CubとSRと

ただの日記

「支那」って言うな!

2022年10月21日 | 心の持ち様
 日本が戦争に負けた時、戦勝国である中華民国・蒋介石総統は日本に「我が国を『支那』と呼ぶのは今後控えてほしい」と要望した。日本人が「支那」と言うとき、そこには侮蔑の意味が込められているからだ、と。
 それを受けて日本は「中華(中心・精華)の国だから中国」、と、言われるままに呼称を支那から中国にした。

 おかげで日本の「中国地方」が後からできた呼称のようになってしまって、中国五県の出身者は同じ日本人から「何?『中国』?ニッポン人じゃないのかぁ?www」とからかわれたりする。もちろんそんなことを言うのは子供の頃の話なんだけど。

 いずれにしても日本は古来「葦原の中つ国」と自称してきた。「中つ国」、つまり「中心にある国(謙虚だから自分から『華』だなんて言わないけど)」だ。
 中国地方とは九州から新潟・岐阜・愛知・三重までの「日本」の、大体中央部にある一帯を指す。
 ついでながら「葦原」は湿地で、「葦原の中つ国」は「水田を(多く)作ることのできる豊かな国」くらいの意味だったろう。分かり易い「理想郷」であって、「中華」のような深い理念はない。その分、「中華」などより古くからあった理念だと言えるかもしれない。
 では、転載です。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 中国が「支那」と呼ばれるのを嫌がる理由
                   高山正之

 旧臘、内蒙古省オルダスの裁判所で「成吉思汗(チンギスハーン)の写真を踏みつけ、その動画をアップした男に対し禁固1年の刑が宣告された」と宮崎正弘のメルマガにあった。
 成吉思汗はモンゴルの英雄だ。ユーラシアを席巻し、その末裔は長らく支那人を奴隷支配した。
 支那人には憎むべき征服王朝の祖だ。その写真を踏んでなぜ罪になるのか。
 その辺を宮崎は「巨大な支那の歴史の中で英雄はすべて支那人なのだ」というタクシー運転手の言葉で説明している。

 昔、中村粲(あきら)獨協大教授と熱河を旅したとき同じような言葉を聞いた。
 熱河には満州族の清王朝が建てた承徳宮がある。清の歴代皇帝はここにモンゴルの王、チベット、ウイグルの指導者を招いて政治折衝していた。しかし漢民族(支那人)は入れなかった。
 ということは「ここが清王朝の本当の都で、北京の紫禁城は漢民族を支配する奴隷監督所だった」と教授が語り、同行の中国学の権威が「漢民族は皇帝に奏上するのに家奴(奴隷)何某と名乗った」と注釈した。
 別の歴史家が「清とか元とか外来王朝の時代に支那には文化が栄えた」「対して漢民族のつくった王朝はなぜか残忍非道の統治になり、文化は衰退する」「それは今の中共政権にも当てはまる。民は塗炭の苦しみだ」。
 とか皆でがやがややっていたらガイド頭の漢民族、張宇が割り込んできた。

 彼はまず「支那人と言うな」と言った。フランス人がシノと言うのもスペイン人がチノというのもいい。でも「日本人が支那と言うのは絶対許せない」と言う。
 そしてこう続けた。「我が国を侵した外来王朝を我々は溶かし込んできた。元を建てたモンゴルも清を建てた満州も溶かし込んで今は我が領土になっている」
 「漢を脅かしたウイグルも、唐を危うくしたチベットも溶かし込んだ」
 かつて漢民族は満州服の長袍(チャンパオ)を着させられた。女もワンピース風のドレスに着替えさせられた。
 その満州が溶かし込まれた今、満州服をチャイナドレスと言って何の憚ることもなくなった。
 モンゴルも溶かし込まれたから成吉思汗も今は支那の偉大なる英雄になった。
 だからそれを侮辱すれば支那の法廷で罰して当然ということになる。

 他人のものは俺のものという漢民族の横柄さは分かったが、それがなぜ「支那人と言ってはいけない」ことに結びつくのか。


 (続きは次回)


  新潮文庫 
  「 変見自在 習近平は日本語で脅す」
        高山正之著 より
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なぜかシナ贔屓となり、日本を嫌うように

2022年10月20日 | 心の持ち様
書評 BOOKREVIEW
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 ピルスベリーは「50年、中国に欺されていた」と悔やんだが「百年」の間違いである
  1922年、日本を不当に批判した本書が日米開戦の伏線となった

