いず」がモットーであり、集会ではいつも「僕は国のために死にたいと思います」と明るくかたり、三島小隊第一回の体験入隊(一ヶ月、これは楯の会第一期生)から帰ると、オフィスでさらさらと「僕は三島先生のためにはいつでも命をかけます」と書いて速達で出したことなどを語った。
「われわれは人生をいかにこれから生きるかで懊悩していたとき、かれは如何に死ぬかを考えていた」。
また遺稿集は森田が残した十六冊の日記の重要部分の抜粋であり、資料的価値に溢れることなどが強調された。
会場受付にはこの貴重な遺稿集がおかれ、たちまち全冊完売となった。
引き続き鈴木邦男氏が講演し、森田との思い出や若松孝二監督作品の映画のこと、あれは森田事件ではなかったのか、などとした。
学生運動には派閥抗争もあった。その中心人物のひとりでもあった鈴木氏は、森田のキリスト教の素養との関係も指摘した。
会場には参加した、日本学生同盟初代委員長の斉藤英俊氏、楯の会同期生の山本之聞氏、武井宗行氏らが紹介され、また森田のあとの全日本学生国防会議議長、高柳光明、三島研究会代表幹事の玉川博己氏、評論家の中島岳志氏、三重県議の三谷哲央氏らが簡単なスピーチを行った。
なお三島研究会はシンポジウムに先立ち、近鉄四日市駅前に集合してチャーターバスで森田必勝実家の顕彰碑と銅像を見学後、ちかくの墓地へ集団で参拝した。
この墓参には30名近くが全国から駆けつけて焼香した。お墓はたくさんの花々で飾られた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
本当に余計なひと言とは思いますが。
「三島事件以後、日本の思想界に大きな変化があった。」
この一文、見落としてはならないと思います。
「文学的な死だ」とか、「あの『檄』文には、彼らしさも美しさも全くない」だとか、また、宮崎氏の文中にあるように文芸評論の大家であった江藤淳氏は、冷たく「ごっこの時代」と切り捨て、他の評論家も論評に苦心していました。揚句にはクーデターを起こし、処刑された青年将校の霊が三島に憑いていたとか。
けれど、間違いなく、これらの論評の混乱から後、ジパノフォビア(日本嫌い)の自覚、そしてそれの疑いへ、と日本の見詰め直しが始まりました。
「このままでは心のない、天皇『制』、の共産主義国になってしまう。皇国ではなくなってしまう(ロボット天皇制→天皇共産主義制)。」
昨日「野分祭」と題して日記を書いたんですが、今朝、「憂国忌」の記事が宮崎正弘氏のメールマガジンに出ていました。
氏のメールマガジンを拝見するようになって数年になります。
ジャーナリストにもこういう憂国の士がある、青山(繁晴)氏とは違った形ではあるけれども、国を思う気持ちの強さは同じだな、なんて思ってました。
全く以て、恥ずかしいことなのですが、氏が学生時代、日学同の新聞の編集長をしていたことを、最近まで全く知らなかったのです。
日学同は御存じの通り、森田必勝氏らが中心となってつくられた、民族派学生運動組織です。70年安保の時、民族派全学連ともいえる全国学協と日学同は、一般に言われる学生運動に対し、真っ向から論争を挑み続けました。当然、時には武力衝突も起こしています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
宮崎正弘の国際ニュース・早読み
(中国の「防空識別圏」設定は戦争をやらかす準備だ)
2013/11/25 (月) 7:48
随筆 宮崎正弘 「三島由紀夫自決から43年の歳月」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
♪
随筆 「三島由紀夫自決から43年の歳月」
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
文豪、三島由紀夫の割腹自決事件はきょうからちょうど四十三年前の昭和四十五年十一月二十五日だった。
直後、江藤淳は冷たく「ごっこの時代」と言い放った。小林秀雄と福田恒存はとりたてて発言をせず川端康成は後を追うように自裁した。
アメリカ人の良き三島文学理解者の一人はアイバン・モリスだった。彼は『金閣寺』の名訳でも知られるが、『高貴の敗北』を書いてヤマトタケル、和気清麻呂、楠木正成、大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛の列に三島由紀夫を位置づけた。日本歴史の「悲劇の英雄」として。
ロシアは軍人の名誉から『憂国』を礼賛したほか西欧諸国でも翻訳が広く読まれた。
中国では当初「軍国主義の復活」とか「悪い男」、「陽明学を曲解した作家」と誤解されたが、『豊饒の海』の全訳がでるに及んで急速に評価替えが起きた。イタリアは一番よく三島を理解したが、古代ローマの武士は切腹の伝統があったからだ。
学生時代、筆者の親友の一人が森田必勝だった。かれは楯の会学生長として三島と一緒に自決した。
森田必勝は三島と一緒だった体験入隊から帰るとすぐ筆者の目の前で「僕は先生の為に命をかけます」と書いて速達で送った。かれは日頃から勉強会でも「ぼくは国のために死にたいと思います」と胸を張って発言した。当時、私たちは「いかに生きるか」と懊悩していた時期に森田必勝は「いかに死ぬか」と考えていた。
