また昔の日記の再掲ですが。
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2010.06/05 (Sat)
先日、或る日記に、
鳩山威一郎→鳩山由紀夫
三島由紀夫→平岡威一郎
と書いてあって、「?何のこと?」と思いました。
鳩山威一郎の息子が鳩山由紀夫、ということは知っていたけど、三島由紀夫の息子が威一郎って名前だと知らなかったものだから、なぜ、これが並記されているのか、が、分からなかったんです。
三島由紀夫の本名は平岡公威(きみたけ)。だから、平岡公威の長男だから、下の「威」の字を名前に入れたのだろう、と何となく思ったんですが、説明されているのを読むと、成程、互いの息子に名前を交換する形でつけた。分からぬでもない。
そう言われてみると、昔々、そんな記事をどこかで見たような、かすかな記憶があるような、ないような・・・・。
いずれにせよ、東大法科を出て、大蔵省に事務官として入省した平岡青年は、既に小説家として名を知られています。
6、7歳年上で、同じ法科から大蔵省に入っていた鳩山威一郎は上司だったんでしょうね。文才を知られていた三島は、何度か大蔵大臣の演説原稿を書かされているのだそうですが、間に鳩山威一郎が入っていたのかもしれません。
三島由紀夫の原稿を、自分の物、という事で喋る大臣。何とも贅沢なものです。
今で言えば、平田オリザの原稿で「命を守りたい」との名(?)演説をやった総理大臣、ですか。比べられませんね。三島由紀夫ですからね。
ただ、三島の原稿はあまり評判が良くなくって、数は少ないのだそうです。
何しろ、簡潔で短く、一通りの意味しか読み取れない。政治家の演説としては不都合なんでしょう。
かと思えば、笠置シヅ子の前に演説をすることになった大臣に、「笠置シヅ子さんの前に、私のようなハゲ頭がしゃしゃり出るのは~」、とやった原稿を渡して、ボツになったとか。
まあ、反骨精神も旺盛だったというか、傲慢だったのか、向こう見ずだったのか。少なくとも、鼻っ柱は強かったみたいですね。
三島由紀夫は先輩、鳩山威一郎の方から「君の名前を息子につけても良いか」と持ちかけられたのでしょうか。対して、それじゃあ、私も、と、威一郎の名前を息子につける。一方はペンネームであり、一方は実名だというところに、両者の関係がよく出ているようです。優秀な先輩と、才能溢れる優秀な部下。
「思い込みの典型みたいな解釈だね」と言われそうですね。
以前に日記で
「お祖父さんが政治家だからと言っても『教えられ方次第』で、麻生太郎にも、鳩山由紀夫にもなるんです」と、書いたことがあります。
「食は三代」と同じく、世襲議員は、世襲制度と同様、有形無形に多くの物を受け継ぎ、そこに又、自分独自のものを苦しみもがいて工夫し、付け加えたり彩色を施したりしてゆきます。
そうやって、連綿と伝統をつなぎながらも、その代独自の名を上げる。「オンリー・ワン」というやつです。
鳩山威一郎という人は、女グセが悪く、奥さんは大変苦労をしたらしい。由紀夫少年は、それを(見たかどうかは知らないけれど)心に刻んだのか、ともかく成り立ちはどうあれ、今に至るも、幸夫人以外、に女の噂はないようです。(後で、色々あったようなことを知りました。弟(鳩山邦夫)の方はちゃんとしていたみたいですが)
色々なことを、色々な形で学んで、当人なりの価値観が形成され、その人なりの人生を歩む。歩みながらも、価値観はどんどん変わる。
「鳩山由紀夫みたいなのを育てた親父だ。碌なもんじゃない。」
「友人なんだから、三島由紀夫だって碌なもんじゃない」
「だから、あんな事件を起こして割腹して死んだんだ。碌なもんじゃない」
何だかちゃんと筋が通っているみたいですが、随分と荒っぽい展開になってしまいますね、これは。まるで社会主義者だ。「理想の未来を追い求める」と言いながら、その過程での、人間の努力、意欲の尊さを、まるっきり無視した解釈です。
意識(認識)、意欲の介在を許さない論理を、唯物論と言います。簡単に言えば、結果だけを見て、物事を全部否定してしまうやり方です。
私は人間の尊厳を信じたい。まずは、「日本文化を持つ、日本」を信じたい。碌なものじゃない、と切り捨てるより、中にある、「我々の宝」をしっかりと見詰めたい。
宝は見詰めなければ見つからないし、努力を続けなければ指の間からこぼれ落ちるものです。
先日、或る日記に、
鳩山威一郎→鳩山由紀夫