  ♪
ポール・S・ラインシュ著、田中秀雄訳
  『日米戦争の起点をつくった外交官』(扶桑書房出版)
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 本書の原版は1922年、ちょうど百年前の本である。
ピルスベリーは「50年、中国に欺されていた」と言ったが、半世紀ではない。「百年」に亘ったアメリカの間違いである

 日本を不当にけなす本書が日米開戦の伏線の一つとなった。
 著者のラインシュは植民学の学者だったが、ウィルソン大統領の指名によって初代中華民国駐在公使となった。六年間、当時の中華民国に滞在し、袁世凱など歴史上の人物を交流し、外交の舞台裏で活躍した。中国人のエリート層と交流を深めるうちに、なぜかシナ贔屓となり、日本を嫌うようになった。
 つきあった中国人たちはアメリカ留学組が多く、知識階級で庶民の感覚とは無縁であり、しかもデモクラシーを志向していた。野党指導者が多く、また孫文や黄興らと交わった知識人たちとラインシュは交流していたのである。

▲中国人は日本の行動をつねに「陰謀」と捉えていたとする観

 本書は辛亥革命から十年後の、百年前に書かれた外交官に精密な記録であり、当時の中国の社会の底辺や権力者の動向、底流に流れる民衆の民度なども詳細に、精密な観察によっていきいきと描かれている。それゆえに多くの学者や歴史家が、この本から引用しているが、日本では今日まで翻訳がなかった。
 反日的とはいえ翻訳することには学術的な、歴史考察の参考としておおいに意義がある。ただし通読して中国人の人生観や宗教観など表面的で浅薄な観察も目立つ。とくに印象的なのは、中国人が日本の行動をつねに「陰謀」と捉えていたとする観察である。
 米国の外交官の偏見が混じるにせよ、考えさせられるのだ。

 曰く。
 「(日本の軍備拡張は)日本がこの機会に東亜の支配を実際におこなうことを意味すると解釈された。中国人は日本と理解を深めれば、必然的に中国が隣国の政治的支配に完全に服従することになると考えていた。中国人は、日本のあらゆる友好宣言に不信感を抱いている。私が中国と日本の間の率直な理解が望ましいと主張しようとするたびに、中国は日本を信用できない、日本はその公言によってではなく、過去の行動によって判断されるべきだ。それらすべてが安心させる宣言によって覆い隠された決定方針、政治的進撃をしめしていると言われた。このように、中国人はあらゆる場面で日本の陰謀を恐れていた」(124p)。

 ▲袁世凱は民主主義に関心がなく、弾圧の対象だった

 ラインシュは近代史の知識は豊富であり、英国の植民地政策がいかなるものだったかを知っていても日中関係の本質が、威嚇か土下座か、冊封体制に入って朝貢するか、させたかという歴史を知らず、嘗て日本が中国に朝貢していたか歴史感覚の郷愁を含めて、自分ならこういう陰謀をめぐらすという思考を日本にあてはめ、なんでもかんでも日本雄の陰謀と短絡させるあたり、その中国人の特徴的な思考傾向の考察までは至っていない。学者の限界だろうか。
 本書の原題は「シナにおけるアメリカ人外交官」で、日本の対華二十一箇条、袁世凱の台頭と失脚、ドイツの参戦、孫文と広東政府の対立、五四運動とめまぐるしく激動した状況の中で、著者はすっかり北京寄りとなって日本を批判した。つまり反面教師であり、タウンゼントとは真逆の感覚でシナとつきあったのだ。あまつさえ、この本が米国の対日外交に影響したのである。
 袁世凱は民主主義に関心がなく、というより民主派は弾圧の対象であって、自らは古代皇帝と同様な存在と過信しており、冬至には天壇に登って天子としての儀式を行い、その場には外国人多数も招待した。
つまり「軍事独裁政権が古い清王朝の後を継いだ。それだけのことである」(中略)「彼(袁世凱)には冒険家の面影もなければ、戦場を連想させるものもない。彼はいま、軍の指揮官というより管理者のようだ。彼が権力を手にしたのは、無限の忍耐力、人間に対する優れた知識、政治的な洞察力、そして何よりも無節操であっても、常に安全なゲームを行ってきたからに他ならない」(25p)