昭和四十五年夏に三島は雑誌『諸君!』で「革命の哲学としての陽明学」を発表した。これをすぐに読んで、「三島さん、随分と遠いところへ行ってしまったなぁ」と衝撃をうけた。直後、私学会館で森田必勝と出会ったが、蒼白の顔色、いつもの快活な笑顔がないので「どうしたの」と愚問を発した。この頃、森田は三島との自衛隊乱入の決意を秘めていたのだ。
三島事件以後、日本の思想界に大きな変化があった。
昭和40年代は思想史的にみれば左翼全盛から保守派の台頭という思想的変質の時期と重なる。左翼や全学連の革命ごっこは失敗し、「ベ平連」や全共闘が壊滅し、ノンセクト・ラジカルといわれた組織を嫌う世代は雲散霧消し、そして保守思想が地下水脈から水面(みなも)に顔を出した。
価値紊乱のカオスに三島の諌死は日本人の精神のありかたを問う、精神のクーデターとなった。
三島の事件前夜までの変遷を見ると『鹿鳴館』『憂国』『喜びの琴』などを通じて、テロリストと文明開化の非対称、二二六将校らの怨念、裏切られた日本精神を描き「あの暗い根から生い立った日本の熱血」と比喩した。
三島は未来を「ロボット天皇制」の、無機質でニュートラルな経済大国が来ると予測し、そのとき高質な日本文化が喪われて、やがて「天皇共産主義制」の危機があると、『文化防衛論』で展開した。
国際情勢は変貌し日本に危機意識が芽生え国学の復興が見られるようになった。
(宮崎正弘、北国新聞「北風抄」から再録)
◎◎◎
(以下は付録です)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
平成25年(2013)11月24日(日曜日)
通巻第766号
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
♪
森田必勝烈士の故郷、四日市で追悼シンポジウム開催
全国から200名が参加し、墓参、顕彰碑に献花。43年前の出来事を語る
***********************************
11月24日、四日市は快晴だった。
四日市文化ホールには全国からおよそ200名の熱心な三島ファンならびに関係者など参加者が駆けつけ、遠くは北海道、関東からは団体で、そして関西方面からも列車やバスを乗り継いで、それぞれの熱い愛国心を秘めて、四日市へ馳せ参じた。
「あの1970年代を駆け抜けた森田必勝の青春」と題するシンポジウムに参加するためである。
会は冒頭に森田必勝実兄の森田治氏(元三重県議会副議長)が挨拶。実弟の森田必勝の青春時代、中学、高校時代の人生への取り組みや、二年に亘った浪人時代の思い出を淡々と語った。その並々ならぬ決断力において初心を貫徹した人生を兄としてどうみるか、などを語り継いだ。故郷の四日市でこのような追悼の式典を実行することが長年の責務と感じてきたとも言われた。
また父親が「必勝と、もうひとつ和平という名前を用意していたが、終戦間際のタイミングで生まれたので必勝にしたのだろう」とも語られた。
引き続き宮崎正弘氏が講演し、遺稿集作成までの秘話を中心に森田必勝と三島由紀夫との出会い、学生運動時代の森田は「我が事において悔いず」がモットーであり、集会ではいつも「僕は国のために死にたいと思います」と明るくかたり、三島小隊第一回の体験入隊(一ヶ月、これは楯の会第一期生)から帰ると、オフィスでさらさらと「僕は三島先生のためにはいつでも命をかけます」と書いて速達で出したことなどを語った。
「われわれは人生をいかにこれから生きるかで懊悩していたとき、かれは如何に死ぬかを考えていた」。
また遺稿集は森田が残した十六冊の日記の重要部分の抜粋であり、資料的価値に溢れることなどが強調された。
会場受付にはこの貴重な遺稿集がおかれ、たちまち全冊完売となった。
引き続き鈴木邦男氏が講演し、森田との思い出や若松孝二監督作品の映画のこと、あれは森田事件ではなかったのか、などとした。
学生運動には派閥抗争もあった。その中心人物のひとりでもあった鈴木氏は、森田のキリスト教の素養との関係も指摘した。
会場には参加した、日本学生同盟初代委員長の斉藤英俊氏、楯の会同期生の山本之聞氏、武井宗行氏らが紹介され、また森田のあとの全日本学生国防会議議長、高柳光明、三島研究会代表幹事の玉川博己氏、評論家の中島岳志氏、三重県議の三谷哲央氏らが簡単なスピーチを行った。
なお三島研究会はシンポジウムに先立ち、近鉄四日市駅前に集合してチャーターバスで森田必勝実家の顕彰碑と銅像を見学後、ちかくの墓地へ集団で参拝した。
この墓参には30名近くが全国から駆けつけて焼香した。お墓はたくさんの花々で飾られた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
本当に余計なひと言とは思いますが。
「三島事件以後、日本の思想界に大きな変化があった。」
この一文、見落としてはならないと思います。
「文学的な死だ」とか、「あの『檄』文には、彼らしさも美しさも全くない」だとか、また、宮崎氏の文中にあるように文芸評論の大家であった江藤淳氏は、冷たく「ごっこの時代」と切り捨て、他の評論家も論評に苦心していました。揚句にはクーデターを起こし、処刑された青年将校の霊が三島に憑いていたとか。
けれど、間違いなく、これらの論評の混乱から後、ジパノフォビア(日本嫌い)の自覚、そしてそれの疑いへ、と日本の見詰め直しが始まりました。
「このままでは心のない、天皇『制』、の共産主義国になってしまう。皇国ではなくなってしまう(ロボット天皇制→天皇共産主義制)。」