三島由紀夫→平岡威一郎
と書いてあって、「?何のこと?」と思いました。
鳩山威一郎の息子が鳩山由紀夫、ということは知っていたけど、三島由紀夫の息子が威一郎って名前だと知らなかったものだから、なぜ、これが並記されているのか、が、分からなかったんです。
三島由紀夫の本名は平岡公威(きみたけ)。だから、平岡公威の長男だから、下の「威」の字を名前に入れたのだろう、と何となく思ったんですが、説明されているのを読むと、成程、互いの息子に名前を交換する形でつけた。分からぬでもない。
そう言われてみると、昔々、そんな記事をどこかで見たような、かすかな記憶があるような、ないような・・・・。
いずれにせよ、東大法科を出て、大蔵省に事務官として入省した平岡青年は、既に小説家として名を知られています。
6、7歳年上で、同じ法科から大蔵省に入っていた鳩山威一郎は上司だったんでしょうね。文才を知られていた三島は、何度か大蔵大臣の演説原稿を書かされているのだそうですが、間に鳩山威一郎が入っていたのかもしれません。
三島由紀夫の原稿を、自分の物、という事で喋る大臣。何とも贅沢なものです。
今で言えば、平田オリザの原稿で「命を守りたい」との名(?)演説をやった総理大臣、ですか。比べられませんね。三島由紀夫ですからね。
ただ、三島の原稿はあまり評判が良くなくって、数は少ないのだそうです。
何しろ、簡潔で短く、一通りの意味しか読み取れない。政治家の演説としては不都合なんでしょう。
かと思えば、笠置シヅ子の前に演説をすることになった大臣に、「笠置シヅ子さんの前に、私のようなハゲ頭がしゃしゃり出るのは~」、とやった原稿を渡して、ボツになったとか。
まあ、反骨精神も旺盛だったというか、傲慢だったのか、向こう見ずだったのか。少なくとも、鼻っ柱は強かったみたいですね。
三島由紀夫は先輩、鳩山威一郎の方から「君の名前を息子につけても良いか」と持ちかけられたのでしょうか。対して、それじゃあ、私も、と、威一郎の名前を息子につける。一方はペンネームであり、一方は実名だというところに、両者の関係がよく出ているようです。優秀な先輩と、才能溢れる優秀な部下。
「思い込みの典型みたいな解釈だね」と言われそうですね。
以前に日記で
「お祖父さんが政治家だからと言っても『教えられ方次第』で、麻生太郎にも、鳩山由紀夫にもなるんです」と、書いたことがあります。
「食は三代」と同じく、世襲議員は、世襲制度と同様、有形無形に多くの物を受け継ぎ、そこに又、自分独自のものを苦しみもがいて工夫し、付け加えたり彩色を施したりしてゆきます。
そうやって、連綿と伝統をつなぎながらも、その代独自の名を上げる。「オンリー・ワン」というやつです。
鳩山威一郎という人は、女グセが悪く、奥さんは大変苦労をしたらしい。由紀夫少年は、それを(見たかどうかは知らないけれど)心に刻んだのか、ともかく成り立ちはどうあれ、今に至るも、幸夫人以外、に女の噂はないようです。(後で、色々あったようなことを知りました。弟(鳩山邦夫)の方はちゃんとしていたみたいですが)
色々なことを、色々な形で学んで、当人なりの価値観が形成され、その人なりの人生を歩む。歩みながらも、価値観はどんどん変わる。
「鳩山由紀夫みたいなのを育てた親父だ。碌なもんじゃない。」
「友人なんだから、三島由紀夫だって碌なもんじゃない」
「だから、あんな事件を起こして割腹して死んだんだ。碌なもんじゃない」
何だかちゃんと筋が通っているみたいですが、随分と荒っぽい展開になってしまいますね、これは。まるで社会主義者だ。「理想の未来を追い求める」と言いながら、その過程での、人間の努力、意欲の尊さを、まるっきり無視した解釈です。
意識(認識)、意欲の介在を許さない論理を、唯物論と言います。簡単に言えば、結果だけを見て、物事を全部否定してしまうやり方です。
私は人間の尊厳を信じたい。まずは、「日本文化を持つ、日本」を信じたい。碌なものじゃない、と切り捨てるより、中にある、「我々の宝」をしっかりと見詰めたい。
宝は見詰めなければ見つからないし、努力を続けなければ指の間からこぼれ落ちるものです。
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今日は三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で割腹、自決した日です。
「野分祭」と呼ばれています。