 社会に目を転じたラインシュはこう言う。
 「この広大な国の人口は、政治的な意味で均質なものではない(中略)。社会の単位は何世紀にもわたってそうであったように、国家ではなく家族である」
 そのうえ「中国人は驚くほど自意識がなくそれゆえに優れた役者である。通りを行き交う何千人もの人々を見ていると、彼らもまた演技をしているのだと感じる」(37p)
 そして指導者といえば張作霖は匪賊出身、張懐芝はクーリーあがり、軍混は行商人だった。王占元は馬丁だった。これらの人々が政治、軍事を掌握し、袁世凱の周りを囲んだのだ。
「富と権力という個人的な野望の目標だけを見据えていた」(234p)。

 ▲西原借款は返金されなかった。戦後の日中友好で吸い取られたのが6兆円

 かくして鍛え上げた外交術では、はるかに狡智に長ける中国指導層は、むしろ日本の善意と無知を利用して、かの「西原借款」をだまし取った。武器供与を含めると合計一億七千万円! 今日の貨幣価値にしていったい、幾らになるのか?
西原借款は大正6、7年の頃だから、当時の日本政府の歳入が約11億、15億円すなわち西原借款は歳入の一割を超えていたのだ。
 当時は戦争景気で日本はバブルそのもの、ウハウハ潤っていた時代だったため中国に金を貸せるのは日本とアメリカしかなかった。
中国との交渉役は寺内正毅内閣で首相側近だった西原亀三があたり、日本興業銀行・朝鮮銀行・台湾銀行が資金を拠出した。八八艦隊(大正九年度からの八ヵ年計画で艦艇103隻建造。予算総額は5億6484万9280円)が完成した場合、建造費用だけではなく年間維持費が6億円と見積もられていた時代である。
しかし中国は、これを日本が中華民国の貨幣を「円ブロック圏」にひきこむ陰謀だと難癖をつけ、返済に応じなかった。
日中友好で吸い取られたのが6兆円。いまも昔も日本人は底抜けにお人好しだ。


 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和四年(2022)10月19日(水曜日)
         通巻第7496号より

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 「中国は日本を信用できない、日本はその公言によってではなく、過去の行動によって判断されるべきだ。それらすべてが安心させる宣言によって覆い隠された決定方針、政治的進撃をしめしている」
 と言われた。このように、中国人はあらゆる場面で日本の陰謀を恐れていた。

 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではないけれど、「自分の影に怯える」。
 「 」の中の日本と中国を入れ替えてみれば能く分かります。
 「中国の公言は信用できない。中国とはどんな国なのか、過去の行動によって判断されるべき」。
 有史以来、自らを「中華」とし、日本のことは「化外(華外)の地」、「東の蛮族(夷)」と蔑視してきたのに、その蛮族に叩きのめされた。一度や二度ではない。更に日清戦争では桁違いに強くなった日本に手も足も出なかった。
 「日本は儒学や孔子、我が中華の文明を讃仰するくせに、いつの間にか西欧の文明を取り入れ、我が国を平気で足蹴にする。恩をあだで返そうとする油断のならない嘘つきだ」

 けれどそれ以前に、化外(中華文明の外)としてきた日本の文化(日本古来の文化にとどまらず西欧の文化まで取り入れてしまっている)を受け入れなければ、これからの世界でやっていけないということを何となく感じ始めているのだけれど、それが論理としてまだ掴めていない。
 だから「日本は信用できない。何をするにしても裏がある。陰謀が隠されているに違いない」と疑心暗鬼に陥るしかない。
 それで、「日本を介さず、直接、西欧から必要なものを手に入れよう」となった。けれど、そこには白人の有色人種蔑視があることを失念している。
 白人から見れば、「中華」なんて意識はなく、日支は共に有色劣等人種。
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今も昔も

2022年10月19日 | 心の持ち様
  書評 しょひょう (宮崎正弘)    

 憂国の書は没後六十年、世間から相手にされなかった
  幕末に蘇った林子平の先駆的国防論、現代語訳で復活
  ♪
家村和幸・編著『現代語で読む林子平の「海国兵談」』(並木書房)
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 林子平は、高山彦九郎、蒲生君平と並んで「寛政の三奇人」と言われた。この場合の「奇」は優秀の意味だ。
 根っからの勉強好き。警世家であり、脱藩して苦学独学を重ねた。著作旺盛、28歳のときに『富国建議』を書き上げて藩に提出したが無視された。蝦夷地探検にも赴き、長崎留学中の38歳のときに初めて世界地図をみて衝撃を受ける。

 『日本は世界と海でつながっている』。
 海防の重要性に気づき『海国兵談』を執筆する動機となった。しかし『海国兵談』は資金難で寛政三年(1791)にわずか38部が印刷されたに過ぎず、幕府に睨まれ入牢、仙台で謹慎処分となり、失意の裡に死んだ。
 憂国の書は没後六十年、世間から相手にされなかったのも驚きだが、自費出版の僅少冊子が幕末に外国船が出没するようになった突如、蘇ったのだ。紹介本がたちまち維新の志士たちの必読文献ともなって広く読まれたのである。
 この林子平の先駆的国防論、現代語訳で復活である。

 さて本書を論ずる前に林子平が「古代のことはともかく」として省略しているが、天智天皇の大失敗「白村江」に触れておきたい。これこそ日本が初めて体験した本格海戦だったからである。 

 斉明天皇七年(661)白村江に出撃した日本軍は三派に分かれ、第一派は1万余。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津である。斉明天皇が急死のため、第二陣は出航が遅れた。第二派が主力で2万7千人。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫だった(阿倍比羅夫は後詰め説あり)。
 第三派は1万余人。指揮官は廬原君臣だった。
 第一派は百済の豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人というが、別の史書では5000名とある。
 天智天皇元年(662年)3月、主力部隊である第二派軍が出発した。緒線は援軍を得た百済復興を目ざす陸軍が、百済南部に侵入した新羅軍を撃退し、勢いがあった。

 ところが唐が増援のために劉仁軌率いる水軍7000名を派遣し、唐・新羅合同軍は、集中撃破の海戦に転じた。劉仁軌、杜爽、扶余隆が率いた170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と合流、日本軍を挟撃した。
 日本水軍は訓練不足、海戦に不慣れな上、潮の満ち引きの時間、地形、海流の特徴をしらず、火力に劣った。
 あまつさえ大和朝廷側は統合指揮官が不在、作戦も杜撰きわまりなく、戦争慣れした唐は戦術でも猛威を発揮した。こんなときに百済軍は内訌、内紛に明け暮れていた。

 日本船団は白村江への到着が10日遅れ、劣勢挽回とばかり白村江河口に突撃海戦を展開、史書によれば三軍編成をとって4度攻撃したというが、白村江に出航し軍船のうち400隻余りが炎上した。
 筑紫君薩夜麻や土師富杼、氷老、大伴部博麻らが唐軍の捕虜となった(六年後に帰還)。第一派の安曇比羅夫は戦死したらしく、以後九州を拠点において水軍でならした安曇氏は信濃へ移住させられた。
 安曇氏の始祖は『古事記』によれば海神(ワタツミ)である。長野県の安曇野市は安曇比羅夫に由来し、同地の穂高神社の拝殿前、神楽殿の右手にある若宮の祭神は安曇連比羅夫だ。御船祭りは阿曇比羅夫の命日に開催されている。

 天智、天武、持統天皇は海戦敗北に懲りて水軍を立て直した。のちに鎌倉幕府は元寇でフビライ軍を敗退させた。信長は大阪攻めに水軍を強化した。秀吉は嘗てなかった大海軍をつくって朝鮮半島に攻め入った。
 切支丹バテレンを追放し、江戸幕府は鎖国に踏み切るが、天草四郎の乱では、火力をオランダにたよっての辛勝だった。やがて鎖国となり、異国の軍事的脅威が去ると防備は忘れられ、吉宗の代あたりから国防意識は脆弱になった。

 その「平和の時代」に林子平が海防の重要性を説いたのである。
 林子平はまず主要敵であるシナの沿革を説き、「秦始皇帝から漢王朝の時代は「日本の広狭、並びに海路等の事を詳しく知ることができなかったのである。唐の時代には頻繁に日本と往復して、海路や国郡等のことまで詳しく知るようになったけれども、互いに友好関係を深めていたことから、侵攻してくることはなかった。」

 白村江戸前後のことを林子平はこう書いた。
「唐山(唐王朝)の船は長大ではあるが、製造法が拙いため、その船体は頑丈ではない。元より唐山人(シナ人)は船のことを『板』と呼んでいる。心の奥でただの板だと思っており、その板に乗り水を渡って用をなすまでの事だとしか考えていないので、その製造も粗末になるのだ。ただ五色鮮やかな漆喰を用いて塗装することで壮観さを示すだけである。これを破砕するには、大砲や大型の弓を用いて容易に砕けばよい」。

 外観を強そうに飾る。いまも中国海軍は同じではないのか。
 そして戦い方に異国の軍との差違をのべている。
 「異国人と戦う上で最も重要な心得がある。異国人は血戦が得意ではないので、種々の奇術奇法を設けて、互いに相手の気力を奪うことに努める。その国人同士はそれを見抜いて心構えもできているが、そのことを知らない日本人は彼らの奇術に遭えば、恐れ入ってじつに肝を奪われ、臆病を生じて、日本人の得意とする血戦さえも弱くなってしまうのである」
(まさに白村江がそうであった)。

 現代日本、国防論花盛りだが、本書は国家安全保障議論の原典と言える。



 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和四年(2022)10月18日(火曜日)
         通巻第7495号より
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随分間が空いた  (続き)

2022年10月18日 | 心の持ち様
 書き忘れていたけど、「随分間が空いた」というのは以前に
 「これから時々高山氏のエッセイを転載します」
 と言ったようなことを書いていたから。
 いつもの通りで、一時期は熱を出したみたいに熱心に取り組むんだけど、すぐ冷めてしまう、というよりエネルギーが切れてしまう。
 電池切れなら交換すればよいようなものだけど、生身の人間でポンコツな奴だから、なかなか電池交換ができず、気が付いたら電源まで戻って自力で充電することなんてとてもとても。サンバ、じゃない、ルンバはえらい。

 要らんことを書いていたらまた遅くなるので、転載後半です。
 半藤氏は生前、TBSの日曜朝の有名なワイドショーに何度か出ていたんじゃなかったでしょうか。秋霜烈日という言葉がありますが、ちょっとそれに近い雰囲気で物を見ているような、話し方・物言いだったような記憶があります。
 ただ、何だかその厳しさにあまり厚みがないような気がしてモヤモヤしたことも覚えています。対立的には見ても対比的に見ようとはしない、ジグソーパズルのように平面的な整合性は追究しても立体的・重層的に塊として掴もうとはしない。そんな風に感じたのでしょうか。

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  歴史の大家を気取る半藤の「罪」  (続き)

 半藤は文芸春秋に入って松本清張の資料集めやときにはゴーストライターも務めた。勉強家で渉猟した資料はまさに汗牛充棟だろう。でも気に食わないものは見ないふりをする癖があるやに見える。

 例えば『マッカーサーと日本占領』ではひたすらあの米国人を褒め称える。
「マッカーサーは米兵に日本人から食料を調達(略奪)するな」と言った。たったそれだけで「過去の征服軍に例がない」と感涙の賛辞を贈る。
 お言葉だけど日本軍は略奪どころか強姦も何もしなかった。「朝日版支那事変画報」には「農家で買った鶏を首に掛ける日本兵」の写真がある。対して米兵は占領下で強姦も強盗も勝手し放題だった。

 マッカーサーは着任するなり「戦犯39人を吊るせ」と言った。
 リンカーンはスー族を殲滅した後、白人に逆らった酋長38人を同時絞首刑にした。数字にはそういうあからさまな人種偏見がある。そういう史実には一切目をつぶってマッカーサーは正義と寛容の人と褒めそやす。
 「悪いのは日本人」に徹する半藤はだから一切、不都合を書かない。

 この朝日での語りも同じだ。半藤は「勇ましい安倍」を見て「昭和史にも似たようなことがあった」と続ける。「日中戦争が始まった後、ドイツが和平工作に入った」いわゆるトラウトマン工作には日本は応じなかったことを批判する。
 軍を進め南京を落として近衛首相は「蒋介石を相手にせず」と勇ましく言い放った。それで「蒋介石を怒らせ、戦争は泥沼化した」「勇ましい言葉で台無しにした」という風にもっていく。
 一見まともそうだが、「日中戦争が始まった」という言い方はヘンだろう。
 戦争は桜の開花とはわけが違う。誰かが仕掛けるから始まるのだ。

 あのときはドイツが蒋の軍に武器と訓練を施し、米ソも空軍作りを支援して支那と日本を戦わせた。背景には「黄色い日本と支那が手を携えたら白人支配が危なくなる」(ムッソリーニ)という危惧があった。
 日本に負けたドイツの根深い嫉妬もある、アジアに出遅れた米国の思惑もある。何より仕掛けに回ったドイツが蒋介石軍の負けを見て和平工作を持ち出すことをヘンと思わないのか。

 それをすべて無視して「近衛の傲慢な一言がいけなかった」にしてしまう。都合の悪いことは一切書かない朝日新聞と同じだ。
 半藤さんちの月刊「文芸春秋」が全然売れなくなったのも分かる気がする。


 (二〇一七年十一月三十日号)

  新潮文庫 
  「 変見自在 習近平は日本語で脅す」
        高山正之著 より 
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随分間が空いた

2022年10月17日 | 心の持ち様
 歴史の大家を気取る半藤の「罪」

 朝日新聞はどうにも嫌いだ。向こうも思いは同じらしい。先日、朝日新聞が加計学園獣医学部新設問題で加戸前愛媛県知事の国会での発言をボツにした。それを指摘したら朝日から即抗議してきた。

 訂正しなければ朝日のサイトにこの事実を晒し続けるぞと脅しもかけた。
 そういう高圧的な所も嫌だが、何より日本人なのに反日を売りにしているところが最もイヤったらしい。そのためなら嘘も承知で書く。それも実に小まめに。
 天声人語で言えば「二段落ごと」に嘘が入ってくる。

 先日のコラムは江戸時代の隠し田を書いていたが、二段落目に「隠れて耕作したのは重税に喘ぐ農民たちの知恵だろう」とあった。
 あのころは世の中真っ暗で、百姓は飢え、女は売られ・・・・という貧農歴史観に立った言い分だが、それは真っ赤な嘘だ。
 隠し田摘発の検地は秀吉がやった。次は100年も後に綱吉が天領だけ検地した。そうしたら40万石分の隠し田が見つかった。
 将軍様のお膝元でこのありさまだ。諸大名も検地をしたい。でもやる気配だけで百姓は筵旗を持ち出した。一揆になれば代官は切腹で、大名も改易させられる。
 結局、明治まで検地はなし。百姓は好きに隠し田で儲け、武士は曲げわっぱや金魚の養殖でしのいだ。それが事実だ。

 こういう小さい嘘を忍ばすだけじゃない。ときには大嘘も押し付けてくる。
 金正恩が水爆実験をやり、東京を火の海にすると脅したとき、朝日は半藤一利に大いに語らせた。
 彼は「危機は安倍がつくった」と言った。安倍が国連で勇ましく北を叩けと言ったので北が身構え、慌てた米国が空母3隻に重爆撃機まで飛ばしたと分析する。半藤の読みが正しいとすれば安倍の一言半句で北も米国も踊ったことになる。だとしたら安倍も大したものだ。

 大体、半藤の書くものはとても近視眼的で『山本五十六』では先の戦争は条約派と艦隊派の対立が原因としている。米国の思惑や支那の狡さは関係ない。日本の独り相撲にしている。
             (続く)


 新潮文庫 
  「 変見自在 習近平は日本語で脅す」
        高山正之著 より


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 そういえば日韓併合時、それまで治水工事の全くなされていなかった河原の改修工事を行った結果、相当量の田畑を確保できたそうで、それはそこに住んでいる人々(彼の国での身分のまま「○○」と漢字二文字で書きたいんだけど、気が付いたら全て消されてしまっていたので、○○は思い浮かべてください)の土地となった。
 しかし、土地台帳を新しく作る上で「姓」がない彼らは、新しく姓を決めねばならなかった。そこで「創氏改名」ということになる。旧来の「姓」は「系図」がなければ認められないから、勢い日本風の姓をつけることになる。
 で、後の世の人は、「新しく台帳に記載された土地のほとんどは『日本人』が所有している。日本が土地を奪ったんだ!」と結論付ける。

 以前にそれを知った時は、眼からうろこが落ちた気がしたものです。

   ↓  以前に書いた一部
 朝鮮名をつけようとすると、族譜がどうこうという問題が出てくる。
 ならば、日本風の名字をつければ良い。これが「創氏」の実態です。
 「日本名の方が都合が良い、便利だ」、というのは、「日本での生活が」というより、元々、貴族層でも平民でもなかった者が朝鮮の身分制から解放されるということなのです。
 名字のなかった○○が、日本風の名字をつけ、日本に整備してもらった、洪水の心配のなくなった河川敷に住み、そこを田畑にして住所もそこにする。朝鮮人であるよりも、日本人になった方が良い。

 ・・・・・つまり、創氏した「日本人」が河辺の田畑を持った地主になる。
 実情は、だから、「日本人が土地を買い漁って」ではなく、日本によって名前と土地を同時に手に入れた元○○が「日本人になった」ということだ、と。